さばかずに、行え
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さばかずに、行え
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」MB 1174.4
自分の行いによって救いを得ようとする努力は、必然的に、罪に対する防壁として、人間的なきびしい要求を積み重ねるように、人々にさせるのである。自分たちが律法を守れないのを知って、彼らは、自分自身のさまざまな規則や規定を作り出して、自分を無理にそれに従わせようとするのである。このようなことはみな、人の心を神から転じて自己へ向けるのである。神の愛は心から消え去り、それとともに隣人に対する愛も消えうせてしまう。人間の作り出した規律は、おびただしい要求を伴うもので、その規律の支持者に、定められた人間的標準に達しないすべての人を、さばくようにさせるのである。自分本位の狭い批判の空気は、けだかく寛大な感情を抑えつけ、人々を自己中心的な裁判官や心の小さなスパイにしてしまう。MB 1174.6
パリサイ人は、こういう種類の人々であった。自己の弱さを感じて心を低くすることもなく、神のお与えになった大きな特権に感謝することもなく、彼らは礼拝から出てきた。彼らは、霊的誇りに満たされて出てきた。彼らの主題は、「わたし自身、わたしの気持ち、わたしの知識、わたしの方法」であった。彼ら自身の達成したところが、他の人々をさばく標準となった。 自尊の衣をまとい、彼らはさばきの座に着き、批判し、断罪したのであった。MB 1174.7
人々も、だいたいにおいてこれと同じ精神をいだき、人の良心の領域にまで入り込んで、人と神との間に横たわる問題について、互いにさばき合った。イエスが「人をさばくな。自分がさばかれないためである」と言われたのは、このような精神と行為についてであった。すなわち、あなた自身を、標準として立ててはいけないのである。あなたの意見、義務についてのあなたの見解、あなたの聖書解釈を、他の人々に対する規準とし、あなたの理想、に彼らが達しないからと言って、心の中で彼らを非難してはならない。他の人々の動機を推測し、彼らに判決を下して、他の人々を非難してはならないのである。MB 1175.1
「主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう」(Ⅰコリント4:5)。わたしたちは、人の心を読むことはできない。わたしたち自身、不完全な者であって、さばきの座に着く資格はない。有限な人間は、外から見たところによってさばき得るだけである。行為のかくれた動機を知り、優しく同情をもって処置なさる神にのみ、すべての人間の問題の決定がゆだねられている。MB 1175.2
「ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである」(ローマ2:1)。他の人を非難したり批判したりする人々は、自分に罪があることをあらわしているのである。なぜなら、彼らも同じことを行っているからである。他の人々を非難することによって、彼らは自分自身の上に判決を下しているのである。神はその判決が正しいと言明される。神は、彼ら自身が自分自身に対して下す決定をお受け入れになる。MB 1175.3
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見(るのか)」MB 1175.8
「さばくあなたも、同じことを行っている」という宣告も、差し出がましくその兄弟を批判し非難する者の、罪の大きさを言いあらわすには十分ではない。イエスは、「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」と言われた(マタイ7:3)。MB 1175.10
この言葉は、他人の欠点をすばやく認める人を描写している。彼は、品性や生活の中に欠点を見つけたと思う時、非常に熱心にそれを指摘したがる。しかし、イエスは、このクリスチャンらしくない行為をすることによって形成される品性の特徴は、批判された欠点と比べる時、ちりに対する梁のようなものであると言明なさる。ごく些細なものを世界大の大きさにしてしまうのは、寛容と愛の欠如である。キリストへの全き降伏という悔い改めを経験していない者は、その生活に、救い主の愛の、心を和らげる力をあらわさない。彼らは、福音の穏やかな礼儀正しい精神を誤表し、キリストが代わって死なれた尊い魂を傷つけるのである。救い主がお用いになっている例によれば、批判的精神をほしいままにする者は、彼が非難している相手よりも、もっと大きな罪を犯しているのである。なぜなら、彼は同じ罪を犯すばかりでなく、さらに高慢とあらさがしの罪を犯しているからである。MB 1175.11
キリストが品性のただ一つの、真の標準である。自分を他の人々の標準とする者は、キリストの位置に自己を置いているのである。また、父は、「さばきのことはすべて、子にゆだねられた」のであるから(ヨハネ5:22)、他の人の動機をさばくようなことをする者は、神のみ子の大権を奪っていることになるのである。これらの…人よがりの裁判官や批評家は、「すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上り、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」反キリストの側に立っているのである(Ⅱテサロ ニケ2:4)。MB 1175.12
最も不幸な結果に導く罪は、パリサイ主義を特徴づけていた、冷たい、批判的な、赦すことをしない精神である。宗教的経験に愛が欠ける時、そこに、イエスはおられない。イエスのこ臨在の輝かしい日の光は、そこには見られない。活発な活動も、キリスト抜きの熱心さも、その欠乏を補うことはできない。他人の欠点を見いだすのに驚くほど鋭い識別力はあるかも知れない。しかし、この精神をいだくすべての者に、イエスは、「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」と言われる(マタイ7:5)。悪事を行った者が、まっ先に人の悪を思うのである。他の人を非難することによって、彼は自分の心の悪を、隠したり弁解したりしようとする。人が悪の知識を得たのは、罪によってであった。人祖アダムとエバが罪を犯した時、彼らはすぐ互いに責め始めた。このことは、人間の性質がキリストの恵みによって支配されない時、必然的に行うことである。MB 1176.1
