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キリストの実物教訓

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    種まきと種

    キリストは、種まきのたとえによって、天国のことと、大いなる農夫であられる神が、神の民のために何をなさるかをお教えになった。農夫が畑に出て種をまくのと同じように、イエスは、真理という天からの種をまくためにこられた。イエスのたとえそのものが種であった。キリストの恵みに関する尊い真理は、たとえによってまかれた。種まきのたとえは、一見簡単なもののように思われるために、その真価が十分に認められていない。種を土地にまくことから、福音の種をまけば、人々を神に立ち帰らせるにいたることを考えることを、キリストは望まれた。小さい種のたとえを語られたのは、天の王である。そして、この地上の種まきを支配するのと同じ法則が、真理の種まきをも支配している。COL 1196.6

    ガリラヤの湖畔には、イエスを見、彼の話を聞こうとする一団——熱心に何かを期待する群衆がすでに集まっていた。病人も敷物の上に横たわって、彼にいやしを求める時をいまかいまかと待っていた。罪深い人類の苦しみをいやすことは、神から与えられたキリストの権限であった。キリストは、病気をいやし、ご自分の周りに命と健康と平和とをふりまかれた。COL 1196.7

    群衆は続々とやってきて、キリストの周りにつめよって、立つ場所すらなくなった。そこで、イエスは漁船の中の人々に声をかけて、彼を向こう岸にお連れするために、おいてあった舟に乗り、岸から少しこぎ出させて、そこから、岸辺にいる群衆にお話しになった。COL 1197.1

    湖畔一帯は、美しいゲネサレの平野で、向こうには山々が見えていた。そして、山にも野にも忙しく働く農夫たちの姿が見え、種をまく人もあれば、すでに実った穀物のとり入れをしている人もあった。こうした光景を見ながら、キリストは言われた。COL 1197.2

    「見よ、種まきが種をまきに出ていった。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。」COL 1197.3

    キリストの務めは、彼の時代の人々に理解されなかった。彼のこられた様子が、彼らの期待にそわなかったのである。主イエスは、ユダヤの制度全体の基礎であられたその荘重な儀式も、神の定めによるものであった。こうした儀式は、それが予表しているお方が、定められた時に来られるということを、人々に教えるためのものであった。ところが、ユダヤ人は、形式と儀式を重んじるのみで、その目的を見失っていた。伝説や言い伝え、人間の作った戒めなどは、神が人に伝えようと意図された教訓を人々から隠した。これらの格言と伝説は、真の宗教の理解と実行を妨げるものになった。そして、実在者なる神がキリストとなってこられた時、人々は、彼こそすべての典型の成就であり、すべての影の実体であることを認めなかった。彼らは、実体を拒んで古来からの典型や無益な儀式を固守した。神のみ子が来ておられたのに、彼らは、しるしを求めてやまなかった。「悔い改めよ、天国は近づいた」という使命に対して、彼らの求めたものは奇跡であった(マタイ3、2)。救い主の代わりに奇跡を求めた彼らには、キリストの福音は、つまずきの石であった。彼らは、メシヤが偉大なわざをなしとげてご自分がメシヤであることを証拠だて、地上の国々を打ち破ってメシヤ王国を建設するものと期待した。その期待に、キリストは種まきのたとえをもってお答えになった。神の国が発展していくのは、武力や暴力の干渉によってではなくて、人の心に新しい原則を植えつけることによってである。COL 1197.4

    「良い種をまく者は、人の子である」(マタイ13:37)。キリストは、王としてではなく、種をまく者としておいでになった。国々を滅ぼすためではなくて、種をまくためにこられた。また、それは、世的勝利や国家的繁栄を弟子たちに示すためではなく、顔に汗して働き、どんな損失や失望にもめげずに、収穫を刈りとらなければならないことを教えるためであった。COL 1197.5

