エリヤの時代から幾世紀の長きにわたって、彼の生涯の記録は、背信のさなかにあって正義のために立つように召された人々に、霊感と勇気を与えてきた。そして「世の終りに臨んでいる」われわれに、それは特別の意義を持っているのである(Ⅰコリント10:11)。歴史は繰り返されている。今日の世界にもアハブやイゼベルのような人物がいる。現代はエリヤが生存していた時と全く同じように、偶像礼拝の時代である。外面的殿堂はなく、目を向けるべき偶像はないかもしれない。しかし幾千という人々が、富、名声、快楽、また生まれ変わらない心の傾向のままに生きることを許す、耳ざわりのよい話などの、この世の神々に従っている。多くの人々は神と神の属性について誤った考えを抱き、全くバアルの礼拝者たちと同様に偽りの神を礼拝しているのである。キリスト者であると主張している多くの人々でさえも、神と神の真理に絶えず対抗している勢力と結託しているのである。こうして彼らは神から離れて、人間を高めるようになってしまうのである。 PK 458.4
現代広く行きわたっているのは、不信と背信の精 神である。それは真理を知り啓蒙された精神であると言われているのであるが、実は途方もない人間の思いあがりである。人間の理論が高められて、神と神の律法があるべきところにおかれている。サタンは不服従には人々を神のようにする自由と解放があると約束して、彼らを不服徒な生活に誘惑する。神の明白な言葉に対する反対の精神があらわれ、神の啓示よりも人間の知恵が偶像のように賛美されている。人々は世俗の習慣と影響に従ったために心が暗くなり、混乱に陥って光と闇、真理と誤りを区別する力を全く失ってしまったようである。彼らは正しい道から遠く離れ去って、いわゆる哲学者と呼ばれているわずかの人々の意見を、聖書の真理よりもはるかに信頼する価値があると考える。神のみ言葉の訴えと約束、み言葉への不服従と偶像礼拝とに対する刑罰の警告などは、彼らの心をとかす力がないように思われる。彼らはパウロ、ペテロ、ヨハネを動かした信仰は時代遅れで、不可解で、現代の思索家たちの知性に訴える価値がないと思っている。 PK 458.5
はじめに神は、人類が幸福と永遠の生命を得る方法として、神の律法を彼らにお与えになった。サタンが神のみこころを妨害することができるのは、この律法に人々を従わせないようにすることだけである。そして彼の絶え間ない努力は、その教えを誤って解釈し、その重要性を過小評価することであった。彼の最大の攻撃は、律法そのものを変更して、人々にそれに従っていると公言しつつ、その教えに違反させることであった。 PK 459.1
ある著者は神の律法を変更しようとすることを、重要な2つの道の別れ道に立っている道標を、間違った方向に変える昔ながらの悪習にたとえている。こうしたいたずらはしばしば、大きな混乱と苦しみを引き起こしたのである。 PK 459.2
道標はこの世界を旅する人々のために、神がお立てになったものであった。この道標の一方は、創造主に喜んで従うことが幸福と生命の道であることを示し、他方は不服従が不幸と死の道であることを示している。幸福への道は、モーセの律法が行われていた時代に逃れの町への道が明らかに指示されていたように、はっきりと示されていた。しかし、人類にとってこの邪悪な時代においては、あらゆる幸福の大敵が道標を反対にしてしまった。そして、多くの者が道を誤ってしまった。 PK 459.3
主はモーセによって、イスラエルに次のようにお教えになった。「あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され……すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が6日のあいだに天地を造り、7日目に休み、かつ、いこわれたからである」(出エジプト31:13~17)。 PK 459.4
主はこれらの言葉によって、服従が神の都への道であることをはっきりと指示されたのである。しかし、不法の者が道標を変えて、間違った方向に向けてしまった。彼は偽の安息日を制定して、その日に休めば創造主の命令に従っているのだと人々に思わせた。 PK 459.5
神は7日目が主の安息日であると宣言なさったのである。「天と地が……完成した」時に、神はこの日を神の創造の働きの記念として高められたのである。神は「そのすべての作業を終って第7日に休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された」(創世記2:1~3)。 PK 459.6
