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キリストの実物教訓

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    言葉

    話すという能力は、努めて修得しなければならないタラントである。わたしたちが神から受けたあらゆる賜物の中で、これほど大きな祝福をもたらす能力は、ほかにない。わたしたちは、声を使って、人を説得したり、信服させたり、神に祈ったり、賛美したりする。また、声を用いて、あがない主の愛について、人々に語るのである。であるから、声を最も効果的に善のために用いるよう訓練することが、非常に大切である。COL 1316.5

    声の修練と声の正しい用い方は、知的でクリスチャン活動に従事している人々でさえ、非常になおざりにしている。物を読んだり、話したりする時に、低すぎたり、早すぎたりして、何を言っているのかよくわからないことが多い。また、重苦しく、不明瞭な発音をする人がいる。かん高い、するどい調子で聴衆に不快感を与える人もある。聖句、賛美歌、報告、発表などを公衆の前でする場合に、何を読んでいるのかわかりにくく、せっかくの力も印象深さも失われてしまうことが、よくある。COL 1316.6

    このような欠点は、正すことができるものであるから、是非とも直さなければならない。聖書もこの点について教訓を与えている。エズラの時代に、聖書を人々に読んで聞かせたレビ人について、「彼らはその書、すなわち神の律法をめいりょうに読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた」と、言われている(ネヘミヤ8:8)。COL 1316.7

    熱心に努力することによって、だれでも、よくわかるように読み、音量のあるはっきりした丸い声で印象深く語ることができる。こうすることによって、わたしたちは、キリストのために働く者として、大いに効果をあ げることができる。COL 1316.8

    すべてのクリスチャンは、キリストの無尽蔵の富を、他の人々にのべ伝えるために召されたのである。であるから、わたしたちの言葉を完全にするように努めなければならない。聞く人の心を引きつけるような方法で、神の言葉を語らなければならない。神は、人間という通路がつたないものであることを望まれない。天からの流れが、人間を通っていく時に、その人のために、それが軽んぜられたり、価値が低められたりすることは、神のみ旨ではない。COL 1317.1

    わたしたちは、完全な模範であるイエスをながめなければならない。そして、聖霊の助けを仰いで、神の力によって、完全な働きをすることができるようになるために、すべての器官を発達させるように努めなければならない。COL 1317.2

    特に公の奉仕に召された者は、そうでなければならない。すべての牧師、すべての教師は、永遠の運命に関する使命を、人々に伝えていることを記憶しなければならない。語られた真理が、最後の審判の大いなる日に、人々をさばくのである。そして、真理を語った人の態度いかんによって、真理を受け入れるか拒むかを決定する魂もある。であるから、人々の理解に訴え、心に印象を残すように語らなければならない。真理は、ゆっくり、明瞭に、厳粛に語り、しかも、それは、その扱っている問題の重要性にふさわしい熱誠のこもったものでなければならない。COL 1317.3

    言葉の力を正しく修練して用いることは、クリスチャン活動のあらゆる面に関係がある。これは、家庭生活の中にも、人との交際のどの場合にも必要なものである。わたしたちは、快い音声で話し、間違いのない正しい言葉を用い、親切で礼儀にかなった言葉を使うようにしなければならない。やさしい親切な言葉は、魂にとって、露のようなもの、静かに降る雨のようなものである。聖書にも、キリストには、「気品がそのくちびるに注がれて」いたから、「疲れた者を言葉をもって助けること」がおできであったとしるされている(詩篇45:2、イザヤ50:4)。また、「いつも……やさしい言葉を使いなさい」(コロサイ4:6)、「聞いている者の益になるようにしなさい」(エペソ4:29)と、主はお命じになるのである。COL 1317.4

    人の誤りを正し、改めさせようとする場合、言葉に気をつけなければならない。言葉は命に至る命の香りともなれば、死に至る死の香りともなる。人を譴責したり、勧告したりする時に、傷ついた魂をいやすのにはふさわしくない、鋭い厳しい言葉を出す人が多い。このような思慮に欠けた発言によって、心を傷つけ、誤った人を反抗的にさせることがよくある。真理の原則をのべ伝える者は、すべて、天からの愛の油を受ける必要がある。どんな場合であっても、譴責の言葉は、愛をもって語らなければならない。そうするならば、わたしたちの言葉は、人を怒らせたりしないで、改革をうながすことができる。キリストは、聖霊によってわたしたちに、活力と能力を供給してくださる。これがキリストのお働きなのである。COL 1317.5