人がこの非難の精神をいだく時、彼らは、兄弟の欠点と思われるものを指摘することだけでは満足しない。彼らが、ぜひ、こうさせたいと思うことを、穏やかな方法では人にさせることができないと、彼らは強制という手段に訴える。力の及ぶ限り、彼らは、自分たちが正しいと考えるところに従うように、人々を強制する。これが、キリストの時代のユダヤ人がしたことであり、教会がその後、キリストの恵みを失った時に、常に行ってきたことであった。教会は、自分が愛の力に欠けていることをさとって、その教義を強制し、その教令を施行するために、国家の強い腕を求めた。ここに、かつて制定されたあらゆる宗教法を理解するかぎがあり、アベルの時代から今日までのあらゆる迫害を、理解するかぎがある。MB 1176.2
キリストは、人々を無理にこさせようとしないで、引きよせられる。キリストのお用いになる唯一の強制は、愛の迫る力である。教会が世俗の権力の支持を求め始める時、教会はキリストのカー神の愛の迫る力を明らかに失っているのである。MB 1176.3
しかし、個々の教会員は弱い者であり、いやしが必要なのである。イエスは、人を責める者に向かい、他の人を正そうとする前に、まず自分の目から梁を取りのけ、人をとがめる精神を捨て、自己の罪を告白して、捨て去るように命じておられる。なぜなら、「悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない」からである(ルカ6:43)。あなたが持っている、人を責める精神は悪い実であり、すなわち木が悪いことを示している。あなたが自らを義としようとしてもむだである。あなたの必要とするものは、心の変化である。あなたが他の人々を正すことのできる者となるためには、この経験を持たなければならない。「おおよそ、心からあふれることを、日が語るものである」からである(マタイ12:34)。MB 1176.4
だれかの人生に危機が訪れ、あなたが勧告や訓戒を与えようとする時、あなたの言葉は、あなた自身の模範と精神とが示すことができるだけしか、よい影響力を持たない。あなたはよいことを成す前に、よい者とならねばならない。あなた自身の心がキリストの恵みによって謙そんにされ、きよめられ、和らげられるまでは、あなたは他の人を変化させろような感化を及ぼすことはできない。この変化があなたのうちに起こる時、あなたが他の人々を祝福するために生きることは、ばらの木が香りのよい花を咲かせ、ぶどうの木が紫色の房を結ぶのと同様に、自然なこととなるであろう。MB 1176.5
もしキリストが、あなたのうちに「栄光の望み」となるならば、あなたは、他の人々を見張り、彼らのあやまちを暴露しようというような性向を持たなくなるだろう。非難したりとがめたりしようとしないで、助け、祝福し、救うことがあなたの目的となるだろう。あやまちに陥っている人を取り扱うにあたって、あなたは、「もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」という命令に気をつけるだろう(ガラテヤ6:1)。あなたは、自分も幾度もあやまちにおちいり、ひとたび離れたら、正しい道を見いだすことが、どんなに困難であったかを思い出すだろう。あな たは、兄弟をいっそう暗い暗黒の中に押し入れることなく、憐れみに満ちた心をもって、彼にその危険を告げるであろう。MB 1176.6
しばしばカルバリーの十字架を仰ぎ、自分の罪が救い主をそこにつけたことを思い起こす人は、決して、自分の罪の度合いを他人の罪と比較して計ろうとはしない。彼は他の人を非難するために、さばきの座にのぼろうとはしない。カルバリーの十字架のかげを歩む者には、あら捜しや自己賞揚の精神はあり得ない。MB 1177.1
あやまちを犯している兄弟を救うためには、自己の尊厳を犠牲にすることも、自分の命を捨てることさえもできると思う時にはじめて、あなたは自分の目から梁を取りのけ、兄弟を助ける備えができたと言えるのである。その時あなたは、彼に近づき、彼の心を感動させることができる。非難やけん責によって、悪から立ち返った者はいない。多くの者がそれによってキリストから離され、心を閉じて悔い改めなくなってしまった。優しい精神、穏やかな、人を引きつける態度は、あやまちに陥っている人を救い、多くの罪をおおうことができる。あなた自身の品性のうちにキリストがあらわされる時、それは、あなたの接するすべての者を変化させる力を持つのである。キリストが、日ごとに、あなたのうちにあらわされるようにしよう。そうすればキリストは、あなたを通してそのみことばの創造的なカ——他の人々をわたしたちの神である主のつるわしさを持つように再創造する静かな、説得力のある、しかも力強い感化カ——をあらわされのである。MB 1177.2
イエスはここで、罪の奴隷の状態から脱出しようという願いを持たない人々のことを言っておられる。彼らは、不正や悪にふけることによって、その性質が全く堕落し、悪に愛着を持って、それから離れようとしないのである。キリストのしもべは、福音を、ただ論争とあざけりの種にしかしようとしない人々によって、妨げられてはならない。MB 1177.5
しかし、救い主は、いかに罪に落ち込んでいようと、喜んで天の尊い真理を受け入れる者を、決してお貝捨てにならなかった。取税人や遊女にとって、主のみことばは新しい生涯の始まりであった。主が7つの悪鬼を追い出されたマグダラのマリヤは、救い主の墓に最後までいた者であり、復活の朝、主が語りかけられた最初の者だった。キリストの献身的な伝道者パウロとなったのは、福音の断固たる敵であったタルソのサウロであった。表面は、憎悪と侮蔑をあらわしている態度のかげに、また罪や堕落のかげにさえも、キリストの恵みによって救われて、贖い主の冠に宝石のように輝く魂が、隠されていることもあるのである。MB 1177.6
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」MB 1177.7
主は、そのみことばについて、不信や誤解や誤った解釈の余地を残さないよう、3度繰り返して言われた約束をもう1度繰り返しておられる。主は、神を求める者に、万能の神を信じさせたいと望んでおられるので、「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」とつけ加えておられる(マタイ7:8)。MB 1177.9
ただ、あなたが神の恵みを渇望し、その勧告を望み、その愛を熱望することのほかは、なんの条件も設けられていない。MB 1177.10
