本章はローマ人への手紙に基づく AA 1497.2
パウロは、やむを得ぬ遅延を重ねたあとで、ついにコリントに到着した。ここは彼が、過去において、苦労して働いたところであり、また一時は、彼の深い憂慮の対象であった。彼は、初期の信者たちの多くが、なお彼を、まず最初に福音の光を彼らに伝えた者として愛していることを知った。彼は、これらの弟子たちに会って、彼らの忠誠と熱心の証拠を見たとき、コリントにおける彼の働きがむだでなかったことを喜んだ。 AA 1497.3
かつては、キリストにおける崇高な召しを見失いがちであったコリントの信者たちは、強力なクリスチャン品性を発達させていた。彼らの言葉と行為は、神の恵みの改変力をあらわし、今やあの異教と迷信の中心地において、強固な善のための力となっていた。パウロは、愛する友人たちやこれらの忠実な改心者たちと交わって、彼の労苦と心労に疲れた心に休みが与えられた。 AA 1497.4
パウロは、コリントに滞在していた時に、さらに広大な、新しい伝道地を展望する機会を得た。彼は、特に、ローマへの旅行を切望していた。当時の世界の大中心地において、クリスチャンの信仰が確立されることは、彼の最も切に願った計画の1つであった。ロ―マには、すでに教会が建設されていた。そしてパウロは、イタリアやその他の国々における働きを達成するために、ローマの信者たちの協力を得たいと願ったのである。彼は、これらの兄弟たちの多くをまだ知らなかったので、彼らの間で行う働きの準備として、彼らに手紙を書き、彼のローマ訪問の目的とスペインに十字架の旗を立てたいという希望とを述べたのである。 AA 1497.5
パウロは、ローマ人への手紙の中で、福音の大原則を説明した。彼は、当時ユダヤ人や異邦人の教会において議論になっていた問題についての、彼の立場を表明した。そして、かってはユダヤ人だけに与えられていた希望と約束が、今や異邦人にも与えられていることを示した。 AA 1497.6
パウロは、非常に明快に、力をこめて、キリストを信じる信仰による義の教理を説明した。彼は、ローマのクリスチャンたちに送った教えによって、他の諸教会もまた、助けが与えられるようにと願った。しかし彼は、自分の言葉がどんなに遠大な影響を及ぼすに至るかについては、なんとばく然とした予測しかできなかったことであろう。各時代を通じて、信仰による義という大真理は、大きな灯台のように立って、悔い改める罪びとを生命の道へ導いた。ルターの心を閉ざした暗黒を追い払い、罪を清めるキリストの力を彼に示したのは、この光であった。同じ光が、幾千という罪の重荷に悩む魂を、ゆるしと平和の真の源であられるイエスに導いた。すべてのクリスチャンは、ローマの教会への手紙に対して、神に感謝しなければ ならない。 AA 1497.7
パウロは、この手紙の中で、彼がユダヤ人のために負っている重荷について率直に述べている。彼は、回心以来、ユダヤの兄弟たちが福音の使命をはっきりと理解するよう助けたいと願った。「わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである」と彼は言った。 AA 1498.1
使徒パウロの願望は、ただ普通の願いではなかった。彼は、ナザレのイエスを約束のメシヤとして認めなかったイスラエルの人々のために働かれるよう、たゆまず神に嘆願していた。彼は、ローマの信者たちにはっきり言った。「わたしはキリストにあって真実を語る。……わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな」。 AA 1498.2
ユダヤ人は、神の選民であった。神は、彼らによって、全人類に祝福を与えようとなさった。神は彼らの中に、多くの預言者を起こされた。これらの預言者たちは、あがない主の来臨を預言したのであったが、主は、最初に彼を約束のあがない主として受けいれるはずの人々によって拒否され、殺されるのであった。 AA 1498.3
預言者イザヤは、来るべき幾世紀を展望して、預言者たちが次々に拒否され、ついに神のみ子が拒否されるのをまのあたりに見、以前にはイスラエルの民の中には数えられていなかった人々が、あがない主を受けいれるに至ることを、霊感によって記した。パウロはこの預言について言っている。「イザヤも大胆に言っている、『わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した』。そして、イスラエルについては、『わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた』と言っている」。 AA 1498.4
イスラエルは、神のみ子を拒絶したけれども、神は、彼らを拒絶なさらなかった。さらに続いて、パウロの議論に耳を傾けよう。「そこで、わたしは問う、『神はその民を捨てたのであろうか』。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています』。しかし、彼に対する御告げはなんであったか、『バアルにひざをかがめなかった7000人を、わたしのために残しておいた』。それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる」。 AA 1498.5
