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各時代の希望

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    第24章 「この人は大工の子ではないか」

    本章はルカ4:16~30に基づくDA 784.2

    ガリラヤでのキリストの公生涯の明るい日々に、ひとすじの影がさした。ナザレの人々が、キリストをこばんだのである。「この人は大工の子ではないか」と彼らは言った(マタイ13:55)。DA 784.3

    イエスは、子供の時にも青年時代にも、ご自分の兄弟たちといっしょに、ナザレの会堂で礼拝された。公生涯が始まってから、イエスは、ナザレの人々から離れておられたが、彼らは、イエスの身に起こった出来事について知らなかったわけではなかった。イエスがふたたび彼らの中に姿を現された時、彼らの興味と期待とは最高潮に達した。そこにはイエスが幼児の時から知っておられる親しい姿や顔がみられた。そこにはイエスの母や兄弟たちや姉妹たちがいた。イエスが安息日に会堂にはいって行かれて、礼拝者たちの中に座を占められると、すべての人々の目が、彼に向けられた。DA 784.4

    その日のきまった礼拝に、長老は、預言者の書を読み、栄光ある統治をもたらし、一切の圧制をとり除いて下さるきたるべきお方を依然として待望するようにと、民にすすめた。長老は、メシヤの来臨が近いという証拠をくりかえして述べ、聴衆を励まそうとつとめた。彼は、キリスト来臨の栄光を説き、キリストがイスラエルを救うために軍の首長としておいでになるという思想を強調した。ラビが会堂に出席している時には、そのラビが説教をすることになっており、またイスラエルの人ならだれでも、預言者の書を朗読してよかった。この安息日に、イエスは礼拝の役割をたのまれた。彼は、「聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡された」(ルカ4:16、17)。イエスの読まれた聖句は、メシヤについて言われたことばとして知られているものであった。DA 784.5

    「『主の御霊がわたしに宿っている。DA 784.6

    貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、DA 784.7

    わたしを聖別してくださったからである。DA 784.8

    主はわたしをつかわして、DA 784.9

    囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げDA 784.10

    知らせ、DA 784.11

    打ちひしがれている者に自由を得させ、DA 784.12

    主のめぐみの年を告げ知らせるのである』DA 784.13

    イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなあ者の目がイエスに注がれた。……彼らはみなイエスをほめ、またその口から出てくるめぐみの言葉に感嘆し」た(ルカ4:18~22)。DA 784.14

    イエスは、ご自身についての預言の生きた解説者として、人々の前にお立ちになった。イエスはいま読まれたことばを説明するにあたって、メシヤはしいたげられる者を救う者、とりこを解放する者、苦しんでいる者をいやす者、盲人に視力を回復する者、世に真理の光をあらわす者であるとお語りになった。イエ スの印象的な態度と、そのみことばのすばらしい意味とは、聴衆がこれまでかつて感じたことのなかった力をもって、彼らを感動させた。神の力の波があらゆる障壁をうちこわした。モーセのように、彼らは目に見えないお方を見た。彼らは、心が聖霊に動かされるままに、熱烈なアーメンと賛美とをもって主に答えた。DA 784.15

    しかしイエスが、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と宣言されたとき、彼らは急にわれに返って、自分たちのことと、いままで語りかけておられたイエスの主張とについて考えた(ルカ4:21)。アブラハムの子であるイスラエル人が、とりこの状態にある者として、表された。彼らは悪の力から救い出されなければならない囚人、くらやみの中にあって真理の光を要している者として、話しかけられた。DA 785.1

    彼らの誇りは傷つけられ、不安が生じた。イエスのみことばは、イスラエル人のためのイエスの働きが、彼らの望んでいたものとはまったく異なったものであることを示した。彼らの行為はあまりにもきびしく調べられるかも知れなかった。彼らは、外面的な儀式を厳格に守っていたにもかかわらず、はっきりした鋭い目によって吟味されることをしりごみした。DA 785.2

    このイエスは何者だと、彼らはたずねた。メシヤの栄光をご自分のものとして主張されたこのお方は、大工の息子で、父親のヨセフといっしょに、大工仕事をしておられた。人々は、イエスが骨折って丘をのぼりくだられたのを見、イエスの兄弟姉妹たちと知り合いであり、イエスの生活と労働とを知っていた。彼らは、イエスが子供から青年へ、青年からおとなへと成長されるのを見てきた。イエスの生活にけがれはなかったが、彼らはイエスが約束のお方であることを信じようとしなかった。DA 785.3

    新しい王国についてのイエスの教えと、長老からきいた話とには何という相違があることだろう。イエスは、彼らをローマ人から救い出すことについてはひとことも言われなかった。彼らは、イエスの奇跡について聞き、その力が彼らの利益のために用いられるように望んでいたが、そのような目的に用いられる気配はみられなかった。DA 785.4