安息日の制度は出エジプトの時に、神の民の前にひときわ目立つようにもたらされた。彼らがまだ奴隷であったときに、彼らの監督は毎週要求される仕事の量を増加して、強制的に安息日にも働かせようとした。幾度となく労働条件は変えられ、苛酷になっていった。しかし、イスラエル人は奴隷生活から救われて、何の妨げもなく主のすべての戒めを守ることが できる所に導かれたのである。シナイにおいて律法が語られた。そしてその写しが、2枚の石の板に「神が指をもって書かれ」てモーセに授けられた(出エジプト31:18)。そしてイスラエルの人々は、40年近くにわたる彼らの放浪生活において、7日目ごとにマナが降らなかったことと、備え日に降った2倍の量が奇跡的に保存されたこととによって、神がお定めになった休みの日を常に思い起こさせられたのである。イスラエルの人々は、約束の国に入る前に「安息日を守ってこれを聖と」せよという訓戒をモーセから受けた(申命記5:12)。主はイスラエルが安層、日の戒めを忠実に守ることにより、彼らの創造主であり贖い主である主に対する彼らの責任を、常に思い起こすように計画されたのである。彼らが安息日を正しい精神をもって守るならば、偶像礼拝は起こり得ないのであった。ところが、十戒のこの戒めの要求には従わなくてもよいと言ってそれを破棄してしまえば、人々は創造主を忘れて、他の神々を礼拝するのである。「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである」と神は言われた。 PK 459.7
しかし、「彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まずわが安息日を汚した」。そして神は、人々に神に立ち返るように訴えて、安息日を清く守ることの重要性を改めて指摘されたのである。「主なるわたしはあなたがたの神である。わが定めに歩み、わがおきてを守ってこれを行い、わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである」と神は言われた(エゼキエル20:12、16、19、20)。 PK 460.1
主はついに、ユダをバビロンの捕囚に陥れた罪に、彼らの注意を引いて言われた。「あなたは…わたしの安息日を汚した。」「それゆえ、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、わが憤りの火をもって彼らを滅ぼし、彼らのおこないを、そのこうべに報いた」(同22:8、31)。 PK 460.2
ネヘミヤの時代にエルサレムが回復されたとき、安息日を破る人々は、次のように厳しく問いただされた「あなたがたの先祖も、このように行ったので、われわれの神はこのすべての災を、われわれとこの町に下されたではないか。ところがあなたがたは安息日を汚して、さらに大いなる怒りをイスラエルの上に招くのである」(ネヘミヤ13:18)。 PK 460.3
キリストはこの地上の伝道生涯において、安息日が守るべきものであることを強調なさった。彼はそのすべての教えにおいて、彼ご自身がお定めになった制度に対する崇敬の念をあらわされた。彼の時代に安息日ははなはだしく曲解されていて、その順守は神の品性ではなくて、むしろ利己的で独裁的人間の品性を反映していた。キリストは、神を知っていると主張する人々の、神に対する誤った偽りの教えを破棄された。キリストは冷酷な敵意をもったラビたちにつけ回されながらも、彼らの要求に従うふりすらせずに、神の律法に従って断固として安息日を守り通されたのである。 PK 460.4
彼は明白な言葉で、神の律法に対する彼の尊敬について証しされた。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの1つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」(マタイ5:17~19)。 PK 460.5
福音時代を通じて人類の大敵は、第4条の安息日の戒めを特別攻撃の目標にしてきた。サタンは言っている。「わたしは神とは反対の目的をもって働く。わたしは神の記念である7日目の安息日を破棄するように、わたしの手下たちに権限を与える。こうしてわたしは、神によって聖別され、祝福された日が変更されたことを世界に示そう。その日が人々の心に覚えられることはない。わたしはその記憶を消し去る そのかわりに神の証明のない日、神と神の民との間のしるしとなることができない日を設けることにしよう、わたしはその日を受け入れる人々を導いて、神が第7日にお与えになった神聖さをその日に与えるようにさせよう。 PK 460.6