    パリサイ人は、キリストのたとえの意味を理解はしたが、その教訓を彼らは歓迎しなかった。彼らは、わざと解らないふりをした。この新しい教師が何を言おうとしているかは、一般の群衆にとってはなおさら、解らなかった。イエスの言葉は、彼らの心に不思議な感動を与えるとともに、彼らの野心を容赦なく砕いた。弟子たち自身でさえも、たとえの意味が解らなかったが、何か強く心を引かれるものがあった。彼らは、ひそかにイエスのところに来て、その説明を求めた。COL 1197.6

    キリストは、さらにはっきりとした教訓を彼らに与えようとしておられたので、弟子たちが説明を求めてくることを望んでおられた。イエスは、真面目な気持ちをもって、主を求めるすべての者に、み言葉の意味を明らかになさるのであるから、彼らにもそれと同じようにしてたとえを説明なさった。聖霊の光をいつでも心に受ける用意をしながら、神のみ言葉を研究する者は、決してその意味がわからないということはない。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」(ヨハネ7:17)。真理を、さらに、はっきりと知りたいと願ってキリストのところに来る者は、みな教えを受けることができる。キリストは、彼らに天国の神秘をご説 明になる。こうした神秘は、真理を知ろうと願う人には、必ずわかるのである。天からの光が、魂の宮にさしこんでくる。そして、その光は、暗い道を照らすともしびのように、人々の前に輝きでるのである。COL 1197.7

    「種まきが種をまきに出て行った。」東の国々では、社会の状態が落ちつかず危険なことが多かった。人々は、城壁にかこまれた町の中に住んでいた。農夫たちは、城壁の外の仕事をするために、毎日、外へ出て行った。そのように、天来の種まく者であられたキリストは、種をまくために外へ出られた。彼は、平和な天の故郷(ふるさと)をあとにし、世界が造られる前から、天父とともに持っておられた栄光を捨てて、宇宙の王座を去られた。彼は、苦しみや試みにあう人間として、しかもただ1人で、涙とともに出て行き、この失われた世界のために、命の種をまき、ご自分の血をそそがれた。COL 1198.1

    キリストの僕たちも、同じように種をまくために出ていかなければならない。アブラハムは真理の種をまく者として招かれ、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」との命令を受けた(創世記12:1)。そして、彼は「行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)。使徒パウロもそうであった。彼は、神殿で祈っていた時、「行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」という神の言葉に接した(使徒行伝22:21)。このように、キリストと結合する召しを受けた者は、彼に従うためにすべてを捨てなければならないのである。むかしからの友人に別れを告げ、人生の計画を放棄し、世の望みを断念しなければならない。そして、ただ1人、困苦と涙の中に自己を犠牲にして、種をまかなければならない。COL 1198.2

    「種まきは御言をまくのである。」キリストは、真理を世界にまくためにこられた、人類の堕落以来、サタンは誤りの種をまき続けてきた。サタンは、いつわりによって、まず人間を支配したのであるが、今もなお、同じ方法で、この地上の神の国をくつがえし、人々を自分の支配下におこうとしている。キリストは、天国からの種まく者として、真理の種をまくためにこられた。神の会議に座し、永遠の神の至聖所におられたお方は、まじりけのない真理の原則を人々に伝えることがおできであった。人類が堕落して以来、キリストは、この世界に対する真理の啓示者であられた。「神の変ることのない生ける御言」である朽ちない種が、彼によって人々に伝えられた(Ⅰペテロ1:23)。エデンの園で、あの最初の約束の言葉を語られた時、キリストは、福音の種をまいておられたのである。しかし、この種まきのたとえは、特にイエスご自身の、人間の間での奉仕のことと、イエスが建設されたお働きに適用される。COL 1198.3

    神の言葉は種である。どの種の中にも発芽力がある。種の中に植物の命が含まれている。そのように、神の言葉には命がある。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)。「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受ける」とキリストは言われる(ヨハネ5:24)。神の言葉の中にあるすべての命令とすべての約束には、力、すなわち、神の命そのものが宿っている。それであるから、命令はなしとげられ、約束は果たされる。信仰によって、言葉を受け入れる者は、神の命と品性そのものを受けているのである。COL 1198.4

