パウロは、コリント教会にあてた第1の手紙の中で、地上における神の働きを支持するための一般的原則に関する教えを信者たちに与えた。彼は、彼らのための使徒としての自分の働きについて書き、次のように問うた。 AA 1482.6
「いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているでは ないか。すなわち、モーセの律法に、『穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない』と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである」。 AA 1482.7
使徒パウロは、さらに次のように問うている。「もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである」(Ⅰコリント9:7~14)。 AA 1483.1
パウロは、ここで、神殿の務めをする祭司たちを支えるための主の計画に言及している。この聖職のために選ばれた人々は、彼らが霊的祝福を与えたその兄弟たちによって支えられたのである。「さて、レビの子のうちで祭司の務をしている者たちは、兄弟である民から、……10分の1を取るように、律法によって命じられている」(ヘブル7:5)。レビの部族は、神殿と祭司職に関する聖職のために、主に選ばれた。主は、祭司について、次のように言われた。「あなたの神、主が、……彼を選び出して……主の名によって立って仕えさせられるからである」(申命記18:5)。主は、すべての産物の10分の1を主のものとして要求された。そして主は、10分の1をささげないことを、盗みとみなされるのであった。 AA 1483.2
パウロが「主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである」と言ったのは、伝道を支持するためのこの計画を指していたのである。パウロは、後に、テモテに、「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と書いた(Ⅰテモテ5:18)。 AA 1483.3
10分の1を納めることは、神の務めを支えるための神のご計画の一部にすぎなかった。神は、多くのささげ物や供え物をお定めになった。ユダヤの制度下においては、人々は、神の働きを支えるとともに貧者の欠乏を満たすためにも、物惜しみしない精神を抱くように教えられた。特別な折には、自発的な供え物がささげられた。穀類やぶどうの収穫の時には、畑の初穂、すなわち、穀物、ぶどう、酒、油などを供え物として主にささげた。落ち穂や畑のすみずみは、貧者のために残しておかれた。羊の毛を切った時の羊毛の初穂や、麦を脱穀した時の穀物の初穂も神にささげられた。同様に、すべての動物のういごもささげなければならなかった。そして、人間のういこのためには、あがないの価を払わなければならなかった。初穂は、聖所で主の前にささげられ、それから、祭司たちの用に供されるのであった。 AA 1483.4
主は、このような慈悲深い制度によって、すべての事において、主を第一にすべきことを、イスラエルに教えようとなさった。こうして彼らは、神が彼らの畑、彼らの牛や羊の持ち主であり、神が日光や雨を送って、穀物を生長させ、実らせて下さったことを思い起こさせられたのである。彼らの持ち物は、すべて神のものであった。彼らは、ただ神の物の管理者にすぎなかった。 AA 1483.5
ユダヤ民族よりも、はるかに優れた特権にあずかっているクリスチャンたちが、彼らよりも少なくささげることは、神のみこころではない。「多く与えられた者からは多く求められ」ると救い主は言われた(ルカ12:48)。ヘブル人に要求された物惜しみしない心は、主として、彼ら自身の国の利益のためであった。今日、神の働きは、全世界にひろがっている。キリストは、弟子たちの手に福音の宝をゆだね、救いの喜びの知らせを全世界に伝える責任を彼らに負わせられた。確かに、われわれの義務は古代イスラエルの人々 よりははるかに大きいのである。 AA 1483.6
神の働きが拡張するにつれて、援助を求める声は、ますます頻繁になる。クリスチャンは、そのような声に答えるために、「わたしの宮に食物のあるように、10分の1全部をわたしの倉に携えてきなさい」という命令に留意しなければならない(マラキ3:10)。もしクリスチャンと称する人々が、忠実に10分の1とささげ物を神にささげるならば、神の宝庫は満ちあふれることであろう。そうすれば、福音の事業を支える資金を得るために、バザー、富くじ、娯楽のパーティーなどを開く必要がなくなる。 AA 1484.1
人々は、彼らの金銭を放縦な生活、食欲の満足、装身具、あるいは、家の装飾などのために用いたくなる。多くの教会員は、こうしたことのためには、惜しげもなく、ぜいたくにさえ費やすことを躊躇しない。しかし、地上における神の働きを推進するために、主の宝庫にささげることを求められる時、彼らは異議を唱える。彼らは、多分、何も出さないわけにはいかないと感じて、彼らがむだな放縦のためにしばしば費やすものよりは、はるかに少ない額を、しぶしぶと出すのである。彼らは、キリストの奉仕に対する真の愛を表さず、魂の救いに対する熱烈な関心を示さない。このような人々のクリスチャン生活が、委縮して病的な状態であっても、何の驚くこともないのである。 AA 1484.2
キリストの愛に燃えている人は、人間にゆだねられた最も高尚で最も聖なる働き——恵みとあわれみと真理の富を世界に伝える働き——の進展を援助することは、義務であるばかりでなく、喜びであると思うのである。 AA 1484.3
