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    献身

    神は、「もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」(エレミヤ29:13、14)と約束されました。SC 1948.3

    私たちは全身をささげて神に従わねばなりません。さもなければ、私たちを神のみかたちに回復する変化は起こらないのです。私たちは、生まれながら神から遠ざかっています。聖霊は私たちの状態を次のように言っています。「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)、「その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで完全なところがなく」(イザヤ1:5、6)と。私たちは全く「悪魔に捕らえられて」(Ⅱテモテ2:26)彼の思いのままに、しっかりととりこにされているのです。神は私たちをいやし、解放しようと望んでおいでになります。けれどもこれには全き改革、つまり私たちの性質を全く新しくしなければなりませんから、私たちは自己を全く神にささげなければなりません。SC 1948.4

    自己との戦いは最も大きな戦いです。自己に打ち勝ち、神のみ心に全く従うには戦いを通らねばなりません。しかし神に服従しなければ、魂が聖化されることはないのです。SC 1948.5

    神の政府は盲従を要求し、不合理な統制を行おうとするものであると、悪魔は私たちに思わせようとしますが、そうではありません。それは知性と良心に訴えるものです。「さあ、われわれは互いに論じよう」(イザヤ1:18)と、創造主は私たち造られた者を招いておられます。神は決して造られた者の意志を強いたりなさいません。真心より、自らよく理解したうえでの服従でなければ、神は受け入れられません。単なる強制的服従は知性や品性の真の発達を妨げるものであって、人を一つの機械人形にしてしまいます。創造主はこのようなことを望まれません。神は創造の極致である人間が最高の発達を遂げることをお望みになります。SC 1948.6

    神は、私たちの前に最高の祝福をおいて、恵みによって私たちをそこまで導こうとなさいます。また私たちのうちに彼のみ心を行うことができるように、自己を神にささげよと勧めます。罪の絆から放たれて、神の子としての栄えある自由を味わうか否かは、私たちの選択にかかっています。SC 1948.7

    神に自己をささげるには、私たちを神から引き離すものをすべて捨てなければなりません。ですから、「あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」 (ルカ14:33)と救い主は言われているのです。たとえ、どんなものであっても神から心を引き離すようなものは捨てなければなりません。多くの人は富を偶像にしています。金を愛し富を欲することは、彼らを悪魔につなぐ黄金の鎖です。ある人々は名声や世的な栄誉を神としています。また、なんの責任も負わず、利己的な安楽な生活を偶像にしている人もいます。けれども、こうした奴隷の絆は断ち切らねばなりません。私たちは、なかば神に、なかば世につくことはできません。全く神のものでなければ神の子供ではないのです。神に仕えていると公言しながら自分の努力によって神のおきてに従い、正しい品性を形づくり、救いを得ようとしている人があります。このような人たちの心は、キリストの愛に強く動かされたのではありません。天国に入るために神が要求されるものであるからという理由で、クリスチャン生活の義務を遂行しようと努めているにすぎません。そのような宗教は何の役にも立ちません。もしキリストが心に宿るならば、魂は彼の愛と、彼との交わりからくる大きな喜びに満ちあふれて、キリストに結びつき、彼を熟視して自己を忘れてしまいます。そしてキリストへの愛が行動の源泉となります。神の強く迫る愛に感激した者は、どのくらいささげれば神のご要求を満たすことができようか、などと最低の標準を尋ねたりしないで、あがない主のみ心に全く服従したいと望みます。熱心に、希望にあふれてすべてをささげ、彼らが求めている価高き者にふさわしい関心を示します。この深い愛がなくて、キリストを信ずると告白することは単なる話だけであり、無味乾燥な形式、また重苦しい苦役です。SC 1948.8

    あなたはキリストに全く服従することは、あまりに大きな犠牲であるとお感じになるでしょうか。「キリストは私に何を与えてくださったか」ということを考えていただきたいのです。神のみ子は、すべてのものを——いのちと愛と苦しみとを——私たちをあがなうためにお与えになりました。こうした大きな愛の対象としてはあまりに無価値な私たちが、自分の心を神にささげないでいられるでしょうか。私たちは、生涯の一瞬一瞬、キリストの恵みをこうむって生きてきました。私たちは、どのような無知と悲惨のどん底から救われたかを自覚していないのです。私たちは、自分たちの罪が刺し通したキリストをながめながら、彼の愛と犠牲を侮蔑することができるでしょうか。栄光の主の限りなきへりくだりをよく知りながら戦い、そしておのれを卑しくしなければいのちに入ることができないと言って、つぶやいてよいものでしょうか。SC 1949.1