わたしはわたしの代表者によって、わたし自身を高めよう。第1日が尊ばれて、プロテスタント教会は、この偽の安息日を本物として受け入れる。わたしは神が制定された安息日を順守しないことによって、神の律法を侮辱する。『これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしである』という言葉を、わたしのがわの安息日に活用しよう。 PK 461.1
こうして世界はわたしのものになる。わたしは地上の支配者となり、この世の君となる。わたしはわたしの権力下にある者の心を支配して、安息日を特別に侮辱するようにしむける。そのしるしは何であるか。わたしは第7日を順守することを、地上の権力に対する不忠実のしるしとする。人間の法律が非常な厳しさで施行されるので、人々は第7日の安息日を守ろうとしなくなる。食糧や衣類の欠乏を恐れて、彼らは世といっしょになって神の律法に違反する。地は全くわたしの支配するところとなる。」 PK 461.2
敵は偽の安息日を設けることによって、時と律法とを変えようとした。しかし、敵はほんとうに神の律法の変更に成功したであろうか。出エジプト31章の言葉がその答えである。昨日も今日も永遠に変わることのないお方が、第7日について宣言された。 PK 461.3
「これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしである」。「これは永遠に……しるしである」(出エジプト31:13、17)。変更された道標は間違った方向を指してはいるが、神はお変わりにならない。神は今なお、イスラエルの大いなる神である。「見よ、もろもろの国民は、おけのひとしずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる」(イザヤ40:15~17)。そして神は、アハブとエリヤの時代におけると同様に、今日においても神の律法を真剣に擁護されるのである。 PK 461.4
しかしその律法は、なんと無視されていることであろう。見よ、今日、世界は公然と神に反逆している。まことに今日は、忘恩と形式主義、不誠実と誇りと背信に満ちた邪悪な時代である。人々は聖書をおろそかにし、真理を憎んでいる。イエスは彼の律法が拒否され、彼の愛が侮辱され、彼の使者たちが冷淡に扱われるのをごらんになる。彼は憐れみ深い言葉を語られたにもかかわらずそれを認める者はなかった。彼は警告を発せられたにもかかわらず、それを心にとめる者はいなかった。人の心の神殿の庭は、汚れた商売の場と化してしまった。利己心、ねたみ、誇り、悪意などがみな心の中に秘められている。 PK 461.5
少しのためらいもなく神の言葉を嘲笑する者が多い。み言葉をそのまま信じる者は、笑いものにされている。法と秩序がますます軽蔑される傾向にあるが、これは直接、主の明白な命令を破ったことにその原因がある。暴力と犯罪は、服従の道を逸れた結果である。偶像の神殿で礼拝して、いたずらに幸福と平和を求めている群衆の悲惨と不幸とを見よ。 PK 461.6
見よ、安息、日の戒めはほとんど全世界的に無視されている。また、週の第1日のいわゆる神聖さを擁護するために法令を制定するとともに、酒類売買を合法化する法律をつくっている人々の大胆な不信心さを見よ。 PK 461.7
彼らは聖書のみ言葉よりも自分たちが賢明であると考えて、人間の良心を強制しようとする。その反面においては、神のかたちに造られた人間を動物化し、破壊する害悪に賛成しているのである。このような法令の制定を思いつかせたのは、サタン自身である。彼は、神の法令よりも人間の法令を高める者の上に、神ののろいが下ることをよく知っている。そして彼は、できる限りの力を尽くして、人々を滅びに至る広い道へと導こうとするのである。 PK 461.8
人間は長い間、人間の意見と人間の制度とを礼拝してきたために、ほとんど全世界が偶像に従っている。 そして神の律法を変えようとした者は、あらゆる欺瞞的策略を用いて人々を神に対抗させ、また、義人であることを示すしるしに対して反抗させるのである。しかし主は、その律法が何の罰も受けることなくいつまでも破られ、軽蔑されることをお許しにならないのである。「その日には目をあげて高ぶる者は低くせられ、おごる人はかがめられ、主のみ高くあげられる」という時が来る(イザヤ2:11)。懐疑論者は、神の律法の要求をあざ笑って拒否することであろう。世俗の精神は多くの人々を汚染し、少数の人々を支配するに至るだろうが、神の働きは非常な努力とたゆまぬ犠牲によってのみ、その地歩を確保することができる。しかし真理は、ついには輝かしい勝利を収めるのである。 PK 461.9
