使徒の時代にキリスト教の信者たちは、真剣さと熱意に満たされていた。彼らは主のためにたゆまず働いたので、激しい反対があったにもかかわらず、比較的短い間にみ国の福音は地上の人の住む所へもれなく伝えられた。この時イエスに従った者たちがあらわした熱意は、後世の信者たちの励ましのために、霊感による筆によって記録された。主イエスが使徒の時代におけるキリスト教会全体の象徴としてお用いになったエペソの教会について、忠実なまことの証人であられるかたが次のように宣言された。 AA 1576.6
「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった」(黙示録2:2、3)。 AA 1576.7
最初は、エペソの教会の経験は子供のような単純さと熱情が特徴だった。信者たちは神のみことばにことごとく従おうと熱心に努めた。そして彼らの生活は、キリストに対する熱烈で誠実な愛をあらわした。彼らは心にキリストが内住しておられたので、神のみ こころを行うことを喜んだ。あがない主に対する愛に満たされ、彼らの最高の目標は、魂を主に導くことであった。彼らはキリストの恵みの尊い宝を死蔵しようとは思わなかった。彼らは自分たちの召しの重要さを自覚し、「地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」という使命を担って、地の果てにまで救いのよいおとずれを運んで行きたいという願いに燃えた。そして世は、彼らがイエスと共にいたことを知るようになった。悔い改め、ゆるされ、きよめられ、聖なるものとされた罪深い人々が、み子を通して神との共労者になった。 AA 1576.8
教会員は心も行動も一致していた。キリストに対する愛が、彼らを共に結び合わせる金の鎖であった。彼らは主を更にもっと完全に知ろうとした。そして彼らの生活にキリストの喜びと平安があらわされた。彼らは困っている孤児ややもめを見舞い、みずからは世の汚れに染まずに身をきよく保った。そして、この事がうまくできなければ、自分たちの信仰の表明に矛盾し、あがない主を拒むことになると悟っていた。 AA 1577.1
どの町でもみわざが進められていた。魂が改心し、こんどは彼らがこれまでに受けた計り知れない宝を他人に教えなければならないと感じた。彼らは、自分たちの心を照らしてくれた光が、他の人々の上にも輝かないうちは心が安まらなかった。不信仰な人々の多くはクリスチャンの希望の理由を知らされた。誤っている者、見棄てられている者、また、真理を知っていると言いながら、神よりも快楽を愛する者たちに、個人的に、霊感による温かい訴えがなされた。 AA 1577.2
しかし、しばらくして信者たちの熱意が衰えはじめて、神に対する愛も、お互いに対する愛も薄らいできた。冷淡さが教会にしのび込んだ。真理を受けた時のすばらしい方法を忘れる者もいた。以前の標準を保持していた者が1人ずつその持ち場で失格した。このような開拓者たちの重荷を分担し、こうして賢い指導の準備ができていたはずの若い働き人の中には、しばしば繰り返される真理にあきてしまった者たちがいた。彼らは新奇でびっくりさせるようなものを望み、教理の新しい面を紹介して、多くの人々を喜ばせようとしたが、それは福音の根本的な原則に一致 していなかった。彼らは自信と霊的盲目から、このようなこじつけが多くの人々に過去の経験を疑わせて、やがて混乱と不信へ導くということを見きわめることができなかった。 AA 1577.3
このような誤った教理がしきりに説かれた時、意見の相違が出てきて、多くの人々の目がそれ、彼らの信仰の創始者また完成者としてのイエスを見なくなった。教理の重要でない部分を討論したり、人の作ったおもしろい話にふけり、福音を宣伝することに費やされなければならない時間が浪費された。真理が忠実に伝えられれば、罪が自覚されて、改心したはずの多くの人々が、警告を与えられずに放置された。敬虔さが急速に薄らいで、サタンがキリストに従う者たちだと主張する人々をまさに支配するかのように見えた。 AA 1577.4
ヨハネが流刑を言い渡されたのは、教会歴史の中の、この危機の時であった。教会にとって今ほど彼の声を必要とする時はなかった。ヨハネが以前に共に伝道の働きをしていた仲間たちはほとんど全部殉教の死を遂げていた。残った信者たちは激しい反対に直面していた。外見はどう見ても、キリストの教会の敵たちが勝利する日が、それほど遠くないようであった。 AA 1577.5
しかし主は暗やみの中で見えないみ手を動かしておられた。神のみ摂理のうちにヨハネは、キリストがご自身について、また、諸教会を啓発するための神の真理についての、驚くべき黙示をお与えになることができるところへ導かれたのであった。 AA 1577.6
ヨハネを追放することで真理の敵たちは、神の忠実な証人の声を永久に沈黙させたいと思っていた。しかし、パトモス島においてこの弟子は1つの使命を受けたのである。この使命の感化は終わりの時まで教会を絶えず力づけるのであった。ヨハネを追放した人々は、彼らの誤った行為の責任を解かれたのではないが、天の計画を進めるために神の手中にある道具となった。そして光を消そうとしたその努力そのものが真理をくっきり浮き立たせた。 AA 1577.7
栄光の主がこの追放された使徒に現れたのは、安息日のことであった。ヨハネは、ユダヤの町や都市で人々に説教していた時と同じように、パトモス島においても安息日を聖く守っていた。彼はその日に関して与えられていた尊いみ約束を自分のものとして求めた。「わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。その声はこう言った、『あなたが見ていることを書きものにして……教会に送りなさい』。そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、7つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に……人の子のような者がいた」と、ヨハネは書いている(黙示録1:10~13)。 AA 1578.1