    どの種も、その種類に従って実を結ぶ。正しい状況のもとに種をまけば、その中にある命が生えてくる。朽ちないみ言葉の種を、信仰によって心に受け入れると、神の品性と命に似た品性と命とが実るようになる。COL 1198.5

    イスラエルの教師たちは、神の言葉の種をまいていなかった。真理の教師としてのキリストの働きは、当時のラビたちの働きとは、著しく異なっていた。彼らは、伝説や人間の理論や推論などを強調していた。人間がみ言葉について教えたり書いたりしたことを、み言葉そのものの代用にしたこともしばしばあった。彼らの教えには、魂を生かす力はなかった、キリストの教えと説教の主題は、神の言葉であった、イエスは質問する人に、「……と書いてある、聖書に何とあるか」「あなたはどう読むか」などとおおせになつ た。興味をもった人があれば、それが友であろうと敵であろうと、彼はみ言葉の種をまかれた。道であり、真理であり、命であり、自ら生きた言葉であられるイエスは、聖書を指さして、「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」と言われた。「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ヨハネ5:39、ルカ24:27)。COL 1198.6

    キリストの僕たちも、これと同じ働きをしなければならない。今日も、むかしと同じように、神の言葉の重大な真理は無視されて、人間の理論や推論が重んじられている。福音の牧師と称する人々の中にも、聖書を全部神の霊感による言葉として信じない者が多い。ある学者がある部分を拒否すると、他の人が別の所を疑うといったありさまである。彼らは、自己の判断をみ言葉よりも重んじる。彼らの教える聖書は、彼ら自身の権威に基づく。聖書が神から与えられた信頼すべき書であるという事実は、かえりみられなくなった。こうして、不信の種がまき散らされ、人々は、何を信じてよいのかわからなくなる。心に思うことさえしてはならない信仰がたくさんある。キリストの時代のラビたちは、聖書に多くの不可解な解釈をほどこしていた。神のみ言葉が、彼らの行為を明らかに責めていたので、その力をそごうと試みた。それは、今日も同じである。COL 1199.1

    神の言葉は、不可解で不明瞭なものであるかのよりに見せかけて、それを神の戒めに従わなくてもよい理由にしている。キリストは、当時のこうした習慣をお責めになった。彼は、神のみ言葉が、すべての者によって理解されるべきであることをお教えになった。キリストは、聖書が疑問の余地のない権威書であることを指摘されたが、わたしたちもそうすべきである。聖書は、無限の神の言葉であって、あらゆる論争の解決とすべての信仰の基礎であることを示すべきである。COL 1199.2

    このように、聖書の力が奪われているために、人々の霊的生活が低下するにいたった。今日、多くの説教が講壇から叫ばれても、そこには、良心をさまし、魂に命を与えて神の力の現れを見ることができない。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と、聴衆は言うことができない(ルカ24:32)。多くの者が生きた神を求めて叫び、神の臨在をかわくように望んでいる。どんなにりっぱな哲学論も文学論も、心に満足を与えることはできない。人間の主張と思索は、無価値である。神のみ言葉を人々に語ろう。これまで、伝説と人間の説と戒めばかりを聞いてきた人々に、心を新たにして、永遠の命にいたらせる神の声を聞かせよう。COL 1199.3

    キリストが好んで語られた主題は、神の父親としての情深さとあふれる恵みであった。彼は、神の品性と神の律法の神聖さについて多く語られた。また、ご自分が、道であり、真理であり、命であると人々にいわれた。これが、キリストの牧師たちの主題でなければならない。イエスの中にあるがままの真理を伝えなさい。律法と福音が要求しているものを明らかにしなさい。キリストの克己と犠牲の生活、彼の謙遜と死、彼の復活と昇天、彼の天の宮廷での彼らのためのとりなし、「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」という、彼の約束などについて語りなさい(ヨハネ14:3)。COL 1199.4

