弟子としての証拠
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弟子としての証拠
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、べてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)。SC 1953.5
人は、いつどこで悔い改めたか、あるいはどんな階をふんで回心したかを、はっきり語ることはできいかも知れませんが、それであるからといってそのが悔い改めていないとは言えません。キリストはニデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:8)と言われました。風は目には見えませんが風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうど同じです。人の目には見えませんが、再創造の力が魂に新しい命を与え、神のみかたちにしたがって新しい人をつくるのです。聖霊の働きは音もなく目にも見えませんが、その結果は明らかなものです、聖霊によって心が新たにされるならば、生活がその事実を証明します。私たちはどのようにしても自分の心を変えたり、神と調和したりすることはできないのです。また、自己や自分の良い行いに頼ることもできませんが、心のうちに神の恵みを宿しているかどうかは私たちの生活にあらわれてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起こりますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようになります。人の性格はときどきの善行とか過ちでわかるのではなく、日常の言動の傾向によって知ることができるのです。SC 1953.6
キリストの力によって新たにされなくても、人は外見だけ正しい行いを装うこともできます。権勢を求める気持ちから、人からよく思われたいとの気持ちから、正しい生活を送ることもできるでしょう。自尊心も、私たちが人から悪く見られるのを防いでくれるかも知れません。SC 1954.1
あるいは利己主義な人が、情け深い行為をすることもありましょう。では、私たちがどちらの側に立っているかを、どんな方法ではっきり決めることができるでしょうか。SC 1954.2
私たちの心を支配しているのは誰でしょうか。私たちは誰のことを考えているでしょうか。また、誰のことを話すのが好きでしょうか。私たちが何よりも愛情をささげ、何よりも努力を傾けようとするのは誰のためでしょうか。もし私たちがキリストのものであれば、彼とつの心になり彼を思うのが一番の楽しみとなり、私たちの持ち物も、私たち自身もすべて彼にささげてしまいます。そして主のみかたちに似、主の霊を呼吸し、主のみ心をなし、すべてのことにおいて主を喜ばせたいと願うようになります。SC 1954.3
キリスト・イエスにあって新たにつくられた者は霊の実を結びます。つまり「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22、23)を生じるのです。もはや、彼らは以前の欲望に従って歩まず、神のみ子を信じてそのみ足跡にならって歩み、そのこ品性を反映しながら清くあるように、自らを清くするのです。以前には嫌っていたものを今は愛するようになり、かつて愛していたものは嫌うようになります。高慢、不遜な人は、柔和、謙遜になります。軽はずみで落ち着きのない人は真面日で控え目になり、酒に酔う者はそれをやめ、放蕩者は純潔になります。世的なむなしい習慣や流行を追う気持ちはなくなり、クリスチャンは「外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない」(Ⅰペテロ3:3、4)飾りを求めるようになります。SC 1954.4
ですから、もし改革が起らなければ真に悔い改めたとは言えません。質にあずけた物を戻し、奪ったものを返し、罪を告白し、神と人とを愛するようになったならば、その人は確かに死より生に移っているのです。SC 1954.5
あやまちがあり、罪あるままの姿でキリストに行き、赦罪の恵みを受けるとき、心の中に愛がわき起ります。キリストが課すくびきはやさしいのですからすべての重荷は軽くなります。義務は喜びとなり、犠牲は楽しみになります。以前には暗黒に包まれていたように見えた道も、義の太陽に照らされて明るくなります。SC 1954.6
キリストのうるわしい人格は、彼に従う者のうちに見られるようになります。神のみ旨をなすことがキリストの喜びでした。神への愛と栄えをあらわそうとする熱情は、救い主の生涯を動かしていた力です。愛が救い主の行動をすべて美化し、高尚にしたのです。愛は神から来るものです。まだ清められていない心はその愛をつくり出すことも、生み出すこともできません。それはただ、イエスが支配する人の心にのみ見いだすことができます。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである」(Ⅰヨハネ4:19)。神の恵みによって新しくされた心のうちでは愛が行為の原則となります。愛は性格を改変し、衝動を支配し、欲情を制し、また敵意をおさえ、愛情を高尚にします。この愛が心のうちに秘められ、あたりに高貴な感化を及ぼすのです。SC 1954.7
