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患難から栄光へ

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    第二六章   植える者と水をそそぐ者

    本章は使徒行伝第一八章一八節-二八節に基づくAAJ 290.1

    コリントを去ってのち、パウロの次の働き場はエペソであった。彼は、近づいていた祭りに出るために、エルサレムに向かう途中であった。だから、エペソでの逗留とうりゅうは当然短期間であった。彼は会堂にはいって、ユダヤ人たちと論じたが、彼らに与えた印象がとても良かったので、彼らはパウロにそこで働きを続けてくれるようにと懇願した。彼にはエルサレムを訪問する目的があったので、その時はぐずぐずそこに留まっていられなかったが、「神のみこころなら」また戻ってくると約束した。アクラとプリスキラは彼と共にエペソに来ていたが、パウロはふたりをそこに残して、彼の始めた仕事を続けさせた。AAJ 290.2

    このとき、「アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人が、エペソにきた」。彼はバプテスマのヨハネの説教を聞き、悔い改めのバプテスマを受けていて、預言の働きがむだでなかったことを示す生きた証人であった。アポロについての聖書の記録によると、彼は「主 の道に通じており、また、霊に燃えてイエスのことを詳しく語ったり教えたりしていたが、ただヨハネのバプテスマしか知っていなかった」。AAJ 290.3

    ところで、彼はエペソで、「会堂で大胆に語り始めた」。聞いていた者たちの中にアクラとプリスキラがいたが、このふたりは彼がまだ福音の光を十分に受けていないことに気がつき、「彼を招きいれ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた」。このふたりから教えられて、アポロは聖書についてのいっそう明らかな理解を得、キリスト教信仰の最も有能な主唱者の一人になった。AAJ 291.1

    アポロがアカヤに行きたいと願っていたので、エペソにいる兄弟たちは、「彼を励まし、先方の弟子たちに」、キリストの教会に完全に調和する教師として、「彼をよく迎えるようにと、手紙を書き送った」。彼はコリントに行き、そこで、公の伝道や戸ごとの訪問により「イエスがキリストであることを、聖書に基いて示し・・・・ユダヤ人たちを激しい語調で論破した」。パウロが既に真理の種を植えていたが、今、アポロはそれに水をやったのである。福音の宣教にアポロは成功したが、このためにある信者たちは、アポロの働きをパウロの働きよりもほめそやすようになった。このように人と人を比較することで教会に党派心が生じ、福音の進展が非常に阻まれそうになった。AAJ 291.2

    パウロは、コリントで過ごした一年半のあいだ、つとめて福音を単純に説いてきた。「すぐれた言葉や知恵を」携えてコリント人のところに行ったのではなく、恐れと不安を抱きながら「霊と力との証明に」より、「神のあかし」を宣べ伝えたのであった。「それは・・・・信仰が人の知恵によらないで、神の 力によるものとなるためであった」(コリント第一・二ノ一、四、五)。AAJ 291.3

    パウロは当然のことだが、教会の状態に応じて教える方法を考えた。「兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない」と、パウロは後になって彼らに説明した(コリント第一・三ノ一、二)。パウロが彼らに教えようと努力していた教えを学ぶのに、コリントの多くの信者たちは時間がかかった。彼らの霊的知識の発達は、彼らが受けた特権や機会と釣り合っていなかった。彼らがクリスチャン経験をかなり積んで、みことばのより深い真理を理解し、実行していなければならない時に、彼らは、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」とキリストが弟子たちに言われたときの弟子たちの場所に立っていた(ヨハネ一六ノ一二)。嫉妬や邪悪な憶測や非難が、コリントの多くの信徒たちの心を閉ざしていて「すべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめる」聖霊の十分な働きを妨げていた(コリント第一・二ノ一〇)。彼らはこの世的な知識においてどんなに賢くとも、キリストを知る知識においては幼児にすぎなかった。AAJ 292.1

    コリントの改宗者たちに、キリスト教信仰の基礎的なことを、まさにその初歩を教えるのが、パウロの仕事であった。パウロは彼らを、神の力が人の心に働きかけることを知らない人々として指導せざる を得なかった。そのころ、彼らは救いの奥義を理解することができなかった。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(コリント第一・二ノ一四)。パウロは種をまくように努めた。そして他の人々がそれに水をまくのである。彼の後につづく者たちは、彼のやり残したその場所から働きを引き継ぎ、教会が耐えられる程度に応じて、時にかなった霊的光と知識を与えねばならない。AAJ 292.2