当然神に属する財産を自己満足のために保留するのは、貪りの精神である。神は、預言者によって神の民を厳しく譴責された時と同様に、今日においても、この精神を憎まれる。主は言われた「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。10分の1と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである」(マラキ3:8、9)。 AA 1484.4
物惜しみしない精神は、天の精神である。この精神は、十字架上のキリストの犠牲に最もよく現されている。父なる神は、われわれのために、神のひとり子をお与えになった。そして、キリストは、ご自分の持っておられたものをすべて与えた上で、人間の救いのためにご自身をお与えになった。カルバリーの十字架は、救い主に従うすべての者の慈悲心に訴えるところがなければならない。そこで明示されている原則は、与えよ、与えよということである。「『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ2:6)。 AA 1484.5
それに反して、自分を愛する精神は、サタンの精神である。世俗の人々の生活にあらわれている主義は、手に入れよ、手に入れよである。こうして、幸福と安楽を得ようと望むのであるが、まいたものの実は、不幸と死である。 AA 1484.6
神がその民を祝福することをおやめにならない限り、彼らも神が要求されるものを神にお返しする義務がある。彼らは、ただ単に、神に属するものをお返しするだけでなくて、感謝のささげ物として、物惜しみせぬささげ物を神の宝庫にたずさえて来なければならない。彼らは喜びにあふれて、受けた賜物の初穂、すなわち、彼らの持ち物の中の最上の物、彼らの最善で最も清い奉仕を、創造主にささげなければならない。こうして彼らは、豊かな恵みを受けるのである。神ご自身が、彼らの心を水の絶えることのない潤った園のようにして下さる。そして、最後の大いなる収穫が集められる時に、彼らが主に持ってくることができた束は彼らにゆだねられたタラントを無私の心で活用したことの報賞となる。 AA 1484.7
神に選ばれ、活動的働きに従事している使者たちは、兄弟たちの同情と心からの援助を受けず、自費で戦いに従事するように強いられてはならない。伝道に献身するために世俗の職業を放棄する人々を、厚く待遇することは、教会員のなすべき務めである。神に仕える伝道者が励ましを受ける時に、神のみわざ は大いに進展するのである。しかし、人々の利己心のために、伝道者の当然受けるべき支援が滞るならば、彼らの手は弱くなり、しばしば彼らの有用性は大いに損なわれるのである。 AA 1484.8
神に従っていると言いながら、献身的な働き人が、生活必需品の欠乏に苦しみながらも活発に伝道に従事しているのを放任する人々に対して、神は怒りを発せられる。これらの利己的な人々は、ただ単に主の金銭の誤用のためばかりでなく、主の忠実なしもべたちになめさせた意気消沈と心の痛みのためにも、申し開きをしなければならないのである。伝道の働きに召され、それに答えて神の働きのためにすべてをささげる者は、その自己犠牲的努力に対して、彼らとその家族を支えるのに十分な給与を受けなければならない。 AA 1485.1
一般の労働においては、知的と肉体的とを問わず、各種の働きの部門で、忠実に働く者はよい給料を得ることができる。真理を伝え、魂をキリストに導く働きは、一般の事業よりさらに重要なのではなかろうか。そして、忠実にこの仕事に従事する者は、十分な報酬を受ける権利があるのではなかろうか。精神的幸福と物質的幸福のための働きの相対的価値をいかに評価するかによって、われわれは、地上のものよりも、天上のものにどれほどの関心を持っているかを示すのである。 AA 1485.2
牧師職を支えるためと、伝道事業の援助の要求に答えるために、金庫に資金があるようにするために、神の民は喜んで惜しみなくささげる必要がある。牧師たちは、常に神のみわざの必要を教会に知らせ、惜しまずささげるように彼らを教育する厳粛な責任が負わされている。もしこれを怠り、教会が、他の人々の必要のために与えることをしなくなると、主の働きに支障をきたすばかりでなく、信者たちに与えられるべき祝福も受け損じるのである。 AA 1485.3
どんなに貧しい者でも、神にささげ物を持って来なければならない。彼らも、自分たちよりもっと困っている人々を助けるために犠牲を払って、キリストの恵みにあずからなければならない。貧者のささげ物、すなわち自己否定の実は、神の前に香ばしい香りとして昇っていく。そして、自己犠牲の行為の1つ1つは、ささげた者の思いやりの心を強める。そしてそれは彼を、富んでおられたのにわれわれのために貧しくなられ、その貧しさによってわれわれが富む者となるようにして下さったお方に、ますます密接に結びつけるのである。 AA 1485.4
自分の持っているすべてであるレプタ2つをさいせん箱に入れたやもめの行為は、貧しさと戦いながらも、ささげ物によって神の事業を援助したいと望んでいる人々の、励ましのために記録された。キリストは、「その生活費全部」をささげたこの婦人に、弟子たちの注意をお向けになった(マルコ12:44)。彼は、自己否定を必要としなかった人々の多額のささげ物よりも、彼女のささげ物のほうを高く評価された。彼らは、ありあまる物の中から、わずかの物をささげた。このやもめは、ささげ物をするために、生活に必要な物をすら犠牲にし、神が明日の必要を満たして下さることを信じたのである。救い主は、彼女についてこう宣言された、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ」(マルコ12:43)。こうして、彼は、ささげ物の価値は、その量ではなくて、ささげられた物の割合と、ささげた人を動かした動機によって評価されることをお教えになった。 AA 1485.5