    彼らは、疑いに対してとびらを開いたので、彼らの心をさしあたってやわらげることはますます困難になった。サタンは、盲人の目がその日に開かれたり、とりこになっている魂が自由になったりするようなことはさせないと決心していた。彼は非常な努力をもって、人々を不信の中につないでおくために働いた。彼らは、自分たちに話しかけられたのが救い主であるという確信に動かされていたのに、すでに与えられたしるしを重視しようとしなかった。DA 785.5

    しかしイエスは、いま彼らの心の奥底の秘密をばくろすることによって、ご自身の神性の証拠を彼らに示された。「そこで彼らに言われた、『あなたがたは、きっと「医者よ、自分自身をいやせ」ということわざを引いて、カペナウムで行われたと聞いていた事を、あなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう』。それから言われた、『よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。DA 785.6

    エリヤの時代に、3年6か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのハンセン病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた』」(ルカ4:23~27)。DA 785.7

    預言者たちの生涯の出来事をこのようにのべることによって、イエスは、聴衆の疑問に応じられた。神が特別な働きのためにお選びになったしもべたちは、心のかたくなな、不信な民のために働くことをゆるされなかった。しかし感ずる心と信ずる信仰とを持った者たちは、預言者たちを通しての神の力の証拠によって特別に恵まれた。エリヤの時代に、イスラエルは神から離れた。彼らは、罪から離れず主の使者たちを通して与えられるみたまの警告をこばんだ。こうして彼らは、神の祝福が与えられる通路を自らたちきった。主は、イスラエルの家々をみすごして、選民 に属していない1人の婦人のいる異教の地をご自分のしもべの避難所とされた。この女は、受けた光に従い、神がご自分の預言者を通して送られたもっと大きな光に心を開いていたために恵まれた。DA 785.8

    エリシャの時代に、イスラエルのハンセン病人たちがみすごされたのも同じ理由からであった。しかし異教国の貴族ナアマンは、正義の信念に忠実であって、助けが非常に必要であることを感じていた。彼は、神の恩恵の賜物を受ける状態にあった。彼は、その病からきよめられたばかりでなく、真の神を知る特権に恵まれた。DA 786.1

    神の前におけるわれわれの立場は、われわれが受けた光の量によってきまるのではなくて、われわれが持っているものをどう用いるかによって決まるのである。だからたとえ異教徒であっても、認めることができるかぎり正しいことをえらぶ時、彼らは、大きな光を与えられて、神に仕えると公言しながらその光を軽視し、その日常生活が告白と矛盾しているような人たちよりも、好ましい状態にあるのである。DA 786.2

    会堂の聴衆に対するイエスのみことばは、おのれを義とする彼らの思いをうちくだき、彼らが神から離れ、神の民としての資格を失っているという苦々しい事実を、彼らの心にきざみつけた。彼らの真の状態が目の前に示された時、すべてのことばが刀のように切れた。彼らは、イエスが最初彼らのうちに起こされた信仰を、こんどはあざけった。彼らは、貧乏といやしい身分の出であるお方を普通の人間以上のお方として認めようとしなかった。DA 786.3

    彼らの不信は、悪意をはらんだ。サタンが彼らを支配した。彼らは怒って、救い主に反対の声をあげた。いやし、回復することを使命としておられるお方から、彼らは離れてしまった。そしていま彼らは、滅ぼす者であるサタンの特性をあらわした。DA 786.4

    イエスが、異邦人に祝福が与えられることについて言われると、聴衆の激しい国民的な誇りが呼びさまされ、イエスのみことばは、騒然たる声にかき消された。この人々は、律法を守っていることを誇っていた。しかしいま彼らの偏見が傷つけられると、彼らは、いまにも殺人を犯そうとした。集会は中止され、人々は、イエスに手をかけて会堂から突き出し、町の外へつれ出した。みな何とかしてイエスを殺そうとしているようにみえた。彼らはイエスをまっさかさまに突き落すつもりで、絶壁のいただきに追いたてた。叫び声とのろいの声が大気を満たした。イエスに石を投げつけている者もあった。そのとき突然イエスの姿が、彼らの中から消えた。会堂の中でイエスのそばにいた天の使者たちは、この狂気した群衆のまん中にあっても、イエスとともにいた。彼らはイエスを敵からおおいかくし、安全な場所へ案内した。DA 786.5

