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各時代の希望

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    第19章 ヤコブの井戸で

    本章はヨハネ4:1~42に基づくDA 756.2

    ガリラヤへの途中、イエスはサマリヤをお通りになった。イエスがシケムの美しい谷にお着きになったのは正午だった。この谷の入口に、ヤコブの井戸があった。旅にお疲れになったイエスは、弟子たちが食物を買いに行っている間ここに腰をおろして休まれた。DA 756.3

    ユダヤ人とサマリヤ人とは互いに激しい敵意を持ち、できるだけお互いの交渉は一切避けていた。必要な場合にサマリヤ人と取引をすることはラビたちから合法的とみなされていたが、彼らとの社交的な交際はすべて非難された。ユダヤ人はサマリヤ人から借りることはもちろん、1切れのパン、1杯の水でさえもサマリヤ人の親切を受けようとしなかった。弟子たちは、食物を買うのに、ユダヤ人の習慣に従ってふるまい、それ以上深入りしなかった。サマリヤ人にものをたのもうとか、あるいは何かの方法で彼らの益になることをしようなどということは、キリストの弟子たちでさえ思い浮ばなかった。DA 756.4

    イエスは、井戸端にすわられた時、飢えとかわきのために弱っておられた。朝からの旅は長かった。そしていま真昼の太陽がイエスを照りつけていた。すぐそばにありながら手の届かないつめたい新鮮な水のことを思うと、イエスののどのかわきは一層つのった。綱もなければ水おけもなく、しかも井戸は深かった。イエスは、べ間の身であられたので、だれかが水をくみにくるのを待たれた。DA 756.5

    サマリヤの女が近づいてきて、イエスがおられるのを意識しない様子で、水さしに水を満たした。彼女が向きをかえて立ち去ろうとした時、イエスは水を1杯もらいたいとたのまれた。東洋人には、こんな願いをしりぞける人はいない。東方では、水は「神の賜物」といわれた。のどのかわいた旅人に1杯の水をさし出すことは、神聖な義務と考えられていて、砂漠のアラビヤ人は、その義務を果たすためにはまわり道さえするのであった。ユダヤ人とサマリヤ人との間に憎しみがあるために、この女はイエスに親切を申し出ることができなかった。しかし救い主はこの人の心に入る鍵をみつけようとしておられたので、神の愛から生じる機知をもって、恩恵を提供するのではなくかえってこれを求められた。親切を提供しようとすれば、ことわられたかもしれなかった。だが信頼心は信頼心を呼び起こす。天の王がこの見捨てられた魂のところにおいでになって、彼女の手の奉仕を求められたのである。大洋を作り、大海を支配し、この地上の泉と水路をお開きになったお方が、疲れてヤコブの井戸のところで休み、1杯の水をもらうためにさえ見知らぬ人の親切にたよられたのである。DA 756.6

    女はイエスがユダヤ人であることに気がついた彼女は驚きのあまり、イエスの願いをかなえることを忘れて、その理由を知ろうとした。女は、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言った(ヨハネ4:9)。DA 756.7

    イエスは、「もしあなたが神の賜物のことを知り、ま た、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と答えられた(ヨハネ4:10)。あなたは、足下のこの井戸から1杯の水をほしいというわたしの小さなたのみをあやしんでいる。もしあなたがわたしにたのんだら、わたしは永遠のいのちという水をあなたに飲ませてあげたのだ。DA 756.8

    女はキリストのことばを理解しなかったが、その厳粛な意味を感じた。彼女の軽々しい、ひやかすような態度が変化しはじめた。彼女は、イエスが目の前の井戸のことを言われたのだと思って、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならずその上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」と言った(ヨハネ4:11、12)。彼女は、目の前の人を、歩き疲れたほこりだらけの旅人にしか思わなかった。彼女は、心の中で、イエスを尊敬すべき父祖ヤコブとくらべた。彼女の心中には、父祖から与えられたこの井戸にくらべられる井戸はほかにないという感情が宿っていたが、それは当然なことであった。彼女は父祖たちを回顧し、メシヤの来臨を待望していた。DA 757.1

    ところが父祖たちの望みであったメシヤご自身が彼女のそばにおられるのに、彼女はそのお方を知らなかった。今日、生きている泉のすぐ近くにいながら、いのちの泉を求めて遠いところをさがしている魂がどんなに多いことだろう。「『あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろすことである。また、『だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな』。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。……『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。……自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:6~9)。DA 757.2