    使徒パウロは、コリントで働きを始めたとき、彼が教えたいと思っていた偉大な真理を、最も慎重に紹介しなければならないと悟った。聴衆の中には、人間の理論を得意になって信奉するものや、誤った礼拝制度の代弁者もいて、彼らは聖書に示されている霊的な永遠の生命という現実に矛盾するような理論を、自然という書物の中に見つけたいと、見えない眼で模索していることを、パウロは知っていた。また、批評家たちが、啓示されているみことばについてのキリスト教の解釈を論駁ろんばくしようとしたり、懐疑主義者がキリストの福音を愚弄ぐろうし、嘲笑ちょうしょうするだろうということも、パウロは知っていた。AAJ 293.1

    パウロは、人々を十字架のもとに導く努力をするにあたって、放縦な者たちを直接に譴責けんせきしたり、尊い神の御目に彼らの罪がいかに憎むべきものかを示したりはあえてせず、むしろ、人生の真の目的を彼らに示し、天来の教師の教えを彼らの心に刻みつけようとした。もしその教えを受け入れるなら、彼らは世俗と罪から純潔と義へと高められるのであった。パウロは特に、神の国に住むにふさわしいと見な される者たちが到達しなければならない、実際的な信仰と聖潔を強調した。彼らの不道徳な行為が、神の御目にいかに不快なものであるかがわかるよう、彼らの心の暗やみをキリストの福音の光が貫くのを見たいと、彼は願った。したがって、彼らのあいだでの彼の教えの重荷はキリスト、しかも十字架につけられたキリストであった。彼らの最も熱心な学びと、最大のよろこびが、神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰を通して得られる、すばらしい救いの真理でなければならないことを、パウロは彼らに示そうと努めた。AAJ 293.2

    哲学者は救いの光から身をかわす。それが彼の誇る理論の面目をつぶすからである。また世俗的な者も救いの光を拒む。それがこの世の偶像から彼を引き離そうとするからである。人々がキリストを愛したり、信仰の目で十字架を見ることができるようになる前に、キリストの品性が理解されねばならないことを、パウロは知っていた。永遠にわたって、あがなわれた者の科学となり歌となる学びは、ここで始まらねばならない。十字架の光によってのみ、人間の魂の真の価値が計られるのである。AAJ 294.1

    人を洗練する神の恵みの感化力は、人の生まれつきの性質を変える。天国は世俗的な心を持つ者には好ましいところではない。彼らの生来の、きよめられていない心は、純潔で神聖な場所になんの魅力も感じないであろう。また、たとえ彼らが天国にはいれたとしても、彼らに合ったものは何も見いだせないであろう。堕落した人間が天国に入るにふさわしくなり、純潔で聖なる天使たちとの交わりを楽しむためには、まず、生まれながらの心を支配している性癖が、キリストの恵みによって和らげられねばな らない。人が罪に死んで、キリストにある新しい命に生き返るとき、神の愛がその心を満たす。彼の知力はきよめられる。彼はよろこびと知識の尽きぬ泉から飲み、永遠の日の光が彼の道を照らす。いのちの光であられるかたが、絶えず彼と共におられるからである。AAJ 294.2

    パウロは、彼も彼の共労者たちも、真理を教えることを神からゆだねられた者たちに過ぎず、みな同じ働きに携わり、みな同じように仕事の成功を神により頼んでいることを、コリントの兄弟たちにしっかり理解させようと努めた。それぞれの働き人の優劣に関して教会内に起こった論争は、神のご計画に沿ったものではなく、生来の性質を大事にかかえていた結果であった。「ある人は『わたしはパウロに』と言い、ほかの人は『わたしはアポロに』と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」(コリント第一・三ノ四-七)。AAJ 295.1