イスラエルは、つまずき倒れたが、再起不能になったのではなかった。「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」という問いに対して、パウロは答える。「断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか」。 AA 1498.6
イスラエルの民の間と同様に異邦人の間にも、神の恵みがあらわされることが、神のみこころであった。この事は、旧約聖書の預言の中に明らかに説明されていた。パウロは、彼の議論の中で、これらの預 言を用いている。彼は、次のようにたずねる。「陶器を造る者は、同じ土くれから、1つを尊い器に、他を卑しい器に造り上げる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われっつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かっ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである。『わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう』」(ホセア1:10参照)。 AA 1498.7
イスラエルは、国家として失敗はしたけれども、その中には、救わるべき多くの残りの民が残っていた。救い主が来臨されたとき、バプテスマのヨハネの使命を喜んで受けいれた忠実な男女があった。そして彼らは、こうしてメシヤに関する預言を新たに研究するように導かれたのである。初代教会が設立された時、教会を構成したのは、ナザレのイエスを、長く待望していたかたとして受けいれた、これらの忠実なユダヤ人であった。パウロが、「もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい」と書いたのは、この残りの民のことであった。 AA 1499.1
パウロは、イスラエルの残りの民を、何本かの枝が切り去られた気高いオリブの木にたとえている。彼は、異邦人たちを、元木につがれた野生のオリブの枝にたとえている。彼は、異邦人の信者たちに次のように書いている。「しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。すると、あなたは、『枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった』と言うであろう。まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」。 AA 1499.2
イスラエルは、不信と、イスラエルに対する神のみこころの拒否とによって、国家として神との関係が断たれてしまった。しかし、神は、元木から離れた枝をイスラエルの真の根、すなわち彼らの父祖の神に忠誠をつくした残りの民に、ふたたびつぐことがおできになった。パウロは、これらの切り去られた枝である「彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある」と言っている。彼は異邦人たちに次のように書いている。「なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであ」る。 AA 1499.3
「こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある。『救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である』。福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられることがない。あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けた ように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである」。 AA 1499.4
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。『だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか』。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように」。 AA 1500.1
こうしてパウロは、神がユダヤ人の心も異邦人の心も同様に変える力を十分に持っておられて、キリストを信じるすべての者に、イスラエルに約束された祝福を授けることがおできになることを教えている。彼は、神の民に関するイザヤの宣言をくり返している。「『たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう』。さらに、イザヤは預言した、『もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう』」。 AA 1500.2