    イエスはご自分のことについてすぐには答えず厳粛なまじめさで、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と言われた(ヨハネ4:13、14)。DA 757.3

    この世の泉でかわきをいやそうとする者は、飲んでもすぐにまたかわくだけである。どこでも人々は満足していない。彼らは魂の必要を満たすものを求めている。その足りないところを満たすことのできるお方は1人しかない。世の必要、「万国の願うところのもの」はキリストである(ハガイ2:7・文語訳)。キリストだけがお与えになれる神の恵みこそ、魂をきよめ、清新にし、活気づける生ける水である。DA 757.4

    イエスは、1杯のいのちの水を受けるだけで十分であるという意味のことは言われなかった。キリストの愛を味わう者はたえずもっと求める。だがそれ以外のものは何も求めない。彼には世の富も栄えも楽しみも、魅力がない。彼の心は、『もっとあなたを』とたえず叫びつづける。魂に必要をお示しになるお方が、その飢えとかわきを満たそうと待っておられる。人間的な手段や人間にたよる時にみな失敗する。水槽はからになり、水たまりはかわく。だがあがない主は尽きない泉である。飲んでも飲んでも新しい水がいつでもわいている。キリストを内住させている人は、自分のうちに祝福の泉、永遠のいのちに至る水のわきあがる泉を持っている。この泉から、彼は自分のすべての必要を満たすのに十分な力と恵みとをくむことができる。DA 757.5

    イエスが生ける水のことを話されると、女は驚きのまなざしでイエスを見た。イエスは彼女の興味を起こし、ご自分が話された賜物をほしいという気持を目覚めさせられたのだった。彼女は、イエスが言われたのはヤコブの井戸の水のことではないことに気がついた。この井戸の水なら、いつでもくんで飲み、そしてまたのどがかわくからである。そこで彼女は「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくて もよいように、その水をわたしにください」と言った(ヨハネ4:15)。DA 757.6

    するとイエスは、突然に話題を変えられた。イエスが与えようと望んでおられる賜物をこの魂が受けることができる前に、彼女は自分の罪と救い主をみとめねばならない。イエスは、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」と言われる。彼女は、「わたしには夫はありません」と答えた。こうして彼女はその方面の質問を一切封じようとした。だが救い主は続けて、「夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには5人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」と言われた(ヨハネ4:17、18)。DA 758.1

    これを聞いた女はふるえた。神秘の手が彼女の経歴のページを開き、永遠にかくしておきたいと望んでいたことを明るみに出そうとしていた。自分の一生の秘密を読みとることができるとは一体このお方はどなただろう。彼女の心には、現在かくされていることがすべて明らかにされる来世すなわち未来のさばきについての考えが浮んだ。その光の中に、良心が目覚めた。DA 758.2

    彼女は何もこばむことができなかった。だがこの面白くない問題についてふれるのを一切避けようとした。深い尊敬の念をもって、彼女は、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます」と言った(ヨハネ4:19)。それから、罪の自覚をうち消そうと望んで、彼女は宗教上の論争になっている問題を持ち出した。もしこの人が預言者なら、この人は長年論議されてきたこの問題について教えることができるにちがいない。DA 758.3

    イエスはこの女が話題を自分の好む方向に持って行こうとするのを忍耐強くおゆるしになった。そうしている間に、イエスは彼女の心に真理をもう1度うえつける機会を注意深く待たれた。女は「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」と言った(ヨハネ4:20)。ちょうど目に見えるところにゲリジム山があった。その神殿は破壊されて、祭壇だけが残っていた。礼拝の場所は、ユダヤ人とサマリヤ人との間の論争のまととなっていた。サマリヤ人の先祖の一部はかつてイスラエルに属していたが、罪のために、主は彼らが偶像礼拝の国民に征服されるのをおゆるしになった。幾世代もの間彼らは偶像礼拝者たちにまじったので、後者の宗教が彼ら自身の宗教をだんだん堕落させた。なるほど彼らは、自分たちの偶像は宇宙の支配者であられる生ける神を思い出すためのものにすぎないと主張した。だがそれにもかかわらず民はきざんだ像をあがめるようになった。DA 758.4

