本章は使徒行伝17:11~34に基づく AA 1443.1
ベレヤでパウロは、彼が教えた真理を熱心に調べているユダヤ人を見いだした。彼らについてルカの記録はこう述べている、「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシャの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった」。 AA 1443.2
ベレヤに住む人々の心には、偏見のための狭量さはなかった。彼らは、使徒の語った教理の真実性を熱心に調べていた。彼らは、好奇心からではなく、約束のメシヤについて書かれていることを知りたいと思って、聖書を研究し、日々、霊感によって書かれた記録を調べた。そして、彼らが聖句と聖句を比べる時に、天のみ使いがそのそばにいて彼らの心を照らし、心に感銘を与えた。 AA 1443.3
福音の真理が宣べ伝えられるところではどこででも、正しいことをしたいと心から願う人々が、聖書を熱心に調べるよう導かれる。この地上の歴史が閉じられようとする状況にあって、特別の真理を聞かされる人々が、ベレヤの人々の模範に従い、日々聖書を調べて、神のみことばと彼らに伝えられた使命を比べようとするならば、神の律法の教えに忠実なものが、いま比較的少数しかいないところに、今日、もっと多くいるはずである。しかし、人々が好まない聖書の真理が示されるとき、多くの人々はこのように熱心に調べることを拒むのである。聖書の明白な教えに論駁できなくても、彼らはなお、示されている証拠を学ぶことに全く気が進まないのである。ある者たちは、これらの教理が本当に正しいとしても、その新しい光を受け入れるかどうかは大したことではないと考えて、敵が人々をさまよわせるために用いる面白いつくり話に執着している。こうして彼らの心は誤りにくらまされて、天から離れてしまうのである。 AA 1443.4
すべての者は、与えられた光に応じて裁かれる。主は、救いの使命を携えて行く使者をつかわされ、聞く者たちに、神のしもべたちの言葉をどのように扱うかについて責任を負わせられるのである。真理を心から探し求めている人々は、彼らに提示された教理を、神のみことばに照らして、注意深く研究するのである。 AA 1443.5
テサロニケにいる信仰を持たないユダヤ人たちは、使徒たちを嫉妬し、憎んで、町から彼らを追い出しただけでは満足せず、ベレヤへと追って行き、下層階級の激しやすい感情をかき立てて、彼らに逆らわせた。もしパウロがそこにとどまっていれば、彼らがパウロに暴力を振るうことを恐れて、兄弟たちは、新しく信仰を受け入れていたベレヤの人々の何人かを供につけて、パウロをアテネへ送った。 AA 1443.6
こうして迫害は、町から町へ真理の教師たちを追った。キリストの敵は、福音の進展を阻止することはできなかったが、使徒たちの働きをひどく困難なものにさせることには成功した。しかし反対や衝突に接しながらなお、パウロは着実に前進し、「わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」と、エルサレムで幻のうちに見せられたように、神の御目的を果たす決意をしていた(使徒行伝22:21)。 AA 1443.7
パウロはベレヤから急いで出て行ったため、これまでテサロニケの兄弟たちを訪問しようと計画していた機会を奪われた。 AA 1443.8
使徒パウロはアテネに着くと、シラスとテモテにすぐ来るようにとの伝言を託して、ベレヤの兄弟たちを送り返した。テモテはパウロの出発に先立ってベレヤに来ていて、すでにここで順調に始められていた働きを継続し、新しい改宗者たちに信仰の原則を教えるために、シラスと一緒にとどまっていた。 AA 1443.9
アテネという都市は異教の首都であった。ここでパウロが出会ったのは、ルステラの時のような無知で軽々しく信じやすい民衆ではなく、知性と教養で知られている人々であった。ここではいたるところで彼ら の神々の像や、歴史や詩に出てくる、神格化された英雄の像が目につき、また壮麗な建築物や絵画が、国家の誇りと、異教の神々への民衆の礼拝を表していた。人々の感覚は、芸術の美と華麗さに魅せられていた。どちらを向いても、費用を惜しまず建てられた寺院や神殿の巨大な姿がそびえたっていた。軍事上の勝利や有名な人の行為が、彫刻や神社や石碑によって記念されていた。これらすべてが、アテネを巨大な画廊にしていた。 AA 1443.10