愛されたこの弟子は豊かな恵みにあずかっていた。彼は、ゲッセマネで主を見ていた。主のみ顔は苦悩の血のしたたりを残していた。主の「顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていた」(イザヤ52:14)。ヨハネは、ローマの兵士たちに捕らえられ、古い紫の衣を着て、いばらの冠をかぶったキリストを見ていた。カルバリーの十字架にかけられ、残酷な嘲笑と悪口を浴びせられたキリストを見ていた。今、ヨハネは、もう1度主を見ることを許された。しかしキリストの姿は、なんと違っていたことだろう。キリストはもはや、人々に軽蔑され、侮辱されている悲しみの人ではない。キリストは神々しく輝いた衣を着ておられる。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようで……その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであ」る(黙示録1:14、15)。その声は大水の響きのようであり、その顔は太陽のように輝いている。その手には7つの星を持ち、口からはみことばの力の象徴である鋭いもろ刃のつるぎがつき出ている。パトモスはよみがえられた主の栄光でまばゆく輝いている。 AA 1578.2
「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな』」とヨハネは書いている(黙示録1:17)。 AA 1578.3
ヨハネはあがめられた主のみ前で生きることができるように力づけられた。それから驚いているヨハネの目の前に、天の栄光が開かれた。彼は神のみ座を見ることを許され、この世の闘争のかなたを見上げて、白い衣を着たあがなわれた者たちの群れを見た。ヨハネは天使たちの音楽と、小羊の血によって勝利した人々の勝利の歌と、彼らのあかしの言葉を聞いた。彼に与えられた黙示には、神の民が経験する胸をおどらせるような興味深い場面が次々に展開され、教会の歴史が終わりの時まで予告された。数や象徴で、非常に重要な事がヨハネに示された。そしてヨハネは、彼の時代や未来の各時代に生きる神の民が、やってくる危難や闘争を賢明に理解することができるように、それを記録しなければならなかった。 AA 1578.4
この黙示は、紀元後の全時代にわたって教会を導き慰めるために与えられたのであるが、それでも宗教家たちは、それが封じられた書物であって、その秘密は説明できないと主張してきたのである。そのために多くの者たちは、その預言的記録から身をそらし、時間をかけてその奥義を研究することを拒んだ。しかし神は、その民がこの書をそのようにみなすようには望んでおられない。それは「イエス・キリストの黙示」であり、「この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え……たものである」。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである」と、主は言われる(黙示録1:1、3)。「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』」(黙示録22:18~20)。 AA 1578.5
黙示録には神の奥義が描かれている。その霊感 による書に与えられている名、まさしく「黙示録」は、これが封じられた書であるという供述とは矛盾している。黙示とは、何か表されたもののことである。主ご自身がこの書に含まれている奥義を、そのしもべに表された。そして主は、その奥義がすべての人々に公開されて研究されるようにと意図されている。その真理は、ヨハネの時代に生きていた人々と同様に、この地上歴史の最後の時代に住む人々にもあてられている。この預言に描かれている場面のあるものは過去に起こったものであり、あるものは今起こりつつある。またあるものはやみの権力と天の君との大争闘の終結を見させ、またあるものは新しくされた地に住むあがなわれた者たちの勝利と喜びを表している。 AA 1578.6
黙示録に書かれているすべての象徴の意味を説明できないからといって、そこに含まれている真理の意味を知るために、この書を探る努力をしても無益だと思ってはならない。ヨハネにこれらの奥義を表された方は、真理の熱心な探求者に天の事柄を前もって知らせて下さるのである。真理を受けるために心を開いている人たちは、その教えを理解できるようになり、「この預言の言葉を……聞いて、その中に書かれていることを守る者たち」に約束されている祝福を与えられるのである。 AA 1579.1
黙示録において聖書のすべての書が出会い、そして終わる。これはダニエル書を補って完成させるものである。一方は預言で他方は啓示である。封じられていた書は黙示録ではなく、ダニエルの預言の中で終わりの時代について述べている部分であった。天使は命じた、「ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい」(ダニエル12:4)。 AA 1579.2
使徒ヨハネに、彼の前に開かれるはずのことを記録するようにお命じになったのは、キリストであった。「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある7つの教会に送りなさい」と、キリストは命じられた。「わたしは……生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。……あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。あなたがわたしの右手に見た7つの星と、7つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、7つの星は7つの教会の御使であり、7つの燭台は7つの教会である」(黙示録1:11、18~20)。 AA 1579.3
7つの教会の名は、西暦紀元の異なる時代における教会を象徴している。7の数字は完全を表し、これらのメッセージが時の終わりまで及んでいることを象徴している。また、用いられている象徴は、この世界歴史におけるそれぞれ異なる時代の教会の状態を表している。 AA 1579.4