    間違った説について論議をしたり、福音の敵と争おうとする代わりに、キリストの模範に従いなさい。神の宝の倉の中からの新しい真理を取り出しなさい。「御言を宣べ伝えなさい。」「すべての水のほとりに種をまき」「時が良くても悪くても」「わたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない。わらと麦とをくらべることができようかと、主は言われる。」「神の言葉はみな真実である。……その言葉には付け加えてはならない、彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ」(Ⅱテモテ4:2、イザヤ32:20、エレミヤ23:28、箴言30:5、6)。COL 1199.5

    「種まきは御言をまくのである。」ここに、すべての教育の基礎となるべき大原則が示されている。「種は神の言葉である。」しかし、今日、神の言葉を捨ててしまった学校があまりにも多くある。ほかの科目 が、心を占領している。無神論的著書の研究が、教育の大部分を占めている。懐疑的思想が、教科書の中に織り込まれている。科学の研究の面でも、発見された事実の誤解、曲解が、人々を誤らせる。いわゆる科学的学説と神の言葉とを比較してみて、神のみ言葉を不確実な頼りないもののように思わせる。こうして、青年の心に疑惑の種がまかれ、それが試みの時に生えてくる。神の言葉を信じなくなると、魂に対する何の指導も保護もなくなる。青年たちは、神と永遠の命からかけ離れた道に引きこまれていく。COL 1199.6

    今日、世界に罪悪がこのようにはびこったのは、主として、このことが原因であろうと思われる。神の言葉を無視すれば、人間の生来の悪い感情を制するみ言葉の力を拒んでしまうことになる。人は、肉に種をまき、肉から腐敗を刈り取る。COL 1200.1

    また、知力の衰えと能率の低下の原因がここにある。神のみ言葉を捨てて、霊感をうけない人の著書を読むことによって、頭脳は、いじけ、低級になる。深遠な永遠の真理の原則に、心は触れなくなる。人間の理解力は、平常考えていることの理解にとどまるもので、限られた地上のことばかりに没頭していると、理解力は衰えて、やがては、伸びる力を失うにいたる。COL 1200.2

    これは、みな、偽りの教育である。すべての教師は、霊感によって与えられた言葉の大真理に、青年の心を結びつけなければならない。これが現世と来世のために必要な教育である。COL 1200.3

    これが科学の研究の妨げになるとか、教育の標準を低下させることになるとか、考えてはならない。神に関する知識は、天のように高く、宇宙のように広いものである。永遠の命に関する大きな主題の研究くらい、わたしたちを高尚にし、活気づけるものはない。青年たちは、神から与えられたこの真理を、理解しようと努めなければならない。そうすれば、その努力によって、彼らの知力は伸び、強くなるのである。み言葉を実行する生徒はだれでも、広々とした思想の分野に導かれ、朽ちることのない知識の富を手に入れることができる。COL 1200.4

    聖書の探究によって受け得る教育は、救いの計画を体験的に知ることである。このような教育は、魂の中に神のみかたちを回復する。それは、誘惑に対して生徒の心を強固にし、この世界に対するキリストの恵みの働きを、キリストとともにするのに、適した者にする。この教育は、彼を神の家族の一員とし、光の中にある聖徒たちの嗣業にあずからせる。COL 1200.5

    しかし、神聖なる真理をあつかう教師は、自分自身が経験によって知っていることしか教えることができない。「種まきは」、自分の持っている「種をまいた」のである。キリストは真理であられたから、真理をお教えになった。イエスご自身の思想と品性と体験とが、彼の教えの中に具体的に表現されたのである。彼の僕たちもそうでなければならない。み言葉の教師になりたいと思う者は、まず、体験によって、み言葉を自分のものとしなければならない。彼らは、キリストが彼らの知恵と義と聖とあがないになってくださるとは、どういうことかを知らなければならない。COL 1200.6

    神の言葉を人々に語る時に、こうだと思うとか、ああであろうなどと言ってはならない。「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである」と使徒ペテロは言ったが、わたしたちもそう宣言しなければならない(Ⅱペテロ1:16)。またキリストに仕えるすべての牧師、教師は、愛された弟子ヨハネとともに、「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである」と言うことができなければならない(Ⅰヨハネ1:2)。COL 1200.7

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