    エズラの時代にエルサレムの神殿が再建された時、サマリヤ人はユダヤ人といっしょに建築にあたりたいと望んだ。この特権は拒否され、サマリヤ人とユダヤ人との間にはげしい憎しみが生じた。サマリヤ人はユダヤ人に対抗してゲリジム山に神殿を建てた。ここで彼らはモーセの儀式に従って礼拝したが、一方また偶像礼拝もまったく捨てきってはいなかった。ところが災難が起こって、神殿は敵に破壊され、彼らはのろわれているようにみえた。それでもなお彼らは礼拝について自分たちの伝統と形式とを固守した。彼らはエルサレムの神殿を神の家としてみとめようとせずまたユダヤ人の宗教が自分たちの宗教にまさっているとみとめようとしなかった。DA 758.5

    女に答えてイエスは、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである」と言われた(ヨハネ4:21、22)。イエスはサマリヤ人に対してユダヤ人の偏見を持っておられないことをすでにお示しになった。いま彼はユダヤ人に対するサマリヤ人の偏見をうち破ろうとされた。イエスは、サマリヤ人の信仰が偶像礼拝によって堕落したことを指摘される一方で、あが列いの大真理がユダヤ人に委託され、ユダヤ人の中からメシヤが現われることを言明された。聖書を通して彼らは神のご品性と神の統治の原則とについてはっ きり示されていた。イエスはご自分を、神がご自身についての知識をお与えになったユダヤ人と同類におかれた。DA 758.6

    イエスは、聞き手の思いを、形式や儀式の問題、そしてまた論争の問題から高めようと望んで、こう言われた、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:23、24)。DA 759.1

    イエスがニコデモに、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われた時に示されたのと同じ真理がここに宣言されている(ヨハネ3:3)。人は、聖なる山や聖なる宮を求めることによって天とのまじわりに入れるのではない。宗教は外面的な形式や儀式に限定されるのではない。神から出ている宗教だけが神へいたる宗教である。神に正しく仕えるためには、神のみたまによって生まれなければならない。みたまは心をきよめ、思いを新たにし、神を知り愛する新しい能力をわれわれに与える。それは神のすべてのご要求によろこんで従う心をわれわれに与える。これが真の礼拝である。それは聖霊の働きの実である。みたまによって、すべての真実な祈りはことばとなり、このような祈りは神に受け入れられる。魂が神を追い求めるところにはどこでもみたまの働きがあらわれ、神はその魂にご自身をあらわされる。神はこのような礼拝者を求めておられる。神は彼らを受け入れて、ご自分の息子娘にしようと待っておられる。DA 759.2

    女はイエスとお話して、そのみことばに感動した。彼女はサマリヤ人の祭司からもユダヤ人からもこんな意見を聞いたことがなかった。過去の生活が目の前にひろげられた時、彼女は自分の大きな必要に気づいていた。彼女は自分の魂がかわいているのを認めた。そのかわきは、スカルの井戸の水では決して満足させることができなかった。これまで接したものの中で、彼女の心をもっと高い必要にこれほどめざめさせたものは何もなかった。イエスは、彼女の生活の秘密を見抜いたことを彼女に自覚させられた。それでも彼女は、イエスが友として自分を憐れみ、愛してくださることを感じた。純潔なイエスの前にいることによって彼女は自分の罪を責められたが、イエスは譴責のことばを言もお語りにならず、ただ魂を新たにすることのできる恵みについて語られた。彼女はイエスがどういうお方であるかについて、いくらか確信を持ちはじめた。このお方が長い間待望されていたメシヤではないだろうかという疑問が心の中に起こった。彼女は、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。その方がこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」とイエスに言った。イエスは、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と答えられた(ヨハネ4:25、26)。DA 759.3

    女は、このことばをきくと、心の中に信仰がわき起こった。彼女は天来の教師イエスの口から出たこのすばらしい宣言を受け入れた。DA 759.4

    この女はものごとを感知する心を持っていた。彼女は最もとうとい啓示を受け入れる用意ができていた。それは彼女が聖書に興味を持ち、もっと光を受けられるように聖霊が彼女の心を準備していたからであった。彼女は、「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」との旧約の約束を学んでいた(申命記18:15)。彼女はこの預言をさとりたいと望んだ。光はすでに彼女の心にさし込みはじめていた。いのちの水、すなわちキリストがすべてのかわける魂に与えられる霊的生命は、彼女の心のうちにめばえ始めていた。主のみたまが彼女の上に働いていた。DA 759.5

    キリストがこの女にはっきり語られたことばは、自分自身を義とするユダヤ人に向かっては語ることのできなかったことばだった。キリストは、ユダヤ人に向かって語られる時にはずっとひかえ目だった。ユダヤ人に向かっては言われたことのないこと、そして あとで弟子たちに秘密にするように命じられたことが、彼女にうち明けられた。イエスは彼女がこの知識を利用して、ほかの人たちにイエスの恵みをわけ与えることをご存じだった。DA 759.6

