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失われた永遠の生命 GCJap 616

エデンの中央にいのちの木が生えていて、その実には、生命を永続させる力があった。もしアダムが神に従っていたなら、この木に自由に近づくことができて、永遠に生きたのである。しかし罪を犯した時に、彼は、いのちの木の実を食べることができなくなり、死ぬべきものとなった。「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」との神の宣告は、生命が完全に断たれることを示している。 GCJap 616.1

服従することを条件として人間に約束された不死は、戒めにそむいたために失われた。アダムは、自分が持っていないものを子孫に伝えることはできなかった。もし神が、み子の犠牲によって、不死を与えてくださらなかったら、堕落した人類に生きる望みはなかったのである。「すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」が、キリストは、「福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである」(ローマ5章12節、テモテ第二・1章10節)。しかも不死はキリストによってのみ獲得することができるのである。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがない」とイエスは言われた(ヨハネ3章36節)。だれでも条件に応じさえすれば、この貴重な祝福を手に入れることができる。「耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ」るのである(ローマ2章7節)。 GCJap 616.2

アダムに向かって、服従することなしに生命を約束したのは、大欺瞞者サタンだけであった。そして、エデンの園でへびがエバに言った「あなたは決して死ぬことはないでしょう」という言葉は、霊魂の不滅について語られた最初の説教であった。しかも、サタンの権威だけに基づくこの宣言が、キリスト教界の講壇から繰り返して叫ばれ、そして、われわれの祖先が受け入れたように、人類の大部分は、簡単にそれを受け入れているのである。「罪を犯す魂は死ぬ」という神の宣言が、罪を犯す魂は死なないで永遠に生きるという意味に解されている(エゼキエル書18章20節)。サタンの言葉は軽々しく信じながら、神のみ言葉はなかなか信じようとしない人々の不思議な迷妄には、驚かずにはいられないのである。 GCJap 617.1

もし人間が、堕落後もいのちの木に近づくことが許されたとすれば、人間は永遠に生きることになり、こうして罪は永遠に続いたであろう。しかし、ケルビムと炎のつるぎが、「命の木の道」を守っていたので、アダムの家族の者はだれ一人、その柵を越えて、いのちを与える実を食べることができなかった(創世記3章24節)。だから永遠に生きる罪人はいないのである。 GCJap 617.2