パウロは、周囲の美しい、堂々たる光景を見わたし、町全体が偶像崇拝に陥っているのを見て、いたるところで侮辱されている神のために、嫉妬をかき立てられた。そして、知的文化が進んでいながら、真の神を知らないアテネの人々を、あわれむ気持ちになった。 AA 1444.1
使徒パウロは、この学問の中心地で見た事物によって惑わされはしなかった。彼の霊性は生き生きと天の事柄に向けられていたので、滅びることのない喜びと栄光の富から見れば、周囲の華麗さ、壮麗さは無価値なものと映った。彼はアテネの壮麗さを見たとき、芸術や学問を愛する人々を支配する誘惑的な力を悟り、自分の前にある働きの重要性に深く心を動かされた。 AA 1444.2
真の神が礼拝されていないこの大都市で、パウロは孤独感におそわれ、共労者の同情と助けを切望した。人間的な友情に関するかぎり、彼は自分が全く1人であると感じた。パウロはテサロニケ人への手紙の中でこの感情を「わたしたちだけがアテネに留まる」という言葉の中に表している(Ⅰテサロニケ3:1)。打ち勝ち難いと思われる障害が彼の前に立ちはだかっていて、人々の心に到達しようという試みはほとんど望みがないように思えた。 AA 1444.3
パウロは、シラスとテモテを待っているあいだ、何もせずに時間を過ごしたのではない。彼は「会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた」。しかしアテネでのパウロの主な仕事は、神について、また、堕落した人類のための神の目的について、知的な概念のない人々に、救いのおとずれを携えて行くことであった。使徒パウロはまもなく、最も巧妙で、魅惑的な形態の異教思想に出会うのであった。 AA 1444.4
アテネの偉大な人々は、まもなく、新しい聞きなれない教理を人々に提示している変わった教師が彼らの町に来ていることを知った。これらの人々のある者たちが、パウロを捜し出して、彼と話を交わすようになった。すぐに彼らのまわりに、耳を傾ける人垣ができた。ある者たちは、社会的にも知的にも彼らよりはるかに劣っている者としてパウロをからかうつもりで、仲間同志であざけるように言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていた」ので「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。 AA 1444.5
広場でパウロに会った人々の中には「エピクロス派やストア派の哲学者数人も」いたが、彼らも、また、パウロと接触するようになった人たちもみな、彼が自分たちよりももっと大きな知識の宝庫を持っていることがすぐにわかった。パウロの知的能力は学問のある人たちの尊敬を集め、また彼の熱心で筋道だった議論と雄弁の能力は、すべての聴衆の注意を引いた。聴衆はパウロが未熟者ではなく、自分の教える教理を擁護し、説得力のある議論であらゆる階級の人々を迎えることができることを認めた。こうして使徒パウロは、恐れることなく立って、反対者たちに彼ら自身の土俵で応じ、論理には論理を、哲学には哲学を、雄弁には雄弁をもって対処した。 AA 1444.6
パウロに反対する異教徒たちは、異国の神々について説明したために死刑の判決を下されたソクフブスの運命に注意を向けさせ、彼も同じ道をたどって生命を危うくせぬようにと、パウロに忠告した。しかしパウロの説教は人々の注意を引き、彼のゆるぎない知識は人々の尊敬と称賛の的となった。パウロは哲学者たちの哲学や、皮肉によって沈黙させられるようなことはなかった。そこで人々は、パウロが自分の使命を彼らの中で果たし、万難を排しても自分の話を語ろうと決意していることに満足し、彼の話をまともに聞くことにした。 AA 1444.7
そこで彼らはパウロをアレオパゴスに案内した。これはアテネ中で一番神聖な場所の1つで、これにまつわる追憶や連想から、ある人々はこの場所に対して、心の中に恐怖に等しい迷信的な尊敬をいだいていた。ここで宗教に関係のある事柄が、重要な民事上の問題や道徳上の問題について最終的な裁判官をつとめる人々によって、注意深く検討されることがよくあった。 AA 1445.1
騒音やざわめきのある往来の雑踏から離れ、また、雑多な議論の騒ぎから離れたこの場所で、パウロは中断されることなく話を聞いてもらうことができた。彼のまわりには詩人、芸術家、哲学者、すなわちアテネの学者や賢人たちが集まり、彼に話しかけた、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。君がなんだか珍しいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」。 AA 1445.2