    一言でさえも、無分別に言ってはならない。キリストの弟子の口からは、悪口や不真面目な話や、つぶやきやけがらわしいことを思わせる言葉が出てはならない。使徒パウロは、聖霊に動かされて、「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはならない」と言った(エペソ4:29)。悪い言葉というのは、よこしまな言葉だけを言うのではない。それは、聖なる原則と清く汚れのない信心に反する表現をさしている。これは、不潔なことを暗示したり、ひそかに悪をほのめかしたりすることをも含んでいる。これらのことは、直ちにしりぞけないならば、大きな罪におとしいれるものである。COL 1317.6

    汚れた言葉と戦うことは、すべての家庭とすべてのクリスチャン個人個人の上に負わせられた義務である。愚かな話をする仲間の中にわたしたちが入った時には、できるだけ、話題を変えるように努力することが、わたしたちの義務である。神の恵みの助けによって、静かに一言注意をするか、または、有益な話題を提供して人々の心をその方に向けるべきである。COL 1317.7

    子供たちに、正しい言葉使いを教えることは、親の務めである。この修練を行う一番よい学校は、家庭である。子供たちには、幼い時から、ていねいで愛に あふれた言葉を両親に向かって、またお互いの間で、使うように教えなければならない。そして、柔和で真実で純潔な言葉だけを、くちびるから出すべきことを、教えなければならない。両親自身が、日毎にキリストの学校で学ぶ者となっていなければならない。そうすれば、「非難のない健全な言葉を用い」るように、自ら模範を示しながら、子供たちに教えることができる(テトス2:8)。これは両親の最も重大な責任の1つである。COL 1317.8

    わたしたちは、キリストに従う者として、互いのクリスチャン生活の助けとなり、励ましとなる言葉を語るようにしなければならない。わたしたちは、受けた恵みについてこれまでよりももっと多く語らなければならない。神の憐れみといつくしみ、救い主の愛のはかり知れない深さについて、語らなければならない。また、賛美と感謝をすべきである。心に神の愛があふれているならば、それが、会話にあらわれてくる。わたしたちの霊的生活の中に入ってきたものを、他の人々に分け与えることは、むずかしいことではない。偉大な思想、高貴な抱負、明確な真理の理解、無我の精神、敬虔と清めに対する渇望などは、当然言葉となってあらわれ、心の中に秘められた宝がどんなものであるかを示す。こうして、キリストが、わたしたちの言葉にあらわされる時に、その言葉は魂をキリストに導く力を持つようになるのである。COL 1318.1

    まだキリストを知らない人々に、キリストのことについて語るようにしなければならない。わたしたちは、キリストがなさったようにしなければならない。キリストは、会堂であろうと、路傍であろうと、岸から押し出された舟の中であろうと、パリサイ人の宴会であろうと、取税人の食卓であろうと、どんな場所であっても、高尚な生活に関することを人々に語られた。主の教えの中には、自然の事物や日常のできごとなどが織り込まれていった。また、イエスは、病をいやし、悲しんでいる人を慰め、子供たちを腕に抱いて祝福されたりしたので、聴衆の心は、イエスに引き付けられた。イエスが1度、口を開いてお語りになると、人々は、吸い込まれるように聞き入り、その一言一言は、だれかの魂にとって、命から命に至らせる香りであった。COL 1318.2

    わたしたちも同様でなければならない。たとえどこにいようとも、救い主のことについて、人々に語る機会をとらえるようにしなければならない。わたしたちも、キリストの模範に従って善を行うならば、人々がキリストに心を開いたように、わたしたちにも心を開くのである。無作法な態度で話すのではなくて、神の愛から生じた気転を働かせることによって、「万人にぬきんで」「ことごとく麗しい」救い主のことを、彼らに語ることができる(雅歌5:10、16)。これこそ、言葉のタラントを最高に用いる方法である。言葉は、わたしたちがキリストを罪からの救い主として、人々にのべ伝えるために与えられたのである。COL 1318.3

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