キリストは金の燭台の間を歩いているように述べられている。これはキリストと教会の関係を象徴したものである。キリストは絶えずその民と交わっておられる。主は彼らの真の姿を知っておられる。彼らの状態、敬虔さ、献身を見ておられる。主は天の聖所の大祭司であり、仲保者であるが、地上にあるご自分の教会の間を歩く方として表されている。キリストはたゆまず目をさまし、絶えず気を配りながら、見張り番の灯が暗くなったり消えたりしないように見守っておられる。もし燭台が単に人間にゆだねられるなら、ゆらめく炎は衰えて消えてしまうであろう。しかしキリストは主の家の真の見張りであり、宮廷の真の番人である。キリストの絶えざる守りと恵みによる支えは、いのちと光の源である。 AA 1579.5
キリストは右手に7つの星を持つ方として表されている。これは、ゆだねられたことに忠実な教会は、失敗に終わることをおそれる必要がないことをわれわれに確証している。なぜなら、全能の神に守られている星は、1つでもキリストの手から奪われることはないからである。 AA 1579.6
「右の手に7つの星を持つ者……が、次のように言われる」(黙示録2:1)。この言葉は教会の教師たち、すなわち、神から重い責任を負わされている人々に語られている。教会に豊かになければならないすばらしい祝福は、キリストの愛を表すはずの神の牧師と切り離せない関係にある。天の星はキリス トの支配下にある。キリストは星を光で満たされる。また、その運行を導き、指示される。もしキリストがこれをなさらなければ、それらは落星になるであろう。牧師たちもそれと同様である。彼らは主のみ手の中にある道具にすぎない。そして、彼らがなし遂げるすべてのよいことは、キリストの力を通してなされる。彼らを通してキリストの光が輝き出なければならない。救い主が彼らの能力とならなければならない。キリストがみ父をご覧になるように彼らがキリストを見るならば、彼らはキリストの働きをすることができるようになる。彼らが神を頼みの綱とするならば、神はこの世にあらわす輝きを彼らにお与えになるのである。 AA 1579.7
教会歴史の初期に、使徒パウロが預言した不法の秘密の力がその有害な働きを始めていた。そして、すでにペテロが信者たちに警告していたにせ教師たちが異説を勧めると、多くの者たちは誤った教理に誘惑された。ある者は試練にあってよろめき、誘惑されて信仰を捨てた。ヨハネがこの黙示を与えられた時、多くの人たちは福音の真理に対する最初の愛をすでに失っていた。しかし神は憐れみによって、教会を堕落の状態に放置されなかった。無限のやさしさを持ったメッセージの中で、神は彼らに対する愛と、永遠をめざして確実な働きをするようにという神の願いをお示しになった。「そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい」と、主は戒められた(黙示録2:5)。 AA 1580.1
教会は不完全で、きびしい譴責やこらしめが必要であった。そこでヨハネは、福音の根本的な原則を見失って救いの望みを危くしている者たちに、警告し、譴責し、懇願する使命を、霊感を受けて書いたのである。しかし、神が、必要と考えて送られる譴責のことばはいつでも、やさしい愛により、後悔している信者一人一人に平安の約束を与えて語られる。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と、主は述べておられる(黙示録3:20)。 AA 1580.2
戦いのさなかにいて神への信仰を持ちつづけなければならない人たちのために、この預言者は賞賛と約束のことばを与えられた。「わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。……忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう」。信者たちは次のように訓戒された、「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい」。「わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい」(黙示録3:8、10、2、11)。 AA 1580.3
「兄弟であり、共に……苦難……にあずかっている」とみずから名のる者を通して、キリストは、ご自身のために彼らが苦しまなければならないことを教会にお示しになった(黙示録1:9)。幾世紀もの暗黒と迷信の時代を見通して、この年老いた流刑者は、真理を愛するがゆえに殉教の死を遂げる多くの人たちを見た。しかし彼は、また、初期の証人たちを支えて下さった方は、忠実に従ってくる者たちを、世の終末の前に通過しなければならない迫害の時代にもお見捨てにならないということも見ていた。「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは……苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」と、主は言われる(黙示録2:10)。 AA 1580.4
ヨハネは、悪と戦う忠実な者たちみんなに与えられた約束を聞いた、「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう」。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちようど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座につ いたのと同様である」(黙示録2:7、3:5、21)。 AA 1580.5
ヨハネは神の憐れみとやさしさと愛が、神の神聖と正義と力とにとけ合っているのを見た。彼は罪人がその罪のために神をおそれていたが、神の中に父を発見しているのを見た。また、大争闘が頂点に達したそのかなたを見たとき、「ガラスの海のそばに……うち勝った人々が、神の立琴を手にして立」ち、「モーセの歌」と小羊の歌とを歌っているのを、シオンの上に見た(黙示録15:2、3)。 AA 1581.1