使徒パウロは、諸教会の中で伝道した時、新しい改心者たちの心に、神のみわざのために大きな事をしようという願いを起こさせようとして、たゆまず努力した。彼は、物惜しみせぬ心を働かせるようにと、たびたび勧告した。パウロは、エペソの長老たちに、自分が以前に彼らの間で働いた時の事を語って言った。「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。彼はコリント人に次のように書いた。「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜し む心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(使徒行伝20:35、Ⅱコリント9:6、7)。 AA 1485.6
マケドニヤの信者たちは、ほとんどすべて、この世の財産は乏しかったが、彼らの心は、神と神の真理に対する愛に燃えていた。そして彼らは、福音を支えるために喜んでささげた。ユダヤの信者たちの救援のために、異邦人教会において広く献金が集められたときに、マケドニヤの改心者たちの物惜しみしない精神が、他の教会の模範として掲げられた。パウロは、コリントの信者たちに手紙を送って、彼らの注意を喚起した。「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは、患難のために激しい試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。……彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出」た(Ⅱコリント8:1~4)。 AA 1486.1
マケドニヤの信者たちの自発的な犠牲は、彼らが真心から献身していた結果であった。彼らは、神の霊に動かされて、「自分自身をまず……主にささげ」、そして、福音を支えるために彼らの財産を進んで惜しみなくささげた(Ⅱコリント8:5)。彼らには、ささげるように勧める必要はなかった。彼らは、他の人々の窮乏を補うために、自分たちに必要な物さえ犠牲にすることを、特権としてむしろ喜んだ。パウロは彼らを抑制しようとしたが、彼らは強いて彼らの献金を受け取らせた。彼らは、素朴で、誠実で、兄弟たちに対する愛をもち、喜んで自己を犠牲にし、慈悲の実を豊かに結んだのである。 AA 1486.2
パウロは、信者たちを励ますためにテトスをコリントへ送った時、施しという善いわざにおいても教会を強化するように彼に指示を与え、信者たちへの個人的な手紙の中でも、彼自身の訴えをつけ加えて、次のように言った。「さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい」。「だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持っているところに応じて、それをやりとげなさい。もし心から願ってそうするなら、持たないところによらず、持っているところによって、神に受けいれられるのである」。「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。……こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである」(Ⅱコリント8:7、11、12、9:8~11)。 AA 1486.3
初代教会は、おのれを忘れて惜しみなく施すことによって、大いなる喜びに満たされた。なぜなら信者たちは、自分たちの努力が、暗黒の中にいる人々に福音の言葉を伝えるのを助けていることを知っていたからである。彼らの物惜しみしない心は、彼らが神の恵みをむだに受けなかったことをあかししている。聖霊のきよめによる以外に、いったい何が、このような寛い心を生じさせることができようか。信者と未信者の目の前において、これは恵みの奇跡であった。 AA 1486.4
霊的繁栄は、クリスチャンの物惜しみしない心と密接につながっている。キリストの弟子たちは、その生活の中にあがない主の恵み深さをあらわすという特権を喜ばなければならない。彼らは、主にささげる時に、彼らの宝が彼らに先だって天の宮廷に行くという保証が与えられる。人々は、自分たちの財産を確保したいと思っているであろうか。それならば、財産を十字架の傷あとのある手にゆだねるとよい。彼らは、資産を享受したいと思っているであろうか。それならば、貧しい人々や苦しんでいる人々のために用いるとよい。彼らは、財産をふやしたいと思っているだろうか。それならば、「あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒 であふれる」という神の命令に耳を傾けるとよい(箴言3:9、10)。もし彼らが、利己的な目的のために、財産を保留しておこうと思うならば、それは永遠の損失になる。しかし、もし宝を神にささげるならば、その瞬間から、それに神の刻印が押される。それは、神の不変性をもって印される。 AA 1486.5
神は、「すべての水のほとりに種をま(く)……あなたがたは、さいわいである」と宣言なさる(イザヤ32:20)。どこにおいても神のみわざのため、またはわれわれの援助を要する人類の窮乏のために、神の賜物を絶えず分け与えたとしても、貧しくなることはない。「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある」(箴言11:24)。種をまく者は、種をまき散らして、増加させる。忠実に神の賜物を分け与える者もこれと同じである。彼らは彼らの祝福を分け与えることによって、増加させるのである。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう」と神は約束しておられるのである(ルカ6:38)。 AA 1487.1