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永遠の生命か、永遠の滅びか GCJap 629

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6章23節)。義人の嗣業は生命であるが、悪人が受けるものは死である。モーセは、イスラエルに次のように宣言した。「見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた」(申命記30章15節)。この聖句の中で言われている死は、アダムに宣告された死ではない。なぜなら、全人類が彼の罪の報いを受けているからである。永遠の生命と対照されているのは、「第二の死」である。 GCJap 629.3

アダムの罪のために、死は全人類に及んだ。だれでも同じように墓に下って行く。そして、救いの計画が設けられたことによって、すべての者が、墓からよみがえらせられるのである。「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえる」「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」(使徒行伝24章15節、コリント第一・15章22節)。しかし、よみがえらせられる二種類の人々は、はっきりと区別されている。「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネ5章28、29節)。復活に「あずかるにふさわしい」者たちは、「さいわいな者であり、また聖なる者である」「この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない」(黙示録20章6節)。しかし、悔い改めと信仰によって許しを受けなかった人々は、罪の刑罰すなわち、「罪の支払う報酬」を受けなければならない。 GCJap 630.1

彼らは、「そのしわざに応じて」長さと激しさの異なる刑罰を受けるが、ついには、第二の死に終わる。罪のうちにある罪人を救うことは、神の正義と憐れみからいって不可能なために、神は罪人からその存在を剥奪される。彼は罪のゆえに、生きる権利を喪失し、生きるにふさわしくないことを証明したのである。霊感を受けた筆者は言っている。「悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない」。また別の筆者は宣言する。彼らは「かつてなかったようになる」(詩篇37篇10節、オバデヤ書16節)。彼らは、はずかしめを受けて、希望のない永遠の滅びに沈むのである。 GCJap 630.2

こうして、罪と罪の結果であるあらゆる災いと破滅が終わりを告げる。詩篇記者は、「あなたは……悪しき者を滅ぼし、永久に彼らの名を消し去られました。敵は絶えはてて、とこしえに滅び」と言っている(詩篇9篇5、6節)。黙示録の中で、ヨハネは、永遠の世界を予見し、不調和な音が一つもない全宇宙の賛美の歌を聞いている。天地のすべての被造物が、神に栄光を帰していた(黙示録5章13節参照)。その時には、永遠の刑罰を受けて苦しみながら神を汚す失われた魂などいないのである。地獄の哀れな魂の叫びが、救われた者の歌に混じることなどないのである。 GCJap 630.3