エルサレムが破壊され、神殿が荒廃した時に、幾千のユダヤ人が、異邦の地に奴隷として売られた。彼らは、荒涼たる岸辺に打ち上げられた破片のように、各国にまき散らされた。ユダヤ人は、1800年間にわたって、世界の国々をさまよい歩き、どこへ行っても、国家としての昔の威光を回復することができなかった。(注。世界のユダヤ人の中のほんの少数の者が建設した現代のイスラエルの国家は、ダビデとソロモンの治世のイスラエルの威光にとうてい匹敵するものでないことを見ても、この言葉の真実なことが十分証明されている)。彼らは、幾世紀にわたって、人から中傷を受け、憎まれ、迫害されて、苦難をなめなければならないのであった。 AA 1500.3
ユダヤ民族が、ナザレのイエスを拒否した時に、国家としてのユダヤ人に恐るべき運命が宣告されたのであったが、その後の各時代に、多くの気高い、神をおそれるユダヤ人たちが、黙々と苦難に耐えていた。神は、苦難の中にある彼らの心を慰め、彼らの悲惨な境遇をあわれまれた。神は、神のことばを正しく理解するために、一心不乱に探り求める人々の、切なる嘆願の祈りを聞かれた。ある者たちは、彼らの先祖たちが拒否して十字架につけた卑しいナザレ人イエスが、イスラエルの真のメシヤであることを認めるに至った。長い間、伝説と誤った解釈によって認めることができないでいた身近な預言の意味がわかったときに、彼らの心は、言いつくせない賜物のゆえに神に感謝した。この賜物は、神が、キリストを自分の救い主として受けいれるすべての者にお与えになるのである。 AA 1500.4
イザヤが、彼の預言の中で、「救われるのは、残された者」であると言ったのは、この人々のことである。神は、パウロの時代から現代に至るまで、聖霊によって、異邦人と同様にユダヤ人にも呼びかけてこられた。パウロは、「神は人をかたよりみない」方であると言った。パウロ自身、ユダヤ人に対すると同様に、「ギリシヤ人にも未開の人にも、……果すべき責任がある」と考えていた。しかし彼は、ユダヤ人は、「まず第一に、神の言が彼らにゆだねられた」ゆえに、他の民族にまさって決定的優位に立っていることを、忘れなかった。「それ〔福音〕は、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」。パウロがローマ人への手紙の中で恥としないと言ったのは、ユダヤ人にも異邦人にも同様に力のあるこのキリストの福音である。 AA 1500.5
この福音が、十分にユダヤ人に伝えられる時に、多くの者はキリストをメシヤとして受けいれるであろう。牧師たちの中には、ユダヤ人のために働くように召されたと感じる者は、わずかしかいない。しかし、しばしばなおざりにされてきた人々にも、他のすべての 人々と同様に、キリストにある憐れみと希望の言葉を伝えなければならない。 AA 1500.6
福音の宣教が終結を迎え、これまでおろそかにされていた階級の人々に特別の働きが行われる時に、神は、神の使命者たちが、地球の至るところに散在しているユダヤ人に特別の関心を持つことを期待しておられる。旧約聖書が、新約聖書と混ざり合って、神の永遠のみこころを説明していることは、多くのユダヤ人にとって、新しい創造の曙光となり、魂の復活となるであろう。福音時代のキリストが旧約聖書のページに描かれ、新約が旧約を明快に説明しているのを悟る時に、彼らの無気力な感覚が目覚めて、キリストが世界の救い主であることを認めるのである。多くの者が、信仰によってキリストを彼らのあがない主として受けいれる。「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」という言葉が彼らに成就する(ヨハネ1:12)。 AA 1501.1
ユダヤ人の中には、タルソのサウロのように聖書に詳しい人がいて、驚くべき力をもって、神の律法の不変性を宣言する。イスラエルの神は、われわれの時代にこの事を実現して下さる。彼の腕は短くて、救い得ないのではない。神のしもべたちが、長い間おろそかにされ軽べつされていた人々のために、信仰をもって働くときに、神の救いがあらわれる。 AA 1501.2
「それゆえ、昔アブラハムをあがなわれた主は、 AA 1501.3
ヤコブの家についてこう言われる、 AA 1501.4
『ヤコブは、もはやはずかしめを受けず、 AA 1501.5
その顔は、もはや色を失うことはない。 AA 1501.6
彼の子孫が、その中にわが手のわざを見るとき、 AA 1501.7
彼らはわが名を聖とし、 AA 1501.8
ヤコブの聖者を聖として、 AA 1501.9
イスラエルの神を恐れる。 AA 1501.10
心のあやまれる者も、悟りを得、 AA 1501.11
つぶやく者も教をうける』」 AA 1501.12
(イザヤ29:22~24)。 AA 1501.13