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キリストの実物教訓

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    第12章 求めよ、そうすれば、与えられるであろう

    本章は、ルカ11:1~13に基づくCOL 1235.7

    キリストは、わたしたちに与えるために、父なる神から絶えずお受けになった。「あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である」と、主は言われた(ヨハネ 14:24)。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであ」る(マタイ20:28)。イエスは、自分のためではなく、他の人々のために、生き、考え、そして祈られた。イエスは、毎朝神との交わりに幾時間かを過ごしたあとで、人々に天の光を与えるために出ていかれた。イエスは、日毎に聖霊の新しいバプテスマをお受けになった。神は、新しい1日の早くからイエスの目を覚まし、彼の心とくちびるに恵みをそそがれた。それは、彼が人々に分け与えるためであった。彼の言葉は、天の宮廷から新たに与えられた。それは、生活に疲れ、しいたげられている人々に、イエスが折にかなった言葉をおかけになるためであった。「主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる」(イザヤ50:4)。COL 1235.8

    キリストの弟子たちは、彼の祈りと、そして神との交わりの習慣とに強い感銘を受けた。イエスからしばらく離れていた彼らは、ある日、イエスが熱心に祈っておられる姿を見つけた。イエスは、彼らの帰って来たことには、気づかれないかのように、声をあげて、祈っておられた。弟子たちは、深い感銘を受けた。イエスが祈りを終えられると、彼らは、「主よ、……わたしたちにも祈ることを教えてください」と叫んだ。COL 1236.1

    それに答えて、キリストは、山上の教えの中でお与えになった主の祈りをくり返し、続いて、1つのたとえをお語りになって、教訓の意味を明らかになさった。COL 1236.2

    「そして彼らに言われた、『あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、「友よ、パンを3つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言った場合、彼は内から、「面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。』」COL 1236.3

    ここで、キリストは、この哀願者を、与えるために求めている人として描かれた。この人は、どうしてもパンを手に入れなければならない。さもないと、道に行き暮れた旅人の必要を満たすことができない。彼の隣人は、煩わされることを好まないが、彼は、願うことを止めないのである。彼は、この友人をなんとかして助けたいと思っている。ついに、彼がしきりに願ったことによって、求めていたものを与えられることになるのである。COL 1236.4

    それと同様に、弟子たちは、神からの祝福を祈り求めなければならなかった。キリストは群衆を養われたことと、それからご自分が天から下ってきたパンであるという説教によって、弟子たちがキリストの代表者となるためには、何をすべきであるかをお教えになった。彼らは、命のパンを人々に与えなければならなかった。この働きを彼らにお与えになったイエスは、彼らの信仰がさまざまな試みにあうことを知っておられた。彼らは、予期しない事態にしばしば陥って、人間の力なさを痛感させられることであろう。また、命のパンに飢えた魂がやってきても、みずからの欠乏と無力を感じることもあろう。彼らはまず自分が霊の食物を受けなければならなかった。そうしなければ、彼らには、何も人に与えるものがない。しかし、彼らは、ただ1人の魂でも、食を与えずに去らせてはならなかった。キリストは、食糧の源泉がどこであるかを示された。折悪しく、真夜中に友人の来訪を受けた人は、その友をしりぞけなかった。客に出すものは何もなかったが、食物をもっている隣人のところへ行って、しきりに願い求めて、必要なものを手に入れた。神は、飢えた者に食物を与えるために、神の僕たちを送り出された。そして、神がご自分の働きのために送り出された人々の必要を、お満たしにならないということがあるだろうか。COL 1236.5

    たとえの中のこの利己的な隣人は、神の性質をあらわしたものではない。ここでは、比較でなく、対照によって教訓が教えられている。自分本位の隣人は、休息が妨げられないために、切なる願いを聞き入れる。しかし、神は与えることを喜ばれる。神は憐れみ に満ちたお方で、信じて神に来る者の願いを聞こうと切望しておられる。神がわたしたちにお与えになるのは、わたしたちが他に奉仕するためである。そして、その奉仕によって神のようになるためである。COL 1236.6

    「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」とキリストは言われる。COL 1237.1

    救い主は続いて言われる。「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」COL 1237.2

    キリストは、わたしたちが、神をますます信頼するようになるために、神を新しい名、すなわち、人の心に最も親愛の情をいだかせる名で呼ぶことをお教えになった。彼は無限の神を、わたしたちの父と呼ぶ特権をわたしたちにお与えになった。神に向かい、また人の前で用いるこの父よという呼び名は、わたしたちの神に対する愛と信頼のしるしであると同時に、神のわたしたちに対する保護と、神とわたしたちとの関係を保証するものである。わたしたちが、神の恵みや祝福を求める時にこう呼びかけることは、神の耳に音楽のようにひびくのである。こうして、神を父と呼ぶことは、少しも出すぎたことでないことを示すために、主は、このことについてくり返してお教えになった。主は、わたしたちが、この名称によくなれるようにお望みになるのである。COL 1237.3

    神は、わたしたちを神の子供たちとみなしておられる。神はわたしたちを冷淡な世からあがなって、王族の1人とし、天の王の息子、娘としてくださった。わたしたちは、子供が地上の親を信頼する以上の強い信頼感をもって神に信頼するようにと、神は招いておられる。親は子供を愛する。しかし、神の愛は、人間の愛がとうてい及び得ないほど大きく、広く、深いものである。それは測り知ることができないものである。世の親が自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊をくださらないことがあろうか。COL 1237.4

    祈りについてキリストが教えられたことは、注意深く考えてみなければならない。祈りには、天上の科学が隠されている。そしてイエスのこのたとえには、すべての者が知らなければならない原則が、明らかに示されている。すなわち、祈りの真の精神とはなんであるかということと、神にお願いをする時には、どうしても忍耐が必要なことを神は教えておられる。そして、神は喜んで祈りに耳を傾け、祈りに答えてくださることを、保証なさるのである。COL 1237.5

    わたしたちの祈りは、ただ自分の利益のみを求める利己的な願いであってはならない。わたしたちは、与えるために求めるべきである。キリストの生活の原則が、わたしたちの生活の原則でなければならない。「彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」とキリストは、弟子たちについて言われた(ヨハネ17:19)。キリストがあらわされたのと同じ献身、同じ自己犠牲、神のみ言葉に対する同じ服従が、彼の僕たちの中にあらわれなければならない。わたしたちが世におかれている任務は、自己に仕えて自己を喜ばせることではなくて、罪人を救うために神と協力して、神に栄光を帰することである。わたしたちは、他の人々に分かつことができるように、神に祝福を求めなければならない。受ける能力は、分かつことによってのみ維持することができる。周りにいる人々に与えないでいて、天の宝を受け続けることはできない。COL 1237.6

    たとえの中の哀願者は、何度も断わられたけれども、簡単にあきらめなかった。そのように、わたしたちの祈りも、常に速答があるとは思われない。しかし、祈りはやめるべきものではないと、キリストはお教えになる。祈りは、神を変えるものではない。祈りは、わたしたちを神に一致させるものである。わたしたちが、神に願っている時に、神は、わたしたちの側に自己反省と、罪の悔い改めの必要があることを認め られる場合もあろう。そのような時に、神は、わたしたちにさまざまな試練と、恥辱をお与えになる。そして、聖霊がわたしたちを通してお働きになるのを、妨げているものがなんであるかをお示しになる。COL 1237.7

    神の約束が実現されるためには、条件がある。そして、祈りは、義務を行うことの代わりにはならない。キリストは言われる。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(ヨハネ14:15、21)。祈りの時に、こうした条件に従わないでいて、神の約束が果たされることを求める者は、神を侮辱する者である。彼らは、キリストの名を唱えていれば、神の約束が実現するものと思っているが、キリストを信じていることと、キリストを愛していることをあらわす行為を示さないのである。COL 1238.1

    父なる神に受けいれられる、条件にかなっていない人がたくさんいる。わたしたちは証書になんと書いてあるかをよく調べてみなければならない。わたしたちが神に近づくことができるのは、この約束の言葉である。もし、わたしたちが従わないでいれば、それは、支払いの条件にかなわないでいながら、小切手の現金引き替えを、主に求めることである。わたしたちは、これがあなたのお約束ですから、これを、実現してくださいと祈る。しかし、それでは、神ご自身のみ名の汚れになるのである。COL 1238.2

    「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」というのが約束である(ヨハネ15:7)。COL 1238.3

    「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである」とヨハネも言っている(Ⅰヨハネ2:3~5)。COL 1238.4

    キリストの弟子たちへの最後の戒めの1つは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」ということである。わたしたちは、この戒めに従っているであろうか、それとも、世知にたけた、クリスチャンらしくない性質をあらわしているであろうか。もし何かの点で、他人の心を痛め、傷つけたならば、その過失を告白して、和解を求めなければならない。これは、信仰をもって神の祝福を求めつつ、神のみ前に出るためにしなければならない準備である。COL 1238.5

    主に祈り求める者が、とかく見過ごしやすいことがもう1つある。それは、わたしたちが、神のみ前に正直であったかどうかという点である。主は、預言者マラキによって次のように言われる。「あなたがたは、その先祖の日から、わが定めを離れて、これを守らなかった。わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろうと、万軍の主は言われる。ところが、あなたがたは『われわれはどうして帰ろうか』と尋ねる。人は神のものを盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。10分の1と、ささげ物をもってである」(マラキ3:7、8)。COL 1238.6

    神はすべての祝福の与え主であられる。その神が、わたしたちのすべての所有の一部を要求なさる。これは、神が、福音の宣教を維持なさる費用としてあてられる。こうして、受けたものを神にお返しすることによって、わたしたちは、神の賜物に対する感謝をあらわす。しかし、神ご自身のものを自分の所に保留しているならば、どうして神の祝福を求めることができようか。もしわたしたちが、この地上のものに不忠実な管理者であるならば、どうして、天のものをゆだねられることを期待することができようか。祈りに答えがない理由はここにあるのではなかろうか。COL 1238.7

    しかし、主は憐れみ深く、わたしたちを快く赦し、こう言われる。「わたしの宮に食物のあるように10分の1全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをも ってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みをあなたがたに注ぐか否かを見なさい……。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしよう。……こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる」(マラキ3:10~12)。COL 1238.8

    神のその他の要求もみな同じである。神がお与えになる賜物は、みな服従が条件となっている。神は神と力を合わせる者のために、あふれる祝福を天に備えておられる。神に従う者は、すべて、確信をもって、神の約束の成就を求めることができるのである。COL 1239.1

    しかし、わたしたちは、神に対する堅い不動の信頼を示さなければならない。主はわたしたちの信仰を試み、心の願いが純粋なものであるかどうかをためすために、時には祈りに対する応答をお延ばしになることもある。わたしたちは神のみ言葉に従って求めたのであるから、神の約束を信じ、この祈りは必ず聞きとどけられることを確信して、祈り続けなければならない。COL 1239.2

    1度だけ求めよ、そうすれぼ、与えられるであろうと、神は、言っておられない。神は求めよと命じておられる。根気よく祈り続けなさい。求め続けることは、祈るその人をもっと熱心にし、求めているものに対する願いを更に増大する。キリストは、ラザロの墓で、マルタに次のように言われた。「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」と(ヨハネ11:40)。COL 1239.3

    しかし、生きた信仰を持たない者が多い。彼らがなぜ、もっと神の力を見ることができないかは、それに起因している。彼らが弱いのは、不信仰の結果である。彼らは、神が彼らのために働いてくださることよりも、自分自身の働きの方を信じている。彼らはなんでも自分で処理しようとする。いろいろ考えてはみるが、ほとんど祈ることをせず、神に対する真の信頼に欠けている。自分では信仰があるように思っているが、それは、一時の衝動にすぎない。彼らは、自分たちの必要、あるいは神が、喜んで与えようとしておられることを認めないために、主のみ前に彼らの願いを述べつつ、耐え忍ぶことをしないのである。COL 1239.4

    わたしたちの祈りは、夜中にパンを求めた友人のように、熱心に忍耐強く求め続けなければならない。熱心に不屈の精神をもって祈れば祈るほど、キリストとわたしたちの霊的結合は親密になる。信仰が増すにつれて、受ける恵みも増すのである。COL 1239.5

    わたしたちのすべき分は、祈って、信じることである。目を覚まして祈っていなさい。目を覚まして、祈りをお聞きになる神と協力しなさい。「わたしたちは神の同労者である」ことを覚えていなさい(Ⅰコリント3:9)。あなたの祈りに調和して語り行動しなさい。試練が来た時に、あなたの信仰が真実のものであるかを証明するか、それとも、祈りが単なる形式であるかがわかるのでは、格段の違いである。COL 1239.6

    めんどうな事が起こり困難に直面した場合、人間に助けを求めてはならない。何事も神に頼らなければならない。困難なことについて他人に話しても、それは、自分を弱めこそすれ、それを聞いた人にはなんの力にもならない。わたしたちの霊的弱さというどうすることもできない重荷を、彼らに負わせるだけである。わたしたちは少しも誤りたもうことのない無限の神の力を、受けることができるにもかかわらず、誤りやすい有限な人間の力に頼ろうとしているのである。COL 1239.7

    わたしたちは、知恵を求めて、何も地の果てまで行く必要はない。神は、そば近くにおられる。成功するか否かは、あなたが今持っている能力とか、または、将来の能力によるものではない。それは、主があなたのために何をなし得るかということによる。わたしたちは、人間のできることには、信頼をおかないで、信じるすべての魂のために、神がおできになることに、もっともっと信頼をおかなければならない。神は、あなたが信仰によって、神に頼ることを望んでおられる。神は、あなたが、神に大きなことを期待することを望んでおられるのである。神は、霊的なものと同様に、この世のものに対する理解をも与えようと望んでおられる。神は、知性を鋭敏にすることがおできになる。 また、手腕と技巧とを与えることがおできになる。あなたの才能を大いに働かせて、神に知恵を祈り求めなさい。そうすれば、知恵は与えられるであろう。COL 1239.8

    キリストのみ言葉を、あなたの保証としてかたく信じなさい。主はみもとに来たれとお招きになったのではなかったか。決して失望落胆の言葉を言ってはならない。さもないと、大きな損失をするであろう。もしあなたが困難や圧迫に遭遇した時、その表面だけを見て、つぶやいたりすると、あなたの信仰が病的で薄弱なことをあらわしてしまう。あなたの信仰が、あたかも絶対無敵であるかのように語り、行動しなさい。神は豊かな資源の持ち主である。神は世界を所有しておられる。信仰をもって、天を仰ぎなさい。光と権力と能力の持ち主をながめなさい。COL 1240.1

    真の信仰は、どんなに年月がたち、また、どんな苦労があってもゆるがない快活さ、主義に対する忠実さと忍耐強さを持ち続ける。「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40:30、31)。COL 1240.2

    他人を助けたいと望みながらも、与えるべき霊的能力も光も、自分にはないと感じる者がたくさんいる。そのような人は、恵みの座に来て彼らの願いを述べるとよい。聖霊を求めなさい。神は、そのすべてのお約束を保証しておられる。聖書を手に持って、わたしは、あなたのおっしゃったとおりにいたしました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」とあなたはお約束なさいました、と言いなさい。COL 1240.3

    わたしたちは、キリストの名によって祈るだけではなくて、聖霊に感じて祈らなければならない。「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」と言われているのは、そのことを説明している。このような祈りを神は喜んで聞いてくださるのである(ローマ8:26)。COL 1240.4

    熱心に力をこめて、キリストの名によって祈るならば、そのような熱心さをもって祈ること自体が、「求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えて」、神がわたしたちの祈りに答えようとしておられることの神の保証なのである(エペソ3:20)。COL 1240.5

    「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである」とキリストは言われた(ヨハネ14:13)。愛された弟子ヨハネは、聖霊の感動によって、次のように確信をもって明言している。「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」(Ⅰヨハネ5:14、15)。そこであなたの願いを、イエスの名によって、父なる神に切に願い求めなさい。神はイエスの名を尊ばれるのである。COL 1240.6

    み座の周りにあるにじは、神が真実であって、変化とか回転の影とかいうもののない保証である。わたしたちは、神に対して罪を犯し、神の恵みに浴すことができない者になった。それにもかかわらず、「み名のために、われわれを捨てないでください。あなたの栄えあるみ位をはずかしめないでください。あなたがわれわれにお立てになった契約を覚えて、それを破らないでください」という驚くべき祈りの言葉を神ご自身が、わたしたちの口に入れてくださったのである(エレミヤ14:21)。わたしたちが、自己の無価値なことと罪とを告白して、みもとに近づくならば、神は、わたしたちの叫びに耳を傾けると神ご自身がお約束になった。神がわたしたちに言われた言葉が成就するためには、神の栄えあるみ位がかけられているのである。COL 1240.7

    キリストを象徴したアロンと同じように、わたしたちの救い主は、聖所の中で、神の民のすべての名を、胸 の上にかけておられるのである。わたしたちの大祭司は、わたしたちに、神を信頼することを促して、わたしたちに言われた励ましの言葉を全部覚えておられる。彼は、ご自分の契約をお忘れにならない。COL 1240.8

    すべて神を捜し求める者は、見いだすであろう。すべて門をたたく者は、あけてもらえるであろう。めんどうをかけないでくれ。もう戸は閉めてしまった。今更、戸は開けたくないなどと、神は仰せにならない。あなたを助けることはできないとは、だれにも言われない。夜中に、飢えた魂にパンを与えるために求める者は、必ずその願いが聞かれるのである。COL 1241.1

    たとえの中で、旅人のためにパンを求めた人は、「必要なもの」を与えられたのである。果たして、わたしたちが他に分け与えるために神からいただくのは、どれほどの量であろうか。それは、「キリストから賜わる賜物のはかりに従って」与えられるのである(エペソ4:7)。人が同胞をどのように扱うかを、天使は、非常な関心をもってながめている。天使たちは、キリストが表されたのと同じ精神を、人があやまちを犯している者に示すのを見ると、その人のそばに走り寄って、魂にとって生命のパンであるみ言葉を思い起こさせて語らせる。「神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」(ピリピ4:19)。あなたの証しが純粋で真実のものであれば、神はそれを永遠の命の力に満ちあふれたものにしてくださる。あなたは、主の言葉を、真実と義とをもって話すようになる。COL 1241.2

    まず、密室でよく祈ってから、人々のために個人的努力を始めなければならない。というのは、救霊の科学を理解するためには、大きな知恵が必要だからである。人に語る前に、キリストと交わりなさい。天の恵みの座において、人々に奉仕をする準備をしなさい。COL 1241.3

    あなたの心が、かわいているように神を慕い、生ける神を慕ってくだかれるようにしよう。キリストの生涯は人間がもし神の性質を持つならば、一体何ができるかを示した。キリストが神からお受けになったものはみな、わたしたちも持つことができるものである。だから求めて受けることにしよう。ヤコブのような不屈の信仰と、切に求めてやまぬエリヤの精神をもって、神の約束なさったことが全部与えられるように求めなさい。COL 1241.4

    あなたの心が、栄光に輝く神のことについての思いで満たされるようにしなさい。あなたの生活を、イエスの生涯にしっかりと結びつけなさい。やみの中から光が照りいでよと仰せになった神は、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、あなたの心を照らしてくださる。聖霊は、神に関することを明らかに示し、従順な者に生きた力を与えるのである。キリストは、あなたを、無限の神の門口に導いてくださるのである。あなたは、幕のかなたの栄光を見ることができる。そして、いつも生きていて、わたしたちのためにとりなしておられるお方の十分な力を、人々にあらわすことができるのである。COL 1241.5

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