    同じように天使たちは、ロトを保護して、ソドムのまん中から無事につれだした。また、同じように天使たちは、山の小さな町で、エリシャを守った。まわりの山々がシリヤ王の軍馬と戦車と兵士の大軍でいっぱいになった時、エリシャは、近くの山々の斜面が神の軍勢、——主のしもべをとりまいている火の軍馬と戦車でおおわれているのを見た。DA 786.6

    このように、どの時代にも、天使たちは、キリストに忠実に従う人たちの近くにいた。勝利したいと望むすべての人に対して、おびただしい悪の同盟軍が勢ぞろいするが、キリストは、目に見えないもの、すなわち神を愛するすべての人を救うためにそのまわりに天の軍勢が陣を張っているのを見させたいとお思いになる。天使たちの守りによって、われわれがどんなに目に見える危険や目に見えない危険から守られたかということは、永遠の光のうちに神の摂理が明らかにされる時まで、決してわからない。その時になってわれわれは、天の全家族が地上の家族に関心をもっていたこと、また神のみ座からの使者たちが、日々われわれの歩みにつきそっていたことを知るのである。DA 786.7

    イエスが会堂で預言者の書から読まれた時、彼は、メシヤの働きについて描写されている最後のことばをお読みにならなかった。イエスは、「主の恵みの年……を告げさせ」と読まれて、「われわれの神の報復の日」ということばを省略された(イザヤ61:2)。この預言のあとの部分は、初めの部分と同じに、事実なのである。イエスは沈黙することによって、この事 実を否定されたのではなかった。この最後のことばは、聴衆がよろこんで強調し、その成就を望んでいることばだった。彼らは、異教徒に刑罰を宣言したが、彼ら自身の不義がほかの人たちの不義よりももっと大きいことを認めていなかった。彼らは、異教徒に憐れみをかけることをこばみがちであったが、その彼ら自身が最も深い憐れみを必要としていた。イエスが会堂で彼らの中にお立ちになったその日は、彼らが天の神の呼びかけを受け入れる機会だった。「神はいつくしみを喜ばれるので、」彼らが罪のために招きつつあった破滅から、彼らをよろこんでお救いになったであろう(ミカ7:18)。DA 786.8

    もう1度悔い改めを促さないうちは、イエスは、彼らをあきらめることがおできにならなかった。ガリラヤでの公生涯の終わりごろ、イエスは、子供時代のふるさとをもう1度おたずねになった。ガリラヤで拒否されて以来、イエスの説教と奇跡についての評判は、国中にゆきわたっていた。DA 787.1

    イエスが人間の力以上のものを持っておられることを、いまはだれも、否定することができなかった。ナザレの人たちは、イエスがよい働きをしながら、また悪魔に押さえつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されたことを知っていた。彼らの周囲には、村中どこの家にも病人のうめき声のない村々があった。イエスがそれらの村々を通りすぎて、病気を全部なおしてくださったからである。イエスの生活の一つ一つの行為にあらわされた憐れみは、イエスが神からあぶらをそそがれたお方であることを証明した。DA 787.2

    ナザレ人は、もう1度イエスのみことばを聞いて、神のみたまに動かされた。しかしいまになってもなお彼らは、自分たちの間で育たれたこの人が、自分たちとはちがったお方であり、自分たちよりもすぐれたお方であることを、認めようとしなかった。イエスが、ご自分は約束のメシヤであると主張しながら、実際にはイスラエルの立場を拒否されたことについて、すなわちイスラエルが異教の男女よりも神の恩恵を受ける価値がないことを示されたことについて、にがにがしい記憶がまだ彼らの心を苦しめていた。だから彼らは、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか」とたずねても、イエスを、神からつかわされたキリストとして受け入れようとはしなかった(マタイ13:54)。彼らが不信仰だったために、救い主は、彼らの中で多くの奇跡を行うことがおできにならなかった。イエスの祝福に心を開いていたのは、少数の人々にすぎなかったので、イエスはしぶしぶ立ち去り、ふたたびもどられなかった。DA 787.3

    不信の念が1度いだかれると、それはいつまでもナザレの人々を支配した。それはまたサンヒドリンと国民とを支配した。祭司たちと民にとって、聖霊の力のあらわれに対する最初の拒否は、破滅のはじまりであった。自分たちの最初の抵抗が正しかったことを証明するために、彼らはその後もずっとキリストのみことばのあら探しをつづけた。彼らがみたまをこばんだことは、カルバリーの十字架からエルサレムの滅亡となり、さらに天の風に吹かれるままに、国民の離散となってその頂点に達した。DA 787.4