「求めよ」。求めることは、あなたが、必要を認めていることをあらわす。あなたが信仰をもって求めるなら、与えられるのである。主は誓っておられるから、それは必ず成し遂げられる。もしあなたが真に悔い改めて主に来るならば、主のお約束を求めるのを出すぎたことと考える必要はない。キリストにならって完全な品性を築こうとし、必要な祝福を求めるならば、主は、あなたが、まちがいのない約束に従って求 めていると仰せになるのである。あなたは、自分が罪人であるということを感じて自覚すれば、主の情けと憐れみとを、何らはばかることなく求めてよいのである。神のもとに来ることのできる条件は、あなたがきよいということではなく、神にすべての罪と不義からきよめていただきたいと願うことである。わたしたちが、いつ、どんな時でもお願いできるというのは、わたしたちが大きな必要に迫られていて、神と神の腰いの力がなければどうにもならない状態に陥っているからである。MB 1177.11
「捜せ」。神の祝福だけでなく、神ご自身を求めなさい。「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」(ヨブ22:21)。捜しなさい。そうすれば、見いだすであろう。神はあなたを捜し求めておられる。神のもとに行きたいという願いそのものが、聖霊が引き寄せていることにほかならない。その引き寄せる力に、身をゆだねなさい。キリストは、試みられる者、あやまちに陥っている者、信仰のない者のためにとりなしておられる。主は彼らを引き上げて、ご自分との交わりに入れようとしておられる。「あなたがもし彼を求めるならば会うことができる」(歴代志上28:9)。MB 1178.1
「門をたたけ」。わたしたちは特別の招きをいただいて、神のもとに来る。神はわたしたちを、謁見室に迎え入れようと待っておられる。イエスに従った最初の弟子たちは、道を歩きながら、あわただしい会話をすることでは満足しなかった。彼らは、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」と言った。「……そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった」(ヨハネ1:38、39)。このように、わたしたちは、神とのきわめて親しい交わりに入ることを許されるのである。「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人」(詩篇91:1)。神の祝福を望む者は、主よ、あなたは、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言われましたと言って、確信をもって恵みの戸をたたいて待つことである。MB 1178.2
イエスは、そのみことばを聞くために集まった人々を見、群衆が、神の憐れみといつくしみを認めろことを心から望まれた。彼らの必要と神の喜んでお与えになるみ心とを説明するために、イエスは、親にパンを求める空腹な子供の姿をお示しになった。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか」と主は言われた。主は、子に対する親の優しく自然な愛情に訴えて、「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」と言われた(マタイ7:9、11)。父の心を持つ者は、飢えてパンを求める子供に、背を向けることはないであろう。期待だけさせておいて失望させ、その子供をいい加減にあしらい、じらすなどということを、父ができると考えられるだろうか。父が子供に栄養のある良い食物を与えると約束しながら、石を与えるだろうか。神がその子らの訴えにお答えにならないなどと考えて、神をはずかしめてよいものだろうか。MB 1178.3
あなたがたは人間であり悪い者であっても、「自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ11:13)。神ご自身の代理者である聖霊は、すべての賜物のうち最大のものである。すべての「良い物」はこの中に含まれている。創造者ご自身、これ以上大きなもの、これ以上良いものをお与えになることはできない。わたしたちが悩みのうちにあって、主に、わたしたちを憐れみ、聖霊によってお導きくださるように求める時、主は決してわたしたちの祈りを退けることはされない。飢えた子供を拒むことは、親にはできることかも知れないが、神は、乏しさを感じて主に切望する心の叫びを決してお拒みにならない。神はその愛を、なんと驚くばかりの優しさをもって、描写しておられることであろう。逆境の時に神は自分たちを顧みてくださらないと考えている人々に対して、神の心からのメッセーンは次のことばである。「シオンは言った、『主はわた しを捨て、主はわたしを忘れられた』と。『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことかあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よわたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ』」(イサヤ49:14~16)。MB 1178.4
神のみことばの中の約束はみな、主がみことばをもって保証を与えておられるのであるから、その一つ一つがわたしたちの祈りのテーマとなるのである。わたしたちに必要な霊的祝福は、なんであっても、イエスを通して求めることができるというのがわたしたちの特権である。わたしたちは、子供のような単純さて主にわたしたちの必要なものを申し上げることができる。わたしたちは、主に命のパンとキリストの義の衣を求めるのと同じように、パンや衣服などこの世のものを主に申し上げることができる。あなたの天の父はこれらすべてのものがあなたに必要であることを、知っておられる。あなたはそれらについて、神に求めるように招かれているのである。すべての恵みは、イエスの名によって与えられる。神はその名を尊び、あなたの必要を、豊かな富のうちから惜しむことなく満たしてくださる。MB 1179.1
しかし、父と呼んで神のみもとにくる時、あなたは自分が神の子であると認めるのを忘れてはならない。神のいつくしみに信頼するばかりでなく、神の愛が変わらないことを知って、万事において神のご意志にまかせることである。神のお働きをなすために、あなた自身をささげることである。イエスが、「求めなさい。そうすれば、与えられるであろう」という約束をお与尺になったのは、まず、神の国とその義とを求めよとお命じになった人々に対してであった(ヨハネ16:24)。MB 1179.2