    弟子たちは、使いから帰ってきた時、主が女と話しておられるのを見て驚いた。主はご自分が望まれた清新な1杯の水をまだ飲んでおられず、また弟子たちが持ってきた食物を食べるために話をやめようともされなかった。女が立ち去ると、弟子たちはイエスに食べてくださるようにと願った。彼らはイエスが深い瞑想のうちにあられるかのように、だまって考えこんでおられるのを見た。イエスのお顔は光に輝いていたので、彼らはイエスの天とのまじわりをさまたげることを恐れた。しかし彼らはイエスが疲れて弱っておられることを知っていたので、イエスの肉体上の必要を気づかせる義務があると思った。イエスは彼らのやさしい関心をみとめられたが、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」と言われた(ヨハネ4:32)。DA 760.1

    弟子たちは、だれが主に食物を持ってきたのだろうとあやしんだ。だがイエスは、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と説明された(ヨハネ4:34)。イエスは、ご自分のことばによって女の良心がめざめたことをよろこばれた。イエスは、女がいのちの水を飲むのをごらんになって、ご自身の飢えとかわきが満足させられた。イエスが天を去って、なしとげるためにこられたその使命の達成が救い主の働きを力づけ、人間の必要を超越させた。真理に飢えかわいている魂に奉仕することは、イエスにとって飲んだり食べたりするよりうれしいことだった。それはイエスを慰めるものであり、元気づけるものであった。博愛がイエスの魂のいのちであった。DA 760.2

    あがない主は人々に認められることにかわいておられる。主はご自分の血で買われた人々の同情と愛に飢えておられる。主は、言い表しようのない願いをもって、彼らがみもとにきていのちをいただくことを望んでおられる。小さな子供が母親を認めてにっこり笑うのは知恵のめばえを告げている。母親がその表現を注意深く見守っているように、キリストは、魂のうちに霊的な生命が始まった証拠である感謝にみちた愛が表現されるのを見守っておられる。DA 760.3

    女はキリストのみことばに聞き入っている時喜びに満たされた。そのすばらしい啓示はほとんど圧倒的であった。彼女は水がめを残して、イエスのことばをほかの人たちに伝えるために町へもどった。イエスはなぜ彼女が立ち去ったかをご存じだった。生ける水を手に入れることが彼女の魂の熱心な願いであった。彼女は井戸へきた用事を忘れ、イエスのかわきをいやしてさしあげるつもりだったことも忘れた。喜びにあふれる心をもって、彼女は自分が受けたとうとい光をほかの人たちに与えるために道を急いだ。DA 760.4

    彼女は町の人たちに、「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい」と言った。「もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。彼女のことばは人々の心を動かした。彼女の顔には新しい表情があらわれ、全体の様子に変化がみられた。彼らはイエスを見たいという興味をそそられた。そこで「人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った」(ヨハネ4:29、30)。DA 760.5

    イエスは、まだ井戸端にすわっておられる時、緑の若葉に黄金の日光を浴びて目の前にひろがっている麦畑をごらんになった。その光景を弟子たちに指さして見せながら、主はそれを一つの象徴としてお用いになった。「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ4か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている」(ヨハネ4:35)。語りながらイエスは、井戸へやってくる人々の群れに目をとめられた。麦の収穫時までには4か月あるが、ここにすでに刈り手を待っている収穫があった。DA 760.6

    イエスは言われた、「刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる」(ヨハネ4:36、37)。ここにキリストは、福音を受け入 れる者が当然神のためにしなければならない聖なる奉仕を指摘しておられる。彼らは神の生ける代表者となるのである。神は彼らの個人的な奉仕を求められる。われわれはまこうが刈り入れようが、神のために働いているのである。1人が種をまき、他の者が収穫を集める。そしてまく者も刈る者も賃金をもらい、彼らは共にその働きの報酬を喜ぶのである。DA 760.7

