本章は使徒行伝25:1~12に基づく AA 1518.6
「さて、フェストは、任地に着いてから3日の後、カイザリヤからエルサレムに上ったところ、祭司長たちやユダヤ人の重立った者たちが、パウロを訴え出て、彼をエルサレムに呼び出すよう取り計らっていただきたいと、しきりに願った」。彼らは、このように願い出て、エルサレムへ行く途中で待ち伏せして、彼を殺す考えであった。しかし、フェストは、彼の立場の責任を認めていたので、パウロを呼び出すことを、ていねいに断った。彼は次のように言った。「訴えられた者が、訴えた者の前に立って、告訴に対し弁明する機会を与えられない前に、その人を見放してしまうのは、ローマ人の慣例にはないことである」。カイザリヤに、 「自分もすぐ……帰ることになっている……『では、もしあの男に何か不都合なことがあるなら、おまえたちのうちの有力者らが、わたしと一緒に下って行って、訴えるがよかろう』」と彼は言った。 AA 1518.7
これは、ユダヤ人が欲したことではなかった。彼らは、前にカイザリヤで失敗したことを忘れてはいなかった。パウロの沈着な態度と強力な弁論とに比較して、彼ら自身の悪意に満ちた精神と根拠のない告訴は、いかにも見苦しい光景を呈した。彼らは、ふたたび、裁判のためにパウロがエルサレムに送られることを求めたが、フェストは、カイザリヤにおいてパウロを公正に裁判しようと固く決意したのである。神は摂理のうちに、フェストの決心を良い方に導き、パウロの命を延ばされたのであった。 AA 1519.1
ユダヤ人の指導者たちは、彼らの計略が阻止されたので、直ちに、総督の法廷でパウロを告訴する準備をした。フェストは、数日エルサレムに滞在したあとで、カイザリヤに帰り、「その翌日、裁判の席について、パウロを引き出すように命じた」。「エルサレムから下ってきたユダヤ人たちが、彼を取りかこみ、彼に対してさまざまの重い罪状を申し立てたが、いずれもその証拠をあげることはできなかった」。ユダヤ人は、今回は弁護人なしで、自分たちで告訴することにした。裁判が進行するにつれて、パウロの沈着さと虚心坦懐とは、彼らの供述が偽りであることを明らかに示した。 AA 1519.2
フェストは、議論している問題が全くユダヤ人の教義に関するものであって、パウロには何1つ告訴に該当するものはなく、パウロは死刑の宣告、いや投獄の宣告にさえ当たらないことを、正しく理解した。しかし、もしパウロが罪に定められず、あるいは、彼らの手に渡されないとするならば、どんなに彼らが怒り狂うかが、フェストにはよくわかった。そこで、フェストは、「ユダヤ人の歓心を買おうと思って」、パウロに向かい、彼がフェストの保護のもとにエルサレムへ行って、サンヒドリンの裁判を受けたいかどうかと尋ねた。 AA 1519.3
パウロは、罪のゆえに神の怒りを招いている人々から、正しい裁判を期待することができないのを知っていた。彼は、預言者エリヤのように、天の光を拒否し、福音に対して心をかたくなにした人々よりは、異邦人の間のほうが、安全であることを知っていた。訴訟にうみ疲れ、彼の活動的な精神は、幾度もの遅延と、未決のままの長期にわたる裁判と監禁とに、耐えられなくなった。そこで、彼は、ローマの市民としての特権を活用して、カイザルに上訴することに決めた。 AA 1519.4
パウロは、総督の問いに答えて言った。「わたしは今、カイザルの法廷に立っています。わたしはこの法廷で裁判されるべきです。よくご承知のとおり、わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことをしてはいません。もしわたしが悪いことをし、死に当るようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに、なんの根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」。 AA 1519.5
フェストは、ユダヤ人がパウロを殺害しようと陰謀をめぐらしていたことを何も知らなかったので、カイザルへのこの上訴を聞いて驚いた。しかし、パウロの言葉は、法廷の審議を終結させた。「そこでフェストは、陪席の者たちと協議したうえ答えた、『おまえはカイザルに上訴を申し出た。カイザルのところに行くがよい』」。 AA 1519.6
こうして、神のしもべは、もう1度、偏見と自己を義とする精神から生じた憎しみのために、異邦人の保護を求めなければならなくなった。預言者エリヤはこの同じ憎しみを避けて、ザレパテ(サレプタ)のやもめの助けを求めなければならなかった。そしてまた、この僧しみのゆえに、福音の使者たちはユダヤ人を離れて、異邦人に彼らの使命を伝えなければならなくなった。そして、現代の神の民は、今なお、同じ憎しみに当面しなければならない。キリストの弟子であると自称する多くの人々の中には、ユダヤ人の心の大半を占めていたのと同じ誇りや形式主義や利己主義、同じ圧迫の精神が存在しているのである。将来、キリストの代表者であると主張する人々が、キリストと使徒たちをあしらった祭司やつかさたちと同様の行為をするであろう。やがて、神に忠実なしもべたちが 通過しなければならない大いなる危機において、彼らは、同様の心のかたくなさ、同様の残酷な決意、同様の頑強な僧しみに出会わなければならない。 AA 1519.7
来るべき悪しき日において、良心の命じるところに従って、恐れることなく神に仕えようとする者はすべて、勇気と堅実さと、神および神のことばに対する知識を持っていなければならない。神に忠実な者は、迫害を受け、その動機は疑われ、その最善の努力は曲解され、その名は悪しき者として除外される。サタンは、あらゆる欺瞞の力を用いて人々の心に働きかけ、理解力をにぶらせ、悪を善と見せかけ、善を悪と見せかけようとする。神の民の信仰が強く純潔であればあるほど、そして、神に従おうとする彼らの決意が固ければ固いほど、サタンは、義人であると主張しながら神の律法をふみにじっている人々の怒りを、彼らに対して燃えたたせようとする。ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰を固く保っていくには、最も堅固な信頼と最も英雄的な意志がなければならない。 AA 1520.1
神は、神の民が、間もなくやってくる危機に対して準備することを望んでおられる。準備があろうとなかろうと、彼らは、みなそれに当面しなければならない。そして、神の標準にその生活を一致させた者だけが、試練と試みの時に固く立つことができるのである。世俗の統治者たちが、宗教界の指導者たちと連合して、良心の問題について命令を発する時に、真に神を恐れ神に仕える者がだれであるかが、はっきりするのである。暗黒がその極に達する時に、神に似た品性の光が、最も輝かしく照りはえるのである。他のすべてのより頼むものが倒れ去る時、主に固く信頼する者がだれであるかが、わかる。真理の敵があたり一面にいて、主のしもべたちに災いをもたらそうとしているときに、神は彼らを保護して、幸いをもたらされる。神は、彼らにとって、疲れた地にある大きな岩の陰のようになられるのである。 AA 1520.2