この種まきのたとえが主として扱っている問題は、種のまかれた土地の状態が、種の成長にどんな影響を及ぼすかということである。このたとえによれば、キリストは実際にこう言っておられるのも同然である。つまり、あなたがたは、わたしの働きを批判的な目で 見て、あなたがたの考え通りにいっていないからといって、失望するのはよくない。あなたにとって1番大切なことは、あなたがわたしの使命をどう扱うかということである。あなたがそれを受けるか拒むかによって、あなたの永遠の運命が決まるのである。 COL 1200.8
主は道ばたに落ちた種を説明して言われた。「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。」 COL 1201.1
道ばたにまかれた種は、神の言葉が、不注意な人の心に落ちた場合をあらわしている。ちょうど、人や牛馬にふまれて道がかたくなっているように、心は世の売買と世の快楽や罪のために固くなっている。その人は、勝手気ままな罪深い生活に心を奪われて、「罪の惑わしに陥って、心をかたくな」にしている(ヘブル3:13)。霊的能力はまひしている。人々はみ言葉を聞いても理解せず、その言葉が自分たちにあてはまっているのを悟らない。彼らは、自分たちの必要も危険も自覚しない。彼らはキリストの愛に気づかない。そして、キリストの恵みの使命も、自分たちにはなんの関係もないもののように無視してしまう。 COL 1201.2
鳥が道ばたの種をすぐに、ついばんでしまうように、サタンは、真理の種を魂から奪い去ろうとまちかまえている。サタンは、神の言葉が不注意な者の目をさまし、かたくなな心をくだくのを恐れている。サタンとサタンに属する悪天使たちは、福音が宣べ伝えられている集会の中に入っている。天使たちが、神のみ言葉によって、人々の心を動かそうとしている時に、敵は、なんとかして、そのみ言葉の力を失わせようと努めている。 COL 1201.3
サタンは、さまざまな悪がしこい方法と熱心さをもって、神の聖霊の働きを妨げる。キリストが愛をもって魂を引き寄せようとなさると、サタンは、救い主を求めてくる者の心を他へそらし、世的な計画に没頭させようとする。また、批評非難の気持ちを起こさせ、疑惑と不信の心をいだかせる。説教者の用語や態度に聴衆が満足しないような場合は、その欠点ばかりが気になるようにしてしまうのである。こうして、彼らが必要としている真理と、神の豊かな恵みも、なんらの永続的印象を心に残さないのである。 COL 1201.4
サタンには、多くの部下がいる。クリスチャンであると称しながら、真理の種を人々の心から奪い取って、サタンの手助けをしている者が多い。説教を聞いて帰って、家でそれを批評の材料にする者が多いのである。彼らは、普通の講演や政治演説の言葉を批評するのと同じように、説教を批評する。神からの言葉として受けるべき使命を、軽々しく茶化してしまう。牧師の品性のことから始めて、その動機と行動、または、教会員の行為に至るまで、無分別に話し合い、手厳しい判断を下し、人のうわさ話や悪口などを未信者のいる前で平気で言うのである。親は子供の聞いている所でよくこうしたことを言う。こうして、神の使者たちに対する尊敬と、彼らの語る使命に対する敬意とを失わせる。そして、多くの者は、神の言葉そのものをも、軽々しく扱うようになってしまうのである。 COL 1201.5
こうしていわゆるクリスチャン家庭で、無神論的教育を受ける者が多い。それなのに、親たちは、子供たちが福音に関心をもたず、聖書の真理を信じようとしないのを不思議に思うのである。また、彼らを道徳的、宗教的感化の中に育てることが、なぜこんなに困難なのであるかと思案する。しかし、子供たちの心をこんなに頑固にしたのは、自分たちであるのに、彼らは気づかない。良い種は、根をおろす土をみつけることができずにいる間に、サタンに奪い取られてしまうのである。 COL 1201.6