    イエスは弟子たちに、「わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」と言われた(ヨハネ4:38)。救い主はここでペンテコステの日の大収穫を予見しておられた。弟子たちはこれを自分たちの努力の結果とみなすべきではなかった。彼らは他の人々の働きに加わっているのであった。アダムが堕落してから後ずっとキリストは人の心の中にまくために、選ばれたしもべたちにみことばの種を託してこられた。そして目に見えない作用、しかも全能の力が、収穫を生じさせるために、無言のうちに効果的に働いてきた。真理の種に活力と栄養とを与えるために、神の恵みという露と雨と日光が与えられてきた。キリストはご自身の血でその種に水をそそごうとしておられた。キリストの弟子たちには神と共に働く者となる特権があった。彼らはキリストと共に働く者であり、また古代の聖人たちの共労者であった。ペンテコステの聖霊の降下によって、1日に幾千の者が改心するのであった。これがキリストの種まきの結果であり、キリストの働きの収穫であった。DA 761.1

    井戸のところで女に話されたことばによって、よい種がまかれたが、何とまあ早く収穫が与えられたことだろう。サマリヤ人はやってきてイエスのみことばを聞き、イエスを信じた。彼らは井戸のところにおられるイエスのまわりにおしよせ、イエスを質問攻めにして、これまではっきりわからなかった多くのことについてイエスの説明を熱心に聞いた。DA 761.2

    聞くにつれて、彼らの疑問が晴れはじめた。彼らはちょうど非常な暗やみの中にあって突然ひとすじの光をさがしあて、ついに真昼に出会った人々のようだった。しかし彼らはこの短い会見に満足しなかった。彼らはもっと聞きたがり、また友人たちにもこのすばらしい教師の話をきかせたがった。人々はイエスを自分たちの町に招き、彼らのところにとどまって下さるようにたのんだ。2日の間イエスはサマリヤにとどまられたが、さらに多くの人々がイエスを信じた。DA 761.3

    パリサイ人はイエスの単純さを軽蔑した。彼らはイエスの奇跡を無視し、イエスが神のみ子であるという証拠を要求した。しかしサマリヤ人はしるしを求めなかった。イエスは、井戸端で女に彼女の生活の秘密をあらわされた以外には、サマリヤ人の中で奇跡を行われなかった。それでも多くの者がイエスを信じた。この新しい喜びの中で、彼らは女に、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」と言った(ヨハネ4:42)。DA 761.4

    サマリヤ人は、メシヤがユダヤ人の救い主としてばかりでなく、世の救い主としておいでになることを信じた。聖霊は、モーセを通して、イエスを、神からつかわされた預言者と予告していた。ヤコブを通して民はイエスのもとに集められることが告げられ、またアブラハムを通して、地の諸国民がイエスのうちにあって祝福されるということが告げられていた。サマリヤの人々はメシヤに対する彼らの信仰をこうした聖書のみことばに置いた。ユダヤ人が後期の預言者たちを誤って解釈し、キリスト再臨の栄光を初臨にあてはめていたので、サマリヤ人はモーセを通して与えられたもの以外は全部聖書をすてていた。しかし救い主がそうしたまちがった解釈を一掃されたので、多くの人々が後期の預言と、神のみ国についてのキリストご自身のみことばとを信じた。DA 761.5

    イエスはユダヤ人と異邦人との間をへだてている壁をとりこわし、世界に救いを宣べ伝え始めておられた。キリストはユダヤ人であられたが、自由にサマリヤ人とまじわり、ご自分の国民のパリサイ的な習慣を無視された。ユダヤ人の偏見に直面しながら、主はこの軽蔑された民のもてなしを受けられた。主はサ マリヤ人の屋根の下に眠り、彼らと同じテーブルで食事をし、彼らの手で料理されて食卓に出された食物を食べ、彼らの町の通りで教え、できるだけの親切と礼儀をつくして彼らに応対された。DA 761.6

    エルサレムの宮は、低い壁によって、外庭が神聖な建物のすべての部分から仕切られていた。この壁に各国語で文字がきざまれていて、ユダヤ人以外の者はこの境界内には入ることをゆるさないということが書かれていた。もし異邦人があえて境内の中に入りこむようなことがあれば、彼は宮をけがしたことになり、その罰としていのちをとられるのだった。しかし宮とその儀式の創始者であられるイエスは、人間的な同情というきずなで異邦人をみもとにひきよせ、またユダヤ人のこばんだ救いはイエスのとうとい恵みによって彼らにもたらされた。DA 762.1