ここに、神の子ら——特に神の恵みに頼り始めた者が誤りがちなことが2つあります。これは特別に注意しなければならない事柄です。まず第一に、前にも述べたように自分の行為をながめ、自分の力を頼みとして神と調和しようとすることです。自分の行為によっておきてを守り清くなろうとしている人は、不可能なことをしようとしているのです。人がキリストなしにすることはすべて利己心と罪に汚れています。信仰によるキリストの恵みのみが私たちを清めるのです。SC 1954.8
それとは反対ですが、同じように危険なことは、キリストを信じれば人は神のおきてを守らなくてもよいという考えです。つまり、ただ信仰によってキリストの恵みにあずかるようになったのであるから、行いは私たちの救いと全く関係がないというのです。SC 1954.9
けれども服従ということは、単なる外面だけのもの ではなく、むしろ愛の奉仕を指すのです。神のおきては神の品性そのものを表現したものであり、愛の原則を具体化したものですから、天にあっても地にあっても神の政府の基礎です。私たちの心が神のみかたちに似て新しくされ、神の愛が心のうちに植えつけられるならば、神のおきては日々の生活に実行されるのではないでしょうか。SC 1954.10
愛の原則が心に植えつけられ、私たちの心が創造主である神のみかたちに似て新たにされるとき、はじめて「わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」(ヘブル10:16)という新しい契約が成就されるのです。こうしておきてが心に記されるとき、それはその人の生活を左右するのではないでしょうか。服従すなわち愛よりでた奉仕と忠誠は、弟子であることの真のしるしです。聖書にも「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」(Ⅰヨハネ5:3)、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(Ⅰヨハネ2:4)としるされています。人は服従しなくてもよいというのではありません。信仰一ただ信仰のみが私たちをキリストの恵みにあずからせ、服従できるようにするのです。SC 1955.1
私たちは服従によって救いを買うのではありません。救いは神から価なしに与えられる賜物であって、信仰によって受けるのです。服従は信仰の実なのです。「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼におるものは、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく知ったこともない者である」(Ⅰヨハネ3:5、6)。これが本当の試験法です。もし、私たちがキリストにあり、神の愛が私たちの心に内住するならば、私たちの感情も、思想も、行動も、神の清いおきてにあらわされた神のみ心に調和するようになります。「子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である」(Ⅰヨハネ3:7)。義とは、シナイ山で与えられた十戒にあらわされた神の清いおきての標準によって定められるものです。SC 1955.2
キリストを信じれば神に服従する義務はないという、いわゆる信仰は、信仰ではなく憶測です。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである(エペソ2:8)と言われていま魂けれども「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)ともしるされています。SC 1955.3
また、イエスご自身も、この地上に来られる前に、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます、あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:8)と言い、再び天にお帰りになる直前には、「わたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ15:10)と言われました。聖書には、「わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである……『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ2:3、6)、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、み足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(Ⅰペテロ2:21)とあります。SC 1955.4
とこしえの命を受ける条件は、私たちの祖先が罪に陥る前、すなわちパラタマスにいたときと全く同じであって、それは神のおきてに完全に服従すること、つまり完全に義であることです。もし、とこしえの命がこの条件以下で与えられるものであるとすれば、全宇宙の幸福は危険にさらされ、罪の道が開けてあらゆる災いと悲惨とが永久に絶えないことでしょう。SC 1955.5
罪に陥る前、アダムは神のおきてに服従することによって、正しい品性をつくり上げることができましたが、彼はこれに失敗し、彼の罪のために、私たちは生まれながら罪あるものとなり、自分の力で義となることはできなくなりました。私たちは罪深く汚れているので、清いおきてに完全に従うことができません。神のおきての要求に応じるほどの義を持ち合わせていません。けれどもキリストは、私たちのために逃れる道を備えてくださいました。キリストは、この地上で私たちがあわねばならない試練と誘惑の真っただ中 で生活し、罪なき生涯をお送りになりました。そして、私たちのために死に、今や私たちの罪を取り除いて、自己の義を与えようとしておいでになります。もし自分をキリストにささげ、キリストを自分の救い主として受け入れるならば、その生涯はこれまでいかに罪深いものであっても、彼のゆえに義とみなされるのですキリストの品性があなたの品性の代わりとなり、神の前に全く罪を犯したことのない者として受け入れられるのです。SC 1955.6