その責任ある厳粛な時に、パウロは冷静、沈着であった。彼は大切な使命に対する重荷を感じた。そして、彼の語る言葉は聞く者たちに、彼がくだらぬおしゃべりをしているのではないことを納得させた。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」とパウロは言った。彼らはあらゆる理解力と常識をもってしても、宇宙を創造された神について知らなかった。しかし中に、より偉大な知識を求めている者たちがいた。彼らは無限の神に向かって手をのばしていた。 AA 1445.3
偶像のぎっしり並んだ神殿のほうへ、手をのばして指さしながら、パウロは心の重荷を思うままに述べ、アテネ人の宗教の虚偽を暴露した。聴衆の中の最も賢明な人たちは、パウロの議論を聞いて驚いた。パウロは彼らの芸術、文学、宗教によく通じていることを示した。彼は彫刻や偶像を指さして、神は人間が考え出したこんな形に似せられるものではないと断言した。これらの刻まれた像は、どんな意味においても、主なる神の栄光を表すものではなかった。パウロはこれらの像には生命がなく、ただ人間の力にあやつられ、人間の手によって動かされる時だけ動くにすぎないこと、したがってこれらの像を拝している人間の方が、礼拝されている像よりもあらゆる点においてすぐれていることを彼らに気づかせた。 AA 1445.4
パウロは偶像に心酔している聴衆の心を、彼らが「知られない神」と呼んでいたまことの神に対する、誤った宗教観から抜け出させようとした。今、パウロが彼らに伝えようとしている神は、人間とは独立した存在であり、人間の手によってその方の権威と栄光に加えるべきものは何もなかった。 AA 1445.5
人々は真の神の属性、すなわち神の創造力や神の支配的な摂理の存在についての、パウロの熱心で論理的な説明に感心して、われを忘れていた。使徒パウロは熱心に、激しく、雄弁に語った、「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え」ておられる。全天は神を入れるほど十分に大きくはない。ましてや人間の手で造られた宮などは小さすぎるのである。 AA 1445.6
人間の諸権利が認められないことがしばしばあった、当時の階級制の時代に、パウロは神が「ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ」てくださったことを述べて、人類同胞についての偉大な真理を明らかにした。神の御目には、すべての者は同等であった。また、人はその造り主に絶対に従う義務があるのだった。それから使徒パウロは、神と人とのすべての関係において、神の恵みと憐れみの意図が、1本の金の糸のように貫いていることを示した。神は「それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれ一人一人 から遠く離れておいでになるのではない」。 AA 1445.7
パウロは自分の周囲にいる立派な人格者たちを指して、彼らのある詩人の言葉を借りて無限の神をみ父として描き、彼らがその神の子らであると言った。「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。 AA 1446.1
神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」。キリストの来臨に先だった暗黒の時代に、支配者であられる神は、異教徒の偶像礼拝を見過ごしておられたが、今、神はみ子を通して真理の光を人々にお与えになり、貧しくつつましい者ばかりでなく、誇り高い哲学者やこの世の君主たちすべてが、救いを得させる悔い改めに導かれるようにと望んでおられた。「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。パウロが死者の復活について語ると、「ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、『この事については、いずれまた聞くことにする』と言った」。 AA 1446.2
こうして、異教の学問の中心地アテネにおける使徒パウロの働きは終わった。アテネ人は偶像礼拝に堅くしがみついていて、真の宗教の光から離れ去った。国民が彼ら自身の業績に全く満足しているとき、彼らはほとんど見込みがないのである。アテネの人々は、学問があって洗練されていることを誇っていたが、ますます堕落し、偶像崇拝のあいまいな神秘にますます満足していった。 AA 1446.3
