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キリストの実物教訓

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    道に迷った羊

    この時、キリストは、聴衆に聖書の言葉を思い起こさせようとはなさらなかった。主は、彼ら自身の経験にふれてお話しになった。ヨルダン川の東に広がっている高原地方には、牧草がたくさん生えていた。そして、谷間や、山林などにはよく羊が迷い込んでしまって、羊飼いが苦心して羊をさがし出しては連れもどしていた。イエスの周りの群衆の中には、羊飼いや、牧畜に投資している人々がいたから、イエスのたとえは、だれにでもよくわかった。「あなたがたのうちに、100匹の羊を持っている者がいたとする。その1匹がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、いなくなった1匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。」COL 1256.2

    人々からさげすまれるこれらの魂は、神の財産であるとイエスは言われた。彼らは、創造と贖罪とによって神のものであって、神の前に価値あるものである。羊飼いは羊を愛して、その中の1匹でも道に迷ったのが解ると、じっとしてはいられない。神は、これとは比べものにならない無限の愛をもって、世から捨てられた魂を愛されるのである。人は、神の愛を拒み神から離れ、他の主人を選ぶこともできよう。COL 1256.3

    しかし、彼らは、依然として、神の所有であり、神は彼らをご自分のものとして回復しようと望まれる。「牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う」と言われる(エゼキエル34:12)。COL 1256.4

    たとえの中の羊飼いは、1匹の羊、すなわち、数として最少のものをさがしに出かけた。そのように、道に迷った魂がただ1人であったとしてもキリストは、その人のためにおなくなりになられたはずであった。COL 1256.5

    おりから迷い出た羊は、動物の中で一番無力なものである。羊は自分で帰ってくることができないから、どうしても羊飼いがさがしに行かなければならない。神から離れ去った魂もそれと同じである。神の愛の助けが差し伸べられなかったならば、彼も道に迷った羊と同様に無力で、神に帰る道を見いだすことはできなかったのである。COL 1256.6

    羊が1匹いなくなったことを知った羊飼いは、おりの中に安全に入っている羊の群れをながめて、少しも驚いた様子もなく、「ここに99匹いる。迷った1匹をさがしに行くのはたいへんだ。そのうちに帰ってくるだろう。おりの戸を開けておいて入れるようにしておこう」などとは言わない。1匹が迷い出たことを知るや否や、羊飼いはそれを悲しんで心配しだす。彼は、何度も羊を数えなおす。いよいよ1匹が迷ったことが明らかになると彼は眠ることができない。99匹をおりに残して、道に迷った羊をさがしに出る。夜は暗く、嵐ははげしい。道がけわしくなるにつれて、羊飼いの不安はつのり、ますます熱心に捜し求める。彼は、道に迷っている1匹の羊を見いだすために全力をつくすのである。COL 1256.7

    やっとのことで遠方から羊のかすかななき声が聞こえた時に、羊飼いはどんなに安心したことであろう。彼は、そのなき声をたよりに、自分の身の危険もかえりみないで、けわしい坂をよじ上って、絶壁の頂上まで行く。こうして捜しているうちに、なき声はいよいよ弱まり、今にも死にそうになっているのがわかるが、ついに、彼の努力は報いられ、いなくなった羊が見いだされる。COL 1256.8

    さて、彼は、その羊に向かって、お前は、ずい分わたしにやっかいをかけたといってしかったりはしない。 むちでかりたてようともしない。また、おりに引いていこうともしない。彼は、喜びのあまり、ふるえる羊を肩にのせる。もし、傷ついていたりすると、しっかり自分の胸にだきしめて、自分の心臓の温もりで、元気づけてやろうとする。羊飼いは捜索がむだにおわらなかったことを感謝して、羊をおりまでかかえて帰るのである。COL 1256.9

    さて、羊飼いが羊をつれず、悲しんで帰ってくる光景がここに描かれていないことは感謝である。このたとえでは、失敗ではなくて、成功、すなわち見いだした喜びが語られている。これは、神のかこいからさ迷い出た羊は、たとえ1匹であっても見過ごしにされたり、救われないままに捨てて置かれたりすることはないという保証である。キリストは、あがないにあずかろうとして服従するすべての者を、腐敗の穴と罪のいばらから救ってくださる。COL 1257.1

    悪を行って絶望におちいっている魂も、勇気を出さなