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われわれの責任は何か GCJap 525

こうしたことを考える時、真理の使者の義務は何であろうか。真理を伝えても、人々はその主張を避けるか、または反抗するに至るだけの場合がよくあるから、真理は伝えるべきではないと結論すべきであろうか。そうではない。反対を引き起こすからと言って、神の言葉のあかしを差しひかえる理由は、初期の改革者たちになかったと同様に今もないのである。聖徒や殉教者たちの行った信仰の告白は、後の時代のために記録された。これらの人々の聖潔と揺るがぬ誠実の生きた模範は、今日神のための証人として立つように召された者たちを励ますために、語りつがれてきた。彼らが恵みと真理を受けたのは、自分たちのためだけでなく、彼らを通して、神の知識が地を輝かすためであった。神は、この時代の神のしもべたちに、光を与えておられるであろうか。それならば、彼らは世界にそれを輝かさなければならない。 GCJap 525.1

主は、昔、主の名によって語った者に次のように言われた。「イスラエルの家はあなたに聞くのを好まない。彼らはわたしに聞くのを好まないからである」。にもかかわらず、主はこう言われた。「彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない」(エゼキエル書3章7節、2章7節)。現代の神のしもべには、「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ」という命令が与えられている(イザヤ書58章1節)。 GCJap 525.2

真理の光を受けた者はみな、機会があるかぎり、イスラエルの預言者と同様に厳粛で恐るべき責任を負わせられている。主は預言者に次のように言われた。「それゆえ、人の子よ、わたしはあなたを立てて、イスラエルの家を見守る者とする。あなたはわたしの口から言葉を聞き、わたしに代って彼らを戒めよ。わたしが悪人に向かって、悪人よ、あなたは必ず死ぬと言う時、あなたが悪人を戒めて、その道から離れさせるように語らなかったら、悪人は自分の罪によって死ぬ。しかしわたしはその血を、あなたの手に求める。しかしあなたが悪人に、その道を離れるように戒めても、その悪人がその道を離れないなら、彼は自分の罪によって死ぬ。しかしあなたの命は救われる」(エゼキエル書33章7~9節)。 GCJap 526.1

真理を受け入れ、それを伝えるにあたっての大きな障害は、そこに不都合と恥辱が含まれていることである。これは、真理の擁護者たちが反論できなかった唯一の真理反対論である。しかし、このことも、キリストの真の弟子たちを思いとどまらせはしない。彼らは、真理の受けがよくなるまで待ったりなどしない。彼らは、自分たちの義務を確信して、進んで十字架を負い、使徒パウロとともに、「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる」とみなし、古代の聖徒とともに、「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考え」るのである(コリント第二・4章17節、ヘブル11章26節)。 GCJap 526.2

口では何を言っていようとも、宗教的な事柄において、原則によらないで策を弄して行動する者は、内心で世俗に仕えている者にほかならない。われわれは、正しいことを、それが正しいことであるがゆえに選び、結果は神にゆだねなければならない。世界の大改革は、原則と信仰と勇気の人々によって行われたのである。そのような人々によって、この時代の改革も推進されなければならない。 GCJap 527.1

主は、こう言われる。「義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。人のそしりを恐れてはならない、彼らのののしりに驚いてはならない。彼らは衣のように、しみに食われ、羊の毛のように虫に食われるからだ。しかし、わが義はとこしえにながらえ、わが救はよろず代に及ぶ」(イザヤ書51章7、8節)。 GCJap 527.2