こればかりでなく、キリストは私たちの心までも変えてくださいます。信仰によって、キリストは心のうちに住まれます。こうして、信仰と、たえずキリストに自らの意志を従わせることによって、キリストとの関係を持続するのです。このようにするかぎり、キリストはあなたのうちに働いて、み旨に従って志をたて、行うことができるようにしてくださいます。そのときこそ「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神のみ子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)と言うことができるのです。ですから、キリストも弟子たちに、「語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である」(マタイ10:20)と言われました。こうしてキリストが私たちのうちにお働きになるならば、私たちは、キリストと同じ精神をあらわし、同じ業正しい行為、つまり服従をするようになろのです。SC 1956.1
ですから、私たち自身のうちには、何ら誇るところはなく、何の自己を賞揚する根拠もありません。私たちの唯一の希望は、キリストの義が私たちに被せられることで、それは私たちのうちに働き、私たちを通して働いてくださる聖霊の働きによるほかはないのです。SC 1956.2
私たちが信仰について語るとき、信仰には区別があることを心にとめておかねばなりません。つまり、本当の信仰とは全く違ったある種の信仰があることです。神の存在とその力またみ言葉が真理であることは、悪魔もその軍勢も心のうちでは否定できない事実として信じているのです。聖書には「悪霊どもでさえ、信じておののいている」(ヤコブ2:19)とありますが、これは信仰ではありません。神のみ言葉を信じるというばかりでなく、神に意志を服従させ、心をささげ、愛情を注いでこそ、信仰があると言えるのであって、そうした信仰は愛によって働き魂を清めるのです。この信仰によって、心は神のみかたちにつくりかえられます。人の心というものは、新たに再生されなければ神の律法に従わず、また従う力を持ちません。しかし、聖なるおきてを喜ぶときに、詩篇作者とともに次のように言うことができます。「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います」(詩篇119:97)。そして、おきての義が「肉によらず霊によって歩く」(ローマ8:4)私たちのうちに全うされるのです。SC 1956.3
世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人があります。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いてイエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ拒まれたのではありません。キリストは神の右に座し、私たちのために執り成しておられます。使徒ヨハネは「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(Ⅰヨハネ2:1)と言いました。また「父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである」(ヨハネ16:27)というキリストのみ言葉も忘れてはなりません、神は、あなたを自己に立ち返らせ、自らの純潔と聖潔とをあなたのうちに反映しようと望んでおいでになります。ただ神に従いさえすれば、すでにあなたのうちに良きことを始められた神は、イエス・キリストの日までその働きを続けてくださるのです。ですから、もっと熱心に祈り、もっと深く信じましょう。自分の力に信頼できなくなったとき、あがない主の力を信じ、私たちを 助けてくださる主を賛美しましょう。SC 1956.4
イエスに近づけば近づくほど、ますます欠点が多く見えてきます。それは自分の目が開けて明らかになり、イエスの完全さに比べて、自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。これは悪魔の惑わしの力が失われ、人を生かす聖霊のカが働いている証拠です。SC 1957.1
自分の罪深さを悟らない人の心には、イエスに対する深い愛も宿りません。キリストの恵みによってつくりかえられた魂は、キリストの清い品性をほめたたえます。しかし、もし私たちが自分の道徳的欠陥を知らないとすれば、それは、キリストの美しく優れた品性をまだ見たことがないという明らかな証拠です。SC 1957.2
自分の無価値なことを悟れば悟るほど、救い主の限りない純潔とうるわしさとがわかってきます。自分の罪深いことを知ってゆるしを与えられる救い主のもとに走りより、魂の力なさを悟ってキリストに手をのべます、すると、キリストはあらわれ力をそえるのです。必要に迫られ、キリストと神のみ言葉に近づけば近づくほど、私たちはキリストの品性をもっとよく知るようになり、そのみかたちを十分に反映するようになります。SC 1957.3