    ああ、キリストはどんなにかイスラエルに真理のとうとい宝を開いてみせようと熱望されたことだろう。しかし彼らの霊的盲目はひどかったので、キリストの王国についての真理を彼らに示すことは、不可能だった。天の神の真理が彼らに受け入れられるのを待っているのに、彼らは、自分たちの教義と無益な儀式とを固守した。いのちのパンが彼らの手の届くところにあるのに、彼らは、もみがらやいなごまめに金銭を費やした。なぜ彼らは、神のみことばを開いて、自分たちがまちがっていないかどうかを知るために熱心に調べなかったのであろうか。旧約聖書には、キリストの公生涯について、こまかい点まではっきり書かれており、イエスは何度も何度も預言者たちの書から引用して、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と宣告された(ルカ4:21)。もし彼らが正直に聖書を調べ、自分たちの理論を神のみことばに照していたら、イエスは、彼らのかたくなな心にお泣きになる必要はなかったのである。「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」と宣言され る必要はなかったのである(ルカ13:35)。彼らは、イエスがメシヤであられる証拠を知り、また彼らの誇りとしていた都、エルサレムの滅亡というわざわいをまぬかれることができたのである。しかしユダヤ人の心は、道理をわきまえない頑迷さのために小さくなっていた。キリストの教訓は、彼らの品性の欠点をばくろし、悔い改めを要求した。もし彼らがイエスの教えを受け入れるなら、彼らの行為は変化し、彼らの宿望は放棄されなければならない。神からの栄誉を受けるためには、人間の栄誉を犠牲にしなければならない。もしこの新しいラビのことばに従うなら、当時の偉大な思想家や教師たちの意見と反対にならねばならない。DA 787.5

    真理は、キリストの時代に人気がなかった。それはわれわれの時代にも人気がない。サタンが、人を高慢にするような作り話をきかせて、真理をいやがる気持を初めて人間のうちにうえつけて以来、真理はいつも不人気であった。われわれは、今日、神のみことばに根拠をもっていない学説や教理に直面しないであろうか。ユダヤ人がその言い伝えを固守したように、人々は、そうした学説や教理を根強く守っているのである。DA 788.1

    ユダヤ人の指導者たちは、霊的な誇りに満たされていた。自分があがめられたいという彼らの願望は、聖所の奉仕にさえあらわれた。彼らは会堂の中の最高の座席を好んだ。彼らは市場であいさつされることを喜び、人々の口から尊称をたてまつられるのを聞いて満足した。真の敬神の念がうすれるにつれて、彼らはますます言い伝えと儀式とを守ることに熱心になった。DA 788.2

    彼らの理解力は、利己的な偏見のために暗くなっていたので、彼らは、罪をさとらせるキリストのみことばの力とキリストのけんそんな生活とを調和させることができなかった。真の偉大さは、外面的な見せびらかしを必要としないということを、彼らは理解しなかった。この人の貧しさは、ご自分がメシヤであるという主張とまったく矛盾しているようにみえた。もしこの人が自ら主張される通りのお方だったら、なぜあんなに気取らないのだろうかと、彼らは疑った。もし彼が武力がないことに満足しているのだったら、自分たちの国はどうなるのだろう。長い間期待されていた権力と栄光とによって、諸国民をユダヤ人の都の臣民にすることがどうしてできようか。祭司たちは、イスラエルが全地を統治するようになると教えたではないか。偉大な宗教家たちがまちがうということがあり得るだろうか。DA 788.3

    しかしユダヤ人がイエスを拒否したのは、彼の生活に外面的な栄光がみられなかったからだけではなかった。イエスは純潔そのものであり、彼らは不潔であった。イエスは、非のうちようのない正直の模範として人々の中にお住みになった。欠点のないイエスの生活が、彼らの心を光に照した。イエスの正直さによって彼らの不正直がばくろされた。そのために、彼らのうわべだけのむなしい信心が、明るみに出され、不義の憎むべき性質がばくろされた。このような光は歓迎されなかった。DA 788.4

    もしキリストが、人々の注意をパリサイ人に向け、彼らの学問と信心とを称賛されたら、彼らはイエスをよろこんで歓迎したのである。しかしキリストが、天の王国は全人類に対する恩恵の賜物だと語られた時、彼は、ユダヤ人の容認できない宗教の一面を示しておられた。彼ら自身の模範と教えとは決して神への奉仕を好ましいものとするようなものではなかった。彼らが憎みいやがっている者たちにイエスの注意が向けられているのを見て、彼らの高慢な心は激しい怒りに燃えあがった。「ユダ族のしし」のもとに、イスラエルは全世界の国々に高く抜きん出た地位を占めるのだと彼らは自慢していたにもかかわらずキリストから自分たちの罪を譴責されたり、純潔なキリストの前にいることだけで心のとがめを感じたりするのをがまんするよりは、むしろそうした野心的な望みが裏切られるのをしのぶ方がよいのだった(黙示録5:5)。DA 788.5

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