    「悔い改めて心を低くしなければ、神に受け入れられたという保証が得られないのは、どうしたことであろう」と尋ねる高慢な人が多くあります。そういう人はキリストをごらんなさい。彼は罪を犯されなかったばかりでなく、天の王」二でしたが人類の身代わりとなって罪人となりました。「とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ53:12)。私たちがすべてをささげると言っても、いったい何をささげるのでしょう。それは、イエスに清められ、その血によって洗われ、彼の無比の愛によって救われるためにささげる罪に汚れた心だけです、それなのに人々は、それを捨てがたいと思っています。私はそういう話を聞き、また書くことさえ恥ずかしいのです。SC 1949.2

    神は、私たちが持っていて益になるものは、何一つ捨てるようにとはお求めになりません。何をなさるにも、いつもその子らの幸福を考えておいでになります。自分が今求めているよりはるかに良いものを神は備えておいでになるということを、キリストを選んでいないすべての人が悟られるよう望みます。人は神のみ心に逆らって考え、行動するとき、自分の心に大きな害を及ぼしています。何が最善であるかを知り、造られた者の幸福のために計画しておいでになる神が禁じられる道には、本当の喜びを見いだすことはできません。罪の道は悲惨と滅亡の道です。SC 1949.3

    神は子らが苦しむのを見てお喜びになると考えるのは誤りです。全天が人の幸福に関心をもっているのです、私たちの天の父はだれにも喜びの道を閉じることはありません。しかし苦しみと失望をもたらし、幸福と天国への戸を閉じてしまうようなことにふけっ てはならないと私たちを戒めています。不完全で弱く、欠点があるそのままの姿で人々を受け入れ、これを罪から清め、その血によってあがなわれたばかりでなく、世の救い主は彼のくびきを負い、その荷をになうすべての者の心の欲求を満たしてくださいます。いのちのパンを求める者に、平和と平安をお与えになるのが神のみこころなのです。また、神は私たちに定の義務を果たすよう要求されますが、それは不従順な者たちには決して到達することのできない祝編の高みに私たちを導くためです。心の真の喜びは、栄えの望みであるキリストを心の中に形づくることです。SC 1949.4

    「私はどうすれば神に自らをささげることができるでしょう」と、尋ねる人が多くあります。そして、自分を神にささげたいと望んでいながら、道徳的力が弱く、疑惑の奴隷となり、罪の生活の習慣に支配されています、どんな約束も決心も、砂のなわのように弱く、自分では自分の思想、衝動、愛情を制することができません。二うして約束を破り、誓いを裏切って自分の誠実さに自信が持てなくなり、神は自分を受け入れてくださらないのではないかと思うようになります。しかし絶望するには及びません。ただ必要なのは、本当の意志の力とは何であるかを知ることです。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力です。すべてはただ意志の正しい行動にかかっているのです。神は人間に選択の力をお与えになりました。つまり、人がそれを用いるようにお与えになったのです。私たちは自分の心を変えたり、また自分で愛情を神にささげることはできません。けれども、神に仕えようと選ぶことはできます。意志は、神にささげることができます。そうすれば、神は私たちのうちにお働きになって、神の喜ばれるように望み、また行うようにしてくださいます。こうして性質は全くキリストの霊に支配されるようになり、キリストが愛情の中心となり、思想もまた彼と一致するようになります。SC 1950.1

    善と清さを望むのは正しいことですが、そこでとどまるなら何の役にも立ちません。クリスチャンになりたいと望みながら、滅びていく人が多いのです。彼らは、神に自分の意志をささげるところまでこないからです。つまり彼らは、いまクリスチャンになることを選ばないからです。SC 1950.2

    意志を正しく働かせるならば生活は全く変わってしまいます。意志をキリストに全く服従させることによって、どんな主義よりも力よりも、はるかにまさった力に自分を結びつけることになるのです。そして、天よりの力を得てしっかりと立つことができ、絶えず神に服従することによって新しい生涯、すなわち信仰の生涯を送ることができるようになるのです。SC 1950.3

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