天においても地においても、一切の権威を持つお方からくる賜物は、神の子らのために貯えられているその賜物は非常に尊いもので、高価な犠牲である贖い主の血潮によって与えられたものである。それはまた、人の心のどんな願いでも満足させ、永遠に続くものであって、幼な子のように神のもとにくるすべての人々が受けて、その祝福にあずかるのである。神の約束をあなたに与えられたものとして受け、それを神ご自身のお約束の言葉として神の前に申し上げるがよい。そうすれば、あなたは喜びに満ちあふれるであろう。MB 1179.3
「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」MB 1179.4
わたしたちに対する神の愛の保証に基づいて、イエスは、人間と人間のあらゆる関係についての包括的な一つの原則として、お互いに愛し合うようにお命じになった。MB 1179.6
ユダヤ人たちは、自分たちの受けるもののことばかり考えていた。彼らがあくせく求めたことは、権力や尊敬や奉仕など、当然自分たちが受けるべきと彼らが考えたものを得ることであった。しかし、キリストは、わたしたちが心を用いるべきことは、どれだけ自分が受けるかということではなく、どれだけ自分は与えることができるかということでなければならないと、お教えになっている。わたしたちが他の人々にすべきことの標準は、他の人々がわたしたちにすべきであるとわたしたちが考えることなのである。MB 1179.7
他の人々と交際する場合に、彼らの立場になってみなさい。彼らの感情、彼らの困難、彼らの失望、彼らの喜び、彼らの悲しみを味わってみなさい。あなた自身を彼らと同じものと考え、もしあなたが彼らの立場に立っていたならば、あなたが彼らに取り扱ってもらいたいと考えるように彼らにするのである。これが誠実ということの真の規則である。それは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という律法を言い替えたものである(マタイ22:39)。また、それは、預言者の教えの本質である。それは天の原則であり、天の聖なる交わりにふさわしいとされるすべての者のうちに形成されるものなのである。MB 1179.8
黄金律は真の礼儀の原則であって、それが最も真実にあらわされたのは、イエスの生涯と品性のうちにおいてであった。ああ、なんと柔らかな美しい光が、 わたしたちの救い主の日々の生活のうちに輝き出たことだろう。なんというかぐわしさが、そのみ前に漂っていたことだろう。この同じ精神が、その子らのうちにあらわされるだろう。キリストがともにお住みになる者は、聖なるふんい気に包まれるだろう。純潔という彼らの白い衣は、主の園のかぐわしい香りを放つだろう。彼らの顔は主の光を反映し、つまずき、疲れ切った足の進む道を、照らすだろう。MB 1179.9
何が完全な品性を形造るかについて、真の理想を持つ者は、キリストのような同情と優しさを必ずあらわす。恵みの力は心を和らげ、感情を洗練し、きよめ、主の思いやりと礼儀についてわきまえさせる。MB 1180.1
しかし、黄金律にはもっと深い意味がある。神の多くの恵みの管理者とされた者はすべて、無知と暗黒のうちにある魂に、自分がその人たちの立場にあったならば、自分にしてもらいたいと願うことを、するように召されているのである。使徒パウロは、「わたしには、ギリシャ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある」と言った(ローマ1:14)。あなたは、暗やみに閉ざされて全く堕落した人よりも、神の愛を知り、神の恵みの豊かな賜物を受けているために、これらの賜物をその人に分け与えるべき負い目があるのである。MB 1180.2
このことはまた、この世の賜物や祝福についても同様である。あなたが何かを人以上に持っていれば、その程度に応じて、あなたはあなたより恵まれないすべての人に対して負い目がある。もし、わたしたちが富、または何か生活をうるおすものでも持っているならば、わたしたちには、苦しんでいる病人、寡婦、孤児のめんどうを見るという、きわめて厳粛な義務が負わせられている。わたしたちは、自分の状態と彼らの状態とが入れ替わっていたならば、自分がその人々にしてもらいたいと思うちょうどその通りのことを、彼らにしなければならないのである。MB 1180.3
黄金律は、山上の垂訓のほかの箇所で、「あなたがたの最るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」と教えられているのと同じ真理を教えている(マタイ7:2)。わたしたちが他の人に対してすることは、善であれ悪であれ、祝福またはのろいとなって、確実にわたしたちにはね返ってくる。自分が与えるものを、自分が再び受けるのである。わたしたちが他の人に与えるこの世の祝福は、同種のもので返される、事実しばしば返されているのである。わたしたちが与えるものは、必要な時に、よく、4倍もの価値あるものとなってもどってくる。しかし、そればかりでなく、すべてわたしたちが人に与えたものは、この世においても、神の愛が豊かにそそぎ込まれることにより報われる。この神の愛こそ、天のあらゆる栄光と宝の総計である。また、人に悪を行えば、それも再び返ってくる。人を勝手気ままに非難したり失望させたりする人は、他の人を通らせたその場所を自分も通らされるという経験をするだろう。彼は、自分が同情と優しさに欠けていたために、その人たちが苦しんだことを知るだろう。MB 1180.4
このことをお命じになったのは、わたしたちに対する神の愛である。神はわたしたちが、自分の心の無慈悲さを憎み、イエスに住んでいただくため心を開くようお導きになる。こうして、悪から善が生じ、のろいと見えるものが祝福となる。MB 1180.5
黄金律の標準は、キリスト教の真の標準である。これに達しないものはみな、にせ物である。キリストが、ご自身をお与えになるほどの価値をお認めになった人間を、低く評価するよう人々を導く宗教、人間の必要や苦しみや権利に対して無関心にするような宗教は、にせの宗教である。貧しい人、苦しむ人、罪深い人の要求を軽んじることによって、わたしたちは、自分がキリストに対する反逆者であることを立証する。キリスト教が世にあって、このように力がないのは、人々がキリストの名を称しながら、その生活においてキリストの品性を否定しているからである。主のみ名は、これらのことのゆえにけがされている。MB 1180.6