    コリントではじめて福音を宣べ伝え、そこに教会を組織したのはパウロであった。これは主が彼に割り当てられた働きであった。のちになって、神の導きのもとに、他の働き人たちがそれぞれの役割と立場を占めるために連れて来られた。まかれた種には水をやらねばならない。これをするのがアポロであった。彼はパウロの働きを引き継いで、さらに教えを与え、まかれた種が成長するのを助けた。彼は人 人の心をとらえたが、数を増やしてくださったのは神であった。品性を変える働きをするのは、人間ではなく、神の力である。植える者や水をそそぐ者が、種の成長をもたらすのではない。彼らは、神に任命された代理者として、神と協力しながら、神のもとで働くのである。成功に伴う名誉と栄光は、主なる働き人、神のものである。AAJ 295.2

    神のしもべたちは、全部が同じ賜物を受けているわけではないが、みな神の働き人である。おのおのが大教師について学び、それから、学んだことを伝えねばならない。神はご自分の使命者たちに各自の仕事をさずけておられる。賜物は種々さまざまであるが、働き人はみな聖霊のきよめの力に支配され、混ぜ合わされて調和を保つのである。彼らが救いの福音を知らせると、多くの者が神の力によって、罪を悟り、改心するであろう。人間の尽力はキリストと共に神のうちに隠され、キリストが、万人の中の最高のおかた、最もすばらしいおかたとして現れる。AAJ 297.1

    「植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である」(コリント第一・三ノ八、九)。この聖句の中で、使徒は教会を農地になぞらえた。その中で農夫たちは、神の植えられたぶどうの世話をして働く。また、教会を建物にもなぞらえているが、それは、主のための聖なる宮へと成長するのである。神は雇い主であり、各人にそれぞれの仕事を定めておられる。すべての者は神の監督下に働き、神も働き人のために、また、働き人を通して働かれる。神は彼らに機転や技術をお与えになり、 もし彼らが神のご指示に従うなら、彼らの努力に成功の栄冠を与えて下さる。AAJ 297.2

    神のしもべたちは、親切で礼儀正しい秩序のうちに混ざり合い、「進んで互に尊敬し合」って共に働くのである(ローマ一二ノ一〇)。不親切な批評をしたり、他人の仕事をめちゃめちゃにしたり、分派を起こしたりしてはならない。主から使命をゆだねられている者には、めいめい、特別の仕事がある。おのおのには独自の個性があって、それを他人の個性の中に埋没させてはならない。しかし、おのおのは、なお、兄弟たちと一致して働くのである。神の働き人は、彼らの奉仕において本質的には一つでなければならない。自分を一つの標準に仕立てて、仲間の働き人に失礼なことを言ったり、彼らを自分より劣っている者のように扱ったりしてはならない。神のもとでおのおのは、自分に定められた仕事をなし、他の働き人たちから尊敬され、愛され、励まされる。彼らは共にみわざを完成へと進めるのである。AAJ 298.1

    これらの原則は、コリントの教会にあてたパウロの最初の手紙の中に詳細に語られている。使徒は、「キリストに仕える者」を「神の奥義を管理している者」と述べ、彼らの仕事についてこう説明している、「この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわ にされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」(コリント第一・四ノ一-五)。AAJ 298.2

    それぞれ違った神のしもべたちのあいだをさばくことは、人間に許されていない。神だけが人の行為の審判者であって、神はおのおのに正しい報いをお与えになるのである。AAJ 299.1

    使徒パウロは、彼の働きとアポロの働きについてなされた比較に直接言及してつづけた、「兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、『しるされている定めを越えない』ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」(コリント第一・四ノ六、七)。AAJ 299.2

    パウロは、彼と彼の同労者たちが、キリストのための奉仕において辛抱強く耐えてきた危険や困難を、教会に対して率直に示した。「今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あっ たとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである」(コリント第一・四ノ一一-一五)。AAJ 299.3

    福音の働き人たちをご自分の使者として送り出すおかたは、聴衆の中に、だれか気に入りの牧師に対する愛着が非常に強くて、他の教師の働きを受け入れたがらない様子が見られるときに、はずかしめを受けられる。主は神の民に、必ずしも彼らの選ぶとおりにではなく、ただ彼らの必要に応じて、助け手を送られる。人間の見方は近視眼的で、自分たちにとって最上のものを見分けることができないからである。教会を、キリスト教のすべての要求において完全なものとするのに必要な資格を、ひとりの牧師がすべて備えていることは、めったにない。そこで神は他の牧師たちを送られる。おのおのが、他の人たちには不足している何かの能力を持っているのである。AAJ 300.1