救い主は「ユダ族のしし」また、「ほふられたとみえる小羊」の象徴でヨハネに提示されている(黙示録5:5、6)。これらの象徴は全能の力と自己犠牲の愛の結合を表している。ユダのししは、神の恵みを拒む者には恐ろしいものであるが、従順で忠実な者には神の小羊となる。神の律法を犯した者にとっては恐怖と怒りを表している火の柱は、神の十戒を守る人々にとっては光と憐れみと救出のしるしである。反逆者を打つ強い腕は、忠実な者を救い出す強い腕になる。忠実な者は誰でも救われる。「彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイ24:31)。 AA 1581.2
世界の人口に比べれば、神の民は、常にそうであったように、ごく小さな群れであろう。しかし彼らが、みことばに示されている真理に立つならば、神は彼らの逃れの場となって下さる。彼らは全能の神の広い盾のもとに立つのである。神は常に多数を占めておられる。最後のラッパが死人の獄屋に響きわたり、義人が勝利して、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか」と叫びながら出て来て、神とキリストと天使たちと、そしてすべての時代の忠実で真実であった者たちと共に立つ時、神の子らははるかに大多数になるのである(Ⅰコリント15:55)。 AA 1581.3
キリストの真の弟子たちは、克己をつらぬき通し、苦い失望を経験し、苦しい戦いをやり通して、キリストに従う。しかしこれは彼らに罪の深さと苦悩を教え、彼らは罪を憎悪するようになる。キリストの苦しみを共に受ける者たちは、キリストの栄光をも共に受けることになっている。預言者ヨハネは、聖なる幻の中に神の残りの教会の究極的な勝利を見た。彼はこう記している。 AA 1581.4
「わたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに……うち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、『全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります』」(黙示録15:2、3)。 AA 1581.5
「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、14万4千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」(黙示録14:1)。この世において彼らの心は神にささげられていた。彼らは知性と心で神に仕えた。そして今、神は「その額に」神の名を記すことがおできになる。「そして、彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22:5)。彼らは場所を請い求める者たちのように出たり入ったりしない。彼らは、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」と、キリストが言われる人たちの仲間である。神は彼らを神の子らとして迎え、「主人と一緒に喜んでくれ」と言って下さる(マタイ25:34、21)。 AA 1581.6
「彼らは……小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である」(黙示録14:4)。この預言者の幻は、彼らがシオンの山の上に立っているように描いている。聖なる儀式に備え、白い麻布を着ているが、それは聖徒たちの正しい行いである。しかし天において小羊に従う者たちはみな、まずこの地上で、いらだったり気まぐれにではなく、羊の群れが羊飼いに従うように、信頼し、慕い、喜んで服従しながら主についてきていなければならない。 AA 1581.7
「わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前……で、新 しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた14万4千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。……彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」(黙示録14:2~5)。 AA 1581.8
「わたしはまた……聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た」。「その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。それには大きな、高い城壁があって、12の門があり、それらの門には、12の御使がおり、イスラエルの子らの12部族の名が、それに書いてあった」。「12の門は12の真珠であり、門はそれぞれ1つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである」(黙示録21:2、11、12、21、22)。 AA 1582.1
「のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照」す(黙示録22:3~5)。 AA 1582.2
「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、12種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす」。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(黙示録22:1、2、14)。 AA 1582.3
「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、 AA 1582.4
『見よ、神の幕屋が人と共にあり、 AA 1582.5
神が人と共に住み、 AA 1582.6
人は神の民となり、 AA 1582.7
神自ら人と共にいま』す」(黙示録21:3)。 AA 1582.8