よみがえられたキリストの栄光が、照り輝いていた輝かしい使徒時代の教会について、次のように書かれている。「だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく」「彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった」「使徒たちは主イエスの復活につい て、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた」「そして日々心を1つにして絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびとまこころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである」(使徒行伝4:32、34、33、2:46、47)。MB 1180.7
天と地のどこをさがしてみても、わたしたちの同情と助けを必要とする人々に対する憐れみの行為にあらわされる以上に、力強い真理はあらわされていない。これは、イエスのうちにある真理である。キリストの名をとなえる人々が、黄金律の原則を実行する時、使徒時代に見られた同じ力が福音に伴うだろう。MB 1181.1
キリストの時代のパレスチナの人々は、城壁をめぐらした町々に住んでいた。これらの町はたいてい、丘か山の上にあった。門は日没に閉じられたが、その門まで、岩角けわしい道がきており、日の暮れるころに家へと向かう旅人は、しばしば、夜にならないうちに門に着くよう、骨の折れる上り道を急いで進まなければならなかった。漫然と歩く者は外に残された。MB 1181.4
城内の家庭と休み場への狭い上り道は、そのままクリスチャンの歩む道の象徴であることを、イエスにまざまざと印象づけた。おたしがあなたがたの前に備えた道は狭い、と主は言われた。その門を入ることは困難を伴う。なぜなら黄金律は、誇りと利己主義とを一切排除するからである。もっと広い道があることは、事実である。しかし、その終わりは、滅びである。もしあなたが、霊的生命の道を上ろうと思うならば、あなたは絶えず上らなければならない。なぜならそれは上り道だからである。あなたは少数の人々とともに、行かなければならない。なぜなら多くの者が下り道を選ぶからである。MB 1181.5
全人類は、死への道をあらゆる世俗的な思い、あらゆる利己主義、あらゆる誇り、不正直、道徳的堕落を持ったまま歩くことができる。その道には、どんな人の意見や教理も受け入れる余地がある。また、自分の好みに従ったり、利己主義のおもむくままにどんなことでもする余地がある。破滅への道を行くためには、その道を捜す必要はない。門は大きく、道も広く、足は自然に、死にいたる道に向かうからである。MB 1181.6
しかし、命にいたる道は細く、その門は狭い。もしあなたが、まとわりつく罪に愛着を持つならば、あなたは、その道はあまりに細くて、入ることができないことを知るだろう。もしあなたが主の道を歩き続けようと思うならば、あなた自身の道、あなた自身の意志、あなたの悪習慣を捨てなければならない。キリストに仕えようと思う者は、世の意見に従ったり、世の標準に応じたりすることはできない。天の道は、高位富裕の人々が堂々と進むにはあまりに狭く、自己中心的な野心をほしいままにするにはあまりに細く、安逸を愛する者が上るにはあまりにも険しい。キリストは労苦、忍耐、自己犠牲、非難、貧困、罪人たちの反対にあわれたが、それは、仮にわたしたちが神のパラダイスに入るとすれば、それがわたしたちの受けるべき運命でなければならないということである。MB 1181.7
しかし、だからと言って、上へ向かう道は困難な道、下へ向かう道は安易な道と考えてはならない。死への道には、どこにでも、苦痛と刑罰があり、悲しみと失望があり、その道を行くなとの警告がある。神の愛は、不注意で強情な者が簡単に滅びに陥らないようにしたのである。サタンの道が魅力的に見えるのは事実である。しかし、それらはすべて欺きである。悪の道には、激しい後悔と思いわずらいがある。誇りと世俗的な野心を追求することは、楽しいことだと思うかも知れない。しかしその果ては、苦しみと悲しみである。利己的な企ては将来に輝かしい夢を描かせ、快楽を約束する。しかし、自己を中心にした望みがわたしたちの幸福をこわし、わたしたちの生涯をみじめなものにするのに気づくのである。下り坂の門は、花で飾られているかも知れない。しかしその道には、いばらがある。その門から輝く希望の光は、薄れていって失望のやみと化し、その道をたどる魂は、永遠の夜の やみの中に沈んで行くのである。MB 1181.8
「不信実な者の道は滅びである」。しかし、知恵の「道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である」(箴言13:15、3:17)。キリストに服従する行為、キリストのための自己犠牲のすべての行為、耐え抜いたすべての試練、誘惑に対する勝利は、ことごとく、輝く最後の勝利へ前進する一歩である。わたしたちがキリストを導き手とするならば、キリストはわたしたちを安全に導かれる。どんな罪人も道に迷う必要はない。おののきながら求める者で、一人として、純潔なきよい光の中を歩むことができないものはない。その道が非常に細く、また、罪が黙認されないほどきよいものであっても、そこを歩くことは、すべての人に保証されているのであって、どんなに疑い深くおそれおののく魂も、「神はわたしを顧みてくださらない」と言う必要はない。MB 1182.1
道は悪く、坂は急であるかも知れない。右や左に、おとし穴があるかも知れない。また、わたしたちは、旅の労苦を耐えなければならないかも知れない。疲れた時も、休息を切望する時も、労苦を続けなければならないかも知れない。弱っている時にも、戦わなければならないこともあろう。失望に陥ってもなお、希望を持たなければならない。しかし、キリストに導かれて、わたしたちは必ず最後には、望む港に達することができるのである。キリストご自身が、わたしたちの先に悪路を進み行かれ、わたしたちの足のために道をなめらかにされた。MB 1182.2
永遠の命に導くこのけわしい道のほとりには、いたる所に、疲れた者を力づける喜びの泉がわき出ている。知恵の道を歩く者は、困難の時にも大きな喜びがある。彼らの魂の愛する主が、目には見えないが、彼らのそばを歩まれるからである。一歩高くのぼるごとに、一層はっきりとイエスのみ手が触れるのを感じる。一歩一歩、見えないお方から来る一層輝かしい栄光のきらめきが、彼らの道を照らす。そして彼らの賛美の歌は、一層調子を高めて天へのぼり、みくらの前の天使たちの歌と一つになるのである。「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4:18)。MB 1182.3