この地上における神の最後の働きにおいて、神の律法の標準はふたたび高められる。偽りの宗教は普及し、不法ははびこり、多くの人の愛は冷え、カルバリーの十字架は見失われ、死のとばりのような暗黒が世界を覆うことであろう。一般の風潮は、あげて真理に反対するであろう。神の民を滅ぼすために次々と策略がめぐらされることであろう。しかし最大の危機において、エリヤの神は、沈黙させ得ない使命の伝達者を起こされるのである。人口稠密な都市において、また、至高者に反対して語ることがその頂点に達した場所において、厳しい譴責の声が聞かれるのである。神の任命を受けた人々が、大胆に教会と世俗との結合を非難するのである。 PK 462.1
彼らは人間が造った制度を守ることをやめて、真の安息日を守るように熱心に人々に訴えるのである。「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め。」……「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲む」と、彼らはすべての国に宣言するのである(黙示録14:7~10)。 PK 462.2
神はご自分の契約をお破りにならずまたみ口から出たことをお変えにならない。神の言葉は、神のみ座のように変わることなく、永遠に固く立つのである。審判の時に、神の指によって明らかに書かれたこの契約が持ち出されて、世界は無限の神の審判廷に引き出されて、宣告を受けるのである。 PK 462.3
エリヤの時代と同様に今日も、神の戒めを守る人々と偽りの神の礼拝者との間の境界線は、はっきり引かれている。「あなたがたはいつまで2つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」(列王紀上18:21)。そして今日に対する使命は次のとおりである。「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。……」「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる」(黙示録18:2、4、5)。 PK 462.4
すべての人に試練がやってくる時は、あまり遠くはない。われわれは偽の安息日を守るように強制される。それは、神の戒めと人間の戒めとの間の争いである。1歩1歩世俗の要求に屈伏して、世俗の習慣に妥協した人々は、その時、嘲笑、侮辱、投獄と死の脅威にさらされるよりは、地上の権力に従ってしまうのである。その時、金が不純物から分離される。真の敬神深さが、ただうわべだけの見せかけからはっきりと区別される。われわれが輝かしさを賛美した多くの星が、その時暗黒の中に消えていく。聖所の飾りのようなふうをしてはいたが、キリストの義をまとっていなかった人々は、その時裸の恥をさらす。 PK 462.5
各地に散在する地の住民のなかには、バアルにひざをかがめない者がある。夜だけ現れる空の星のように、これらの忠実な人々は、暗きが地を覆い、やみがもろもろの民を覆うときに輝き出るのである。異教のアフリカ、ヨーロッパ、南米のカトリックの国々、中国、インド、海の島々、地のあらゆる暗黒の隅々に、神は、なお、暗黒のただ中に輝き出る選ばれた人々の星空を保っておられる。彼らを通して背信した世界に、神の律法に従うとき得られる人格を改変する力を、明瞭に示しておられるのである。彼らは今でさん あらゆる国民、国語、民族のなかにあらわれている。そしてサタンが、「小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に」、違反者は死刑に処すると言って、偽の休日に対する忠誠のしるしを受けさせる最も暗黒な時に、これらの忠実な人々は、「責められるところのない純真な者となり……傷のない神の子」として、「星のようにこの世に輝いている」(黙示録13:16、ピリピ2:15)。夜が暗ければ暗いほど彼らは明々と輝くのである。 PK 462.6
神の刑罰が背信した人々の上にくだっていた時に、エリヤはイスラエルの数を数えて、何と奇妙なことをしたことであろう。彼は主のがわには、ただ1人しか数えることができなかった。しかし、彼が「ただわたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」と言ったときに、「わたしはイスラエルのうちに7000人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめ…ない者である」という主の言葉に彼は驚いた(列王紀上19:14、18)。 PK 463.1
であるから、今日だれもイスラエルの数を数えることなく、すべての者は肉の心、温かい同情心、キリストのような心をもって失われた世界の救いのために手をさしのべよう。 PK 463.2