    教会はこれらキリストのしもべを、主ご自身をお受けするように、感謝して受けなければならない。神に仕える者が神のみことばから与えてくれる教えから、できるかぎりの利益を引き出すようにしなければならない。神のしもべたちが紹介する真理は、謙遜に素直に受け入れて理解しなければならないが、神に仕える者が偶像化されてはならない。AAJ 300.2

    神の働き人たちは、キリストの恵みによって、光と祝福の使者とされる。彼らが熱心に根気よく祈って聖霊を受け、救霊の重荷を負い、十字架の勝利を遠くまで及ぼしたいという熱意に心が満たされて出て行くとき、彼らは自分たちの働きの実を見る。人間的な知恵を見せびらかしたり、自己を高めたりす ることを断固として拒むとき、彼らは、サタンの攻撃に耐える働きをなし遂げる。多くの人々がやみから光へと導かれ、多くの教会が設立される。人々は、人間の器に対してではなく、キリストへと改心する。自己は背後に隠れてしまい、カルバリーのおかた、イエスのみが現れる。AAJ 300.3

    今日、キリストのために働いている人々は、使徒の時代に福音を宣伝した人々が表したように、優れた力を表すことができる。神は、パウロやアポロに、シラスやテモテに、また、ペテロやヤコブやヨハネに力をお与えになったように、今日も、神のしもべたちに力を与えようと待ち構えておられる。AAJ 301.1

    使徒の時代には、キリストを信じると主張しながら、なお、キリストの使者たちを尊敬しないという、心得違いの人々がいた。彼らは、自分たちは人間の教師に従うのではなく、福音の働き人の助けを受けずに直接キリストから教えを受けるのだと主張した。彼らは気ままで、教会の声に従おうとはしなかった。そのような人々は、欺瞞ぎまんに陥るという重大な危険にさらされていた。AAJ 301.2

    神は、多くの人々の知恵が寄せ合わされて、聖霊の意図が果たされるよう、神の任命された助け手として、さまざまの才能を持った人々を教会に置かれた。自分自身の強い個性に従って行動し、神のみわざに長い経験を持つ他の人々とくびきを共にすることを拒む人々は、自信から盲目となり、誤りと真理を見分けることができなくなるであろう。そのような人々が教会の指導者として選ばれるのは安全ではない。彼らは、兄弟たちの判断を顧みず、自分自身の判断や計画に従おうとするからである。自分自身、一歩ごとに助言を必要としていながら、キリストの謙遜さを学ぼうともせず、自分の力で人々の世話を 焼こうとする者たちを通して働くことは、サタンにとって容易なことである。AAJ 301.3

    印象だけでは義務に対する安全な手引きにはならない。敵はしばしば人々に、彼らを導いているのは神だと信じさせようとするが、実際には、彼らは人間の衝動に従っているにすぎないのである。しかし、もしわれわれが、よく注意し、そして兄弟たちと相談するなら、われわれは主のみこころが理解できるようになる。「へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる」というみ約束があるからである(詩篇二五ノ九)。AAJ 302.1

    初代のキリスト教会には、パウロやアポロを認めようとせず、ペテロを自分たちの指導者として支持した人々がいた。彼らは、主がこの世におられたときペテロはキリストと最も親しく、一方、パウロは信者たちの迫害者だったと主張した。彼らの見解や感情は偏見に縛られていた。彼らは、キリストが心に内住しておられることをあらわす寛大さ、寛容さ、優しさを示さなかった。AAJ 302.2

    この党派心は、キリスト教会に非常に悪い結果をもたらす危険があった。それでパウロは、熱心な訓戒と真剣な抗議を表明するよう、主より指示された。「『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』」と言っていた人々について、パウロは、「キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか」と尋ねた。「だから、だれも人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケパも、世界も、 生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」(コリント第一・一ノ一二、一三、三ノ二一-二三)。AAJ 302.3

    パウロとアポロは完全に一致していた。アポロはコリント教会内の不一致に失望し、悲しんだ。彼は、自分に対して示された特別な好意を利用もしなければ、それを助長するようなこともしないで、急いでこの争いの地を去った。のちになってパウロが、コリントをもう一度訪れるようにすすめたときにも彼はことわり、ずっとのちになって教会の霊的状態がよくなるまでは、二度とそこで働かなかった。AAJ 303.1

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