パウロの言葉を聞いた人々の中には、真理がその心に示されて確信を与えられた者たちがいたが、彼らはへりくだって神を認めようとも、救いの計画を信じようともしなかった。どんなに雄弁な言葉も、議論の力も、罪人を改心させることはできない。神の力だけが、心に真理を注ぐことがおできになる。この力からかたくなに身をかわそうとする者は、真理に達することができない。ギリシャ人は知恵を求めていたが、十字架の使命をばかげたことと思っていた。彼らは天来の知恵よりも、自分たち自身の知恵をもっと高く評価していたからである。 AA 1446.4
福音の使命がアテネ人のあいだで比較的成功しなかった理由は、知性と人間の知恵に対する彼らの誇りの中に見いだされるであろう。この世の賢い人々で、迷える貧しい罪人としてキリストのもとへくる者は、救いにいたる知恵を持つようになるが、著名な者として自分の知恵を称揚しながらやってくる人々は、神だけがお与えになれる光と知識を受けることができないであろう。 AA 1446.5
こうしてパウロは、当時の異教思想に出会った。アテネにおける彼の働きは、全くむだになったわけではない。最も有名な市民の1人であるデオヌシオや、その他の幾人かが福音使命を信じ、信者たちと全く1つに結ばれた。 AA 1446.6
霊感は、知識と洗練と芸術を身につけていたにもかかわらず、なお、悪に落ち込んでいたアテネ人たちの生活を、われわれにかいま見させてくれたが、それは神が、ご自分のしもべを通して、どれほど偶像崇拝や、人々の高慢と自己満足の罪を譴責されたかを、示すためであった。霊感の筆によって描かれた使徒パウロの言葉と、彼の態度や境遇についての描写は、きたるべきすべての世代に伝えられ、彼のゆるぎない確信、孤独と逆境の中における勇気、そして異教のただ中で彼がキリスト教のために獲得した勝利について、あかしするのであった。 AA 1446.7
パウロの言葉は、教会のための知識の宝を含んでいる。彼は、誇り高い聴衆を刺激するような言葉を軽々しく口に出すことによって、困難を招きかねないような立場にあった。もし彼の演説が、彼らの神々や町の有力者に対する直接の攻撃だったら、彼はソクラテスの運命にあう危険に陥ったであろう。しかし天来の愛から生ずる機知をもって、彼は人々の知ら ない真の神を彼らに示しながら、人々の心を異教の神々から注意深く引き離した。 AA 1446.8
今日、聖書の真理は、この世の偉大な人々の前に示されなければならない。それは彼らが、神の律法に従うか、悪の王に忠誠を誓うかを、選ぶことができるためである。神は永遠の真理、すなわち救いに至る知恵を与える真理を彼らに与えられるが、それを強制的に受けさせることはなさらない。もし彼らが真理から離れるならば、彼ら自身の行いの実に満たされるままにしておかれるのである。 AA 1447.1
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある」。「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(Ⅰコリント1:18、19、27、28)。最もすぐれた学者や政治家、この世の最も傑出した人々の多くは、終末の時代には天の光から身をかわすであろう。この世は自分の知恵によっては神を認めるに至らないからである。しかし、神のしもべたちは、これらの人々に真理を伝えるために、あらゆる機会を利用しなければならない。ある人々は、神の事柄に無知であったことを悟り、大教師イエスのみ足のもとに、謙遜な生徒として身を置くであろう。 AA 1447.2
上層階級の人々を動かすためのあらゆる努力に対して、神の働き人は強い信仰が必要である。見たところとても不可能に思えるかもしれないが、最も暗黒の時にも上のほうには光がある。神を愛し神に仕える者の力は、日に日に新たにされる。彼らが神のご計画を遂行する時に間違いを犯さないように、必要な時にはいつでも無限の神の英知が与えられる。このような働き人は、最初の確信を最後までしっかりと持ち続け、神の真理の光が、この世界をおおっている暗黒のさなかに輝かねばならないことを覚えねばならない。神の奉仕に関して、落胆があってはならない。献身した働き人の信仰は、それを試すためのすべての試みに耐えなければならない。神は、ご自分のしもべたちが必要とするすべての力を、喜んでお与えになることができるし、また、さまざまな必要から彼らの求めている知恵を、お与えになることができるのである。神はご自身に信頼する者の最高の期待以上のことを実現してくださるのである。 AA 1447.3