    イエスがサマリヤにとどまられたことは、まだユダヤ人的な頑迷さの影響下にあった弟子たちに祝福となるようにくわだてられたのであった。彼らは、自分自身の国に忠誠であるためにはサマリヤ人に対して敵意をもたねばならないと考えていた。彼らはイエスの行為に驚いた。彼らはイエスの模範に従うことを拒絶することができなかったので、サマリヤにいた2日間、イエスに対する忠誠心から、彼らの偏見を抑えていたが、心の中にはやはりうちとけないものがあった。彼らの軽蔑心と憎悪心は憐れみと同情に代えられねばならないことを彼らが学ぶのに時間がかかった。しかし主の昇天後、イエスの教訓は新しい意味をもって彼らの胸によみがえった。聖霊の降下後、彼らはこの軽蔑された他国人に対する救い主の顔つき、ことば、尊敬のこもったやさしい態度を思い浮べた。ペテロはサマリヤに説教に行った時、その働きに主と同じ精神をそそいだ。ヨハネは、エペソとスミルナに招かれた時、シケムの経験を思い出し、天来の教師イエスが彼らの出会わねばならない困難を予見して、ご自分の模範によって助けをお与えになったことに対する感謝の思いに満たされた。DA 762.2

    救い主はサマリヤの女にいのちの水を提供された時と同じ働きを今もなおつづけておられる。キリストの弟子と自称する人たちが、社会から見捨てられた人々をさげすみ、いやがるようなことがあるかもしれない。だが生れや国籍による事情も、社会的な身分も、イエスの愛を人の子らから離れさせることはできない。どんなに罪深くあろうと、一人一人の魂に向かって、もしわたしに求めたらいのちの水をあげたのにと、イエスは言われる。DA 762.3

    福音の招きは、狭い範囲に限定され、相手が受け入れたらこちらの名誉になるような少数のえらばれた人たちだけに与えられるのではない。福音はすべての人に与えられるのである。真理を受け入れるように心の開かれているところならどこででも、キリストは彼らを教えようとしておられる。主は彼らに天父をあらわし、人の心をお読みになる神に受け入れられる礼拝をお示しになる。こういう人々には、イエスは譬をお用いにならない。イエスは、彼らに向かって、井戸端の女にお語りになったように「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と言われる(ヨハネ4:26)。DA 762.4

    イエスがヤコブの井戸のそばに腰をおろして休まれた時、彼はこれまで伝道してほとんど実を結んでいないユダヤからおいでになった。彼は祭司たちとラビたちからしりぞけられ、イエスの弟子であることを告白している人たちでさえイエスの神としての性格を認識していなかった。イエスは疲れ、弱っておられたそれでも彼は、他国人であり、イスラエルの異邦人であり、あきらかに罪のうちに生活している1人の女に語りかける機会をのがされなかった。DA 762.5

    救い主は会衆が集まるのを待たれなかった。たびたび主はご自分のまわりに集まっているほんの少数の人々に教えはじめられたが、通りかかった人々が1人2人と立ちどまって聞き入り、ついには群衆がこの天から送られた教師イエスを通して、驚嘆と尊敬の念をもって神のみことばを聞くのだった。キリストの働き人は、少数の聴衆に対しては大きな会衆に対するのと同じ熱心さでしやべることができないと思ってはならない。説教を聞いているのはたった1人であるかもしれないが、しかしその影響がどれほど遠大な ものであるかをだれが知ることができよう。救い主がサマリヤの女のために時間を費されたことは、弟子たちにとってさえ小さなことに思われた。しかしイエスは、王や議官や大祭司たちに対するよりももっと熱心に、雄弁に論じられた。イエスがその女にお与えになった教訓は、地のはてにいたるまでくりかえされた。DA 762.6

    サマリヤの女は、このお方が救い主であるということがわかるとすぐにほかの人たちをみもとにつれてきた。彼女は、イエスご自身の弟子たちよりも有能な伝道者であることがわかった。弟子たちはサマリヤが有望な伝道地であるというしるしを何も見なかった。彼らの思いは、将来なされる大きな働きに集中されていた。自分たちのすぐまわりに集めるべき収穫があることに彼らは気がついていなかった。ところが彼らの軽蔑していた女によって、町中の人々が救い主のみことばを聞きにつれてこられた。彼女は光をすぐに自分の国民に伝えた。DA 763.1

    この女は、キリストを信じる実際的な信仰の働きを表わしている。真の弟子はみな伝道者として神の国に生まれているのである。生ける水を飲む者はいのちの泉となる。受ける者が与える者となる。魂のうちにあるキリストの恵みは、砂漠の中の泉のようなもので、それはわきあがってすべての人を元気づけ、いまにも死にそうになっている人々にいのちの水を飲みたいと熱望させるのである。DA 763.2

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