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キリストの実物教訓

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    第5章 一粒のからし種のようなもの

    本章は、マタイ13:31、32、マルコ4:30~32、ルカ13:18、19に基づくCOL 1213.6

    キリストの教えに耳を傾けていた群衆の中には、パリサイ人がたくさんいた。イエスをメシヤであると認める者が、群衆の中にわずかしかいないのを、彼らは軽べつの目で見ていた。そして、この見栄えのしない教師が、どうしてイスラエルを世界の主権を握った国家にすることができるであろうかと心の中で疑った。富も権力も地位も持つことなくして、どうして新しい王国を建設することができるであろうか。キリストは、彼らのこのような考えをすばやく読みとって、彼らにお答えになった。COL 1213.7

    「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。」神の国になぞらえることができるものは、この地上の政府のどこにも見いだすことはできなかった。また、一般の社会制度の中にも、神の国の象徴になるものはなかった。「それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上 のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」COL 1213.8

    種の中の胚種は、神が種の中に植えつけられた生命の原則によって成長するのである。種の発育は、全く人間の力によるものではない。キリストの王国でもそれと同様である。それは、新創造である。その発達の原則は、世界の諸国を支配している原則とは正反対のものである。地上の政府は、武力によって目的を達し、戦争によって領土を保持する。しかし、新しい国の建設者は、平和の君である。聖霊は、おそろしい猛獣によって地上の王国を象徴したが、キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」である(ヨハネ1:29)。暴力をつかって良心を強いることは、小羊の政策ではない。ユダヤ人は、この世の王国の建設と同じ方法で、神の国が建てられることを期待し、正義をおし進めるためには、外的手段に訴えて、いろいろな策を講じたのである。しかし、キリストは、人の心に原則をお植えになるのである。真理と義とを植えることによって、誤りと罪に対抗なさるのである。COL 1214.1

    キリストがこのたとえを語られた時に、からしの木があちこちに生えているのが見え、周りの草や穀類などよりも高くのびて、その枝が軽く風にゆれていた。鳥は枝から枝に飛び回り、その茂みの中でさえずっていた。ところが、このように大きくなった植物の種はといえば、種の中でも最も小さいものの1つであった。それは、最初、若芽を出す。その強い生命力にあふれた芽は、ますます茂って、大きな木になるのである。そのようにキリストの王国も、最初のうちは、取るに足らない微々たるもののように思われた。それを地上の国々に比較するならば、最も小さいもののように見えた。この世の支配者たちは、キリストの王権の主張をあざ笑った。しかし福音の王国の命は、キリストの弟子たちにゆだねられた偉大な真理の中にひそんでいた。しかも、その成長はなんと早く、その感化はなんと広い範囲にまで及んだことであろう。キリストがこのたとえを語られた時には、この新王国を代表したものは、少数のガリラヤの漁夫たちに過ぎなかった。彼らはまた、貧しかったので、このような少数の無学な弟子たちの仲間には加わるものではないと、強く主張する人々もあった。ところが、からし種は、成長してその枝を全世界に広げることになっていた。当時の民衆の心を満たしていた世界的国家の栄光が消え去ったあとにも、キリストの国は存続して、偉大な感化力を地のすみずみにまで及ぼすことになるのである。COL 1214.2

    このように、人の心の中の恵みの働きも、初めは、小さいのである。わずか1つの言葉、人の魂にさし込むひとすじの光、といった感化が、新しい生命の出発になるのである。いったい、だれがその結果を測り知ることができるであろうか。COL 1214.3

    からし種のたとえは、キリストの王国の成長のことばかりでなくて、その成長の各段階において、このたとえの中で述べられていることがくり返されるのである。神は、各時代の神の教会に、その時、その時にふさわしい特別の真理と特別の仕事をお与えになった。世の知者、学者にはかくされた真理が、幼児のような謙遜な者にあらわされた。真理は自己犠牲を要求する。戦いもあれば、勝利も得なければならない。初めのうち、支持者の数は少なく、世の偉大な人々や俗化した教会からは、反対され、軽べつされた。キリストの先駆者ヨハネはどうであろうか。彼は、ユダヤ民族の誇りと形式主義を恐れることなく責めた。また、ヨーロッパに福音を伝えたパウロとシラスはどうであろうか。彼らは、天幕作りであった。彼らが仲間とともに、トロアスからピリピに船出した時に、彼らの任務は、人の目にもつかない小さいことに思われた。また、「すでに老年」となって、鎖につながれたパウロは、カイザルの家の者にキリストを説いた。ローマ帝国の異教主義と戦った少数の奴隷と農民たちに目を向けて見よう。また、世の知恵の作り出した傑作ともいうべき大教会に対抗したマルチン・ルターを見てみよう。彼は皇帝や法王の面前で、「わたしはここに立つ。わたしはこうせざるを得ない。神よ、わたしをお助けください」と叫んで、神の言葉に堅く立った。ジョン・ウェスレーは、彼の時代の形式主 義、肉欲主義、無神論のただ中にあって、キリストとキリストの義を説いた。彼は、異教の世界の悲惨な状態に心を痛め、キリストの愛の使命を彼らに伝える特権が自分に与えられることを願った。ところが、教会の指導者は、「若者よ、すわりたまえ。神が異教徒の改心を望まれるなら、神は、何もわれらの助けを受けずとも、それをなさるであろう」と言ったのである。COL 1214.4

    現代の大宗教家たちは、幾世紀も前に真理の種を植えた者をほめたたえて、その記念碑を建てる。ところが、そうする一方、彼らは今日、その同じ種から生じてきたものをふみにじることが多いのではないだろうか。「モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人が〔キリストにつかわされた使者はキリストを代表している〕どこから来た者か、わたしたちは知らぬ」という叫びが依然としてくり返されている(ヨハネ9:29)。初期におけると同様に、現代に対して特別に与えられた真理は、教会の権威者の所に見いだされるのではない。それは、これといった学識も知恵もないけれども、神のみ言葉を信じる男女の所にあるのである。COL 1215.1

    「兄弟たちよ。あなたがたは召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(Ⅰコリント1:26~28)。「それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」(Ⅰコリント2:5)。COL 1215.2

    からし種のたとえは、この最終時代において勝利のうちに輝かしい成就を見るのである。小さな種が木になるのである。最後の警告使命が、「あらゆる国民、部族、国語」に宣べ伝えられ(黙示録14:6~14)、「その中から御名を負う民を選び出され」る(使徒行伝15:14)。そして、地は神の栄光によって照らされるのである(黙示録18:1)。COL 1215.3

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