日の暮れる前に、町の門に着こうと急いでいる遅れた旅人は、途中にあるものに心をひかれて、わき道へそれることはできなかった。彼は、門に入るということしか考えていなかった。これと同じ強い目的が、クリスチャン生活には要求されるとイエスは言われた。わたしはあなたがたに、品性の栄光を示した。これが、わたしの国の真の栄光である。それはあなたがたに、地上の支配権を与えると約束はしない。しかし、それは、あなたがたの最高の希望と努力とに値するものである。わたしは、世界大帝国の主権のために、戦うようにあなたがたを召したのではない。しかし、だからといって、何の戦いもせず1勝利を得なくてもよいなどと考えてはならない。わたしは、あなたがたに、わたしの霊的王国に入るために戦い、苦心せよと命じるのである。MB 1182.6
クリスチャンの生涯は戦いであり、進軍である。しかし、勝利は、人間の力では得られない。戦場は心の中にある。わたしたちの戦い、すなわち、人間の戦わなければならない最も激しい戦いは、自己を神の意志に従わせること、心を、愛の主権に屈服させることである。血肉による古い性質は、神の国をつぐことができない。生まれつきの性癖、古い習慣は捨てなければならない。MB 1182.7
霊的王国に入ろうと決心する者は、自分の生まれ変わらない性質のあらゆる力と欲望とが、暗黒の王国の勢力に支援されて、自分に手向かってくるのに気づくだろう。利己心と誇りとは、それが罪である二とを指摘するすべてのものに対して反抗する。わたしたちは、自分を支配しようとする悪い欲望や習慣を、自分で征服することはできない。わたしたちは、自分を奴隷の状態におく強い敵に、うち勝つことはできない。わたしたちに勝利を与えることができるのは、神だけである。神は、わたしたちが自分自身を、また、自 分の意志や行動を、支配することを望んでおられる。しかし、神はわたしたちの同意と協力がなければ、わたしたちのうちにお働きになることはできない。聖霊は、人に与えられた才能と能力を通して、働くのである。わたしたちの精力は、神と協力するよう要求されている。MB 1182.8
熱心な多くの祈りと、一歩一歩自らを低くすることなしには、勝利は得られない。わたしたちの意志は、神の力と協力するように強いるべきものではなくて、それは、自発的にささげられなければならない。たとえ、100倍もの強さをもって、神の霊の力をあなたに強制的に及ぼすことができるとしても、それは、あなたをクリスチャン、すなわち天にふさわしい民とすることはできないだろう。サタンのとりでは、それによって打破されないだろう。意志が、神の意志の側に置かれなければならない。あなたは、自分の力では、あなたの目的や願望や傾向を、神の意志に従わせることはできない。しかし、もしあなたが、「喜んでそうする者とされることにこころよく同意する」ならば、神はあなたのためにわざをなしとげられ、「神の知恵に逆って立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにして、キリストに服従させ」るのである(Ⅱコリント10:5)。その時あなたは、「恐れおののいて自分の救を達成」するのである。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:12、13)。MB 1183.1
しかし多くの人は、キリストのうるわしさと天の栄光に引きつけられながらも、それらを自分のものとすることのできる唯一の条件を、回避するのである。広い道を歩いていても、大勢の人々が自分の歩いている道に十分満足してはいない。彼らは、罪の束縛から解放されたいと切望し、自分の力で自分の罪深い習慣をやめようとする。彼らは細い道と狭い門をながめるが、利己的な快楽や世を愛する心や高慢やきよめられていない野心が、彼らと救い主との間に障壁を設ける。自分の意志を放棄し、自分の好きなものやしたいことを捨てることは、犠牲を要するので、彼らは、ためらい、また引き返していくのである。「はいろうとしても、はいれない人が多い」のである(ルカ13:24)。彼らは良いものを望み、それを得ようとしていくらかの努力はする。しかし、それを選ばない。彼らはすべてのものを犠牲にしても、それを得ようという確固たる目的を持っていない。MB 1183.2
勝利を得ようとする者にとって、唯一の勝つ見込みは、自分の意志を神の意志と一致させ、毎日、毎時間、神と協力して働くことにある。わたしたちは自己を保持したまま、神の国に入ることはできない。もしわたしたちがきよさに達するとすれば、それは自己を捨て、キリストの心を心とすることによってである。高慢とうぬぼれとは、十字架につけられなければならない。わたしたちは、要求される価を喜んで払うだろうか。わたしたちは、自分の意志を喜んで神の意志と完全に一致させるだろうか。わたしたちが同意しない限り、神の変化させる恵みは、わたしたちの上にあらわされない。MB 1183.3
わたしたちの戦うべき戦いは、「信仰の戦い」である。使徒パウロは、「わたしは……、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」と言っている(コロサイ1:29)。MB 1183.4
ヤコブは、その生涯の大きな危機に当面した時に、一人離れて祈った。彼は品性を変えていただきたいという切なる願いを、心にいだいていた。しかし、彼が神に懇願していた時、敵と思われる者の攻撃にあって、終夜、彼は必死になって格闘した。しかし彼の魂の願いは、命がどんな危険にさらされても変わらなかった。彼の力がまさに尽き果てようとした時、キリストは神の力をあらわされた。キリストのみ手がふれた時、ヤコブは自分が争っていた方がだれであるかを知った。傷つき、どうすることもできなくなったヤコブは、救い主の胸によりすがり、祝福を懇願した。彼はあくまで主におすがりし、願い求めることをやめようとはしなかった。キリストは、「わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」とい う約束に従って、このあわれな悔い改めた魂の嘆願をおきき入れになった(イザヤ27:5)。ヤコブは、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と切に訴えた(創世記32:26)。この堅固な精神は、ヤコブの組み打ちの相手であった主によって、吹き込まれたものであった。彼に勝利を与えたのは、キリストであった。「あなたが神と人とに、力を争って勝った」と言って、主は、彼の名をヤコブからイスラエルにお変えになった(創世記32:28)。ヤコブは、自分の力で懸命に得ようとして得られなかったものを、自己放棄と確固たる信仰によって得たのであった。「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である」(Ⅰヨハネ5:4)。MB 1183.5
偽りの教師が起こって、あなたがたを細い道と狭い門から引きはなすであろう。彼らを警戒しなければならない。彼らは、羊の衣を着ているが、その内側は、強欲なおおかみである。イエスは、偽りの教師とまことの教師を見分ける方法を、お教えになった。主は、「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか」と言われた(マタイ7:16)。MB 1184.3
わたしたちは彼らを、そのりっぱな話や高尚な公言によってためすように命じられてはいない。彼らは、神のみことばによって検討されるべきである。「ただおきてとあかしとを求めなさい。彼らのいうところがこのことばに一致しなければ、光はない」「わが子よ、知識の言葉をはなれて人を迷わせる教訓を聞くことをやめよ」(イザヤ8:20・文語訳参照、箴言19:27)。これらの教師たちは、どのような教えを伝えているだろうか。それはあなたに、神を敬いおそれるようにさせるだろうか。それはあなたを、神のいましめに忠誠をつくさせ、神を愛するようにさせるものだろうか。もし人々が道徳律の重要性を感じないで、彼らが神の教えを軽んじ、彼らが神の律法の最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりするならば、彼らは神の御目には何の価値もない。わたしたちは彼らの主張が、何の根拠もないものであることがわかる。彼らは、神の敵である暗黒の王が始めた同じ働きをしているのである。MB 1184.4
キリストの名をとなえ、そのしるしをつけている者が、皆キリストのものであるというわけではない、わたしの名によって教えた多くの者が、最後に足らないことを見いだされるであろうとイエスは言われた。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:22、23)。MB 1184.5
まちがっていながら、自分は正しいと信じている人々がいる。キリストを主ととなえ、キリストの名によって大きなわざを行っているととなえながら、実は彼らは、不法を行う者たちなのである。「彼らは口先では多くの愛を現すが、その心は利におもむいている」(エゼキエル33:31)。神のみことばを宣言する者は、彼らには「美しい声で愛の歌をうたう者のように、また楽器をよく奏する者のように思われる。彼らは、あなたの言葉は聞くが、それを行おうとはしない」(エゼキエル33:32)。MB 1184.6
弟子であると公言するだけでは、何の価値もない。魂を救うキリストに対する信仰とは、多くの人が表明しているようなものではない。彼らは、「信じなさい、信じなさい、あなたは律法を守る必要はない」と言う。しかし、服従へ導かない信仰は、臆断である。使徒ヨハネは、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」と言っている(Ⅰヨハネ2:4)。だれも、特別な摂理や奇跡的なあらわれなどがあるからといって、彼らの働きやその主張する思想が正しい証拠であると考えてはならない。人々が神のみことばを軽んじて語り、自分の印象や感情や行動を神の標準以上に見なす時、彼らのうちには光がない一 とがわかるのである。MB 1184.7
服従は、弟子であることの試金石である。わたしたちの神に対する愛の真実性を証拠だてるのは、律法の遵守である。わたしたちの受け入れる教理が心の罪の根を断ち、魂を汚れからきよめ、きよきに至る実を結ばせるなら、わたしたちはそれが神の真理であると知ることができる。博愛、親切、情け、同情がわたしたちの生活にあらわされ、正しいことをする喜びが心の中にあり、わたしたちが自分ではなくて、キリストをあがめるならば、わたしたちの信仰は正しいものであると知ることができる。「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである」(Ⅰヨハネ2:3)。MB 1185.1
「倒れることはない。岩を土台としているからである」MB 1185.2
人々は、キリストの言葉に深い感動を覚えた。真理の原則の聖なる美しさが、彼らを引きつけた。そしてキリストの厳粛な警告が、心を探る神の声のように彼らに聞こえた。その言葉は、彼らの持っていた思想や意見を根こそぎゆさぶった。その教えに従うならば、思考や行動のあらゆる習慣を、変えざるを得ないのである。それは、彼らを彼らの宗教教師と衝突させることになるだろう。なぜなら、それは、ラビたちが幾世代にもわたって築いてきた全機構を、一切くつがえすことになるからである。それで、入々の心はそのことばに反応したけれども、それを人生の指針として喜んで受け入れる者は、ほとんどいなかった。MB 1185.4
イエスは、お語りになった言葉を実行することが、どんなに大切であるかを、驚くほどはっきりした例話をもって示し、山上の垂訓を終えられた。救い主のまわりに群がった群衆の中には、ガリラヤ湖のほとりで生活していた人々が大勢いた。彼らが山腹にすわってキリストの言葉を聞いていた時、彼らは、山の流れが海へ注ぐ谷間や峡谷を望むことができた。夏には、これらの流れは枯れ、ただ乾いた、ほこりっぽい川床のみが残るのであった。しかし、冬の嵐が丘に吹きつけると、川は激しい怒り狂う奔流となり、時には谷間全体に広がり、とどめることのできない洪水となって、あらゆるものを運び去った。そのような時、しばしば、草の茂った平野に、農夫たちの建てた、見たところ危険の及ばないように思われた小屋が流されてしまった。しかし、家は、丘の高い所の、岩の上に建てられていた。またあるところでは、住居が全部岩で造られ、それらの多くは1000年もの長い間、嵐に耐えてきたのであった。これらの家は、骨折って建てられた。そこまで行くのは容易でなかったし、その場所は、草の茂った平野よりも好ましくないように思われた。しかし、それは岩の上に建てられていたので、どんな風も洪水も嵐も、ただむなしくそれらを打つばかりであった。MB 1185.5
わたしがあなたがたに語ったことばを受け人れて、それらを品性と生活の基礎とする者は、家を岩の上に建てた人々のようであるとイエスは言われた。それより幾世紀も前に、預言者イザヤは、「われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」と書いたのであった(イザヤ40:8)。またペテロは、山上の垂訓がなされたずっとあとで、イザヤのこの言葉を引用して、「これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である」とつけ加えている(Ⅰペテロ1:25)。神のみことばは、この世界の中で唯一のゆるがないものである。これが確かな基である。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」と、イエスは言われた(マタイ24:35)。MB 1185.6
律法の大原則、また神のこ性質そのものの偉大な原則は、山上におけるキリストのみことばのうちに具体的に表現されている。それらのことばの上に建てる者はだれでも、千歳の岩なるキリストの上に建てているのである。みことばを受け入れることによって、わたしたちは、キリストを受け入れるのである。このようにキリストのみことばを受け入れる者のみが、キリストの上に建てているのである。「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである」(Ⅰコリント3:11)。「わたしたちを救いうる名は、これを別に しては、天下のだれにも与えられていない」(使徒行伝4:12)。神の啓示であり、言葉であるキリスト、そして、彼のあらわされた品性、その律法、その愛、その生涯こそ、わたしたちが永遠の品性を築きうる唯一の土台である。MB 1185.7
わたしたちは、キリストのみことばに従うことによって、キリストの上に建てるのである。義人であるということは、単に義を楽しむ者ではなく、義を行う者のことである。聖潔は、恍惚状態ではない。それは、神にすべてをささげる結果である。それは、天の父の意志を行うことである。イスラエルの子孫が約束の地の国境に野営した時、彼らは、カナンについての知識を持ったり、カナンの歌を歌うだけでは十分でなかった。それだけでは、彼らは、美しい土地のぶどう園やオリーブ畑を所有することはできなかったろう。彼らは、神のお教えに従うとともに、占領すること、条件に応じること、神に対する生きた信仰を働かすこと、神の約束を自分のものとすることによってはじめて、それを実際に、自分の所有とすることができた。MB 1186.1
信仰とは、キリストのみことばを行うことにある。行うのは、神の恵みを得るためではなく、全くそれに値しないのに、わたしたちが神の愛の賜物を受けたからである。キリストは、人間の救いを単なる告白によるものではなく、義の行いにあらわされる信仰によるものとされたのである。単に言うだけでなく、行うことが、キリストに従う者に期待されている。品性が築かれるのは、行為によってである。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:14)。心に御霊が触れる者ではなく、時々、御霊の力に屈伏する者でもなく、みたまに導かれている者が神の子なのである。MB 1186.2
あなたは、キリストに従う者になりたいと願いながら、どのようにして始めたらよいかわからずにいるだろうか。あなたは暗い中で、光を見いだす方法を知らないでいるだろうか。今、持っている光に従うことである。あなたの知っている神のみことばに、従う決心をしなさい。神の力、神の命そのものが、みことばのうちに宿っている。あなたがみことばを、信仰をもって受け入れる時、それはあなたに服従する力を与える。あなたの持っている光に従えば、もっと大きな光がくる。あなたは神のみことばの上に築いているのであって、あなたの品性は、キリストの品性に型どってかたちづくられる。MB 1186.3
まことの土台であるキリストは、生きた石である。キリストの命は、彼の上に建てられる、すべての者に与えられる。「あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ」「建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長」する(Ⅰペテロ2:5、エペソ2:21)。石は土台と一つになった。なぜなら共通の生命が全体に宿るからである。その建物を嵐もくつがえすことはできない。なぜなら、MB 1186.4
しかし、神のみことば以外の土台の上に建てられた建物は、みな倒れる。キリストの時代のユダヤ人のように、人間の思想や見解という土台の上に、人間の作り出した形式や儀式の土台の上に、さらに、その他キリストの恵みから離れてする行いの上に建てる者は、みな、品性という建物を、もろくくずれる砂の上に築いているのである。試みの激しい嵐は、砂の土台を流し去り、その家は、時の岸辺に打ちあげられる難破物となって残るだろう。MB 1186.7
「それゆえ、主なる神はこう言われる……『わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す』」(イザヤ28:16、17)。MB 1186.8
しかし、今日、恵み深い神は、罪人に訴えておられる。「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」(エゼキエル33:11)。悔い改めない者に今日語りかける声は、愛する都を見て心を痛め、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ、ちょうどめんどりが翼の下 にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」と叫んだかたのみ声である(ルカ13:34、35)。MB 1186.9
イエスは、エルサレムが、ご自分の恵みを拒み、さげすんだ世界の象徴であるのをごらんになった。かたくなな心の者よ、イエスはあなたのために涙を流されたのである。イエスが山上で涙を流されたその時でさえ、エルサレムは悔い改めるならば破滅をのがれることができたのであった。いましばらくの間、天の賜物なるイエスは、エルサレムがご自分を受け入れるのを待っておられた。そのように、ああ人の心よ、キリストはあなたに、愛の口調で今も語りかけておられる。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(黙示録3:20、Ⅱコリント6:2)。MB 1187.1
自分にたよっている者は、砂の上に築いているのである。しかし、まだ、さし迫る滅亡からのがれるのに遅すぎることはない。嵐の起こる前に、堅固な土台にのがれようではないか。「主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。「信ずる者はあわてることはない」』」「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは、神であって、ほかに神はないからだ」「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」「あなたがたは世々かぎりなく、恥を負わず、はずかしめを受けない」(イザヤ28:16、45:22、41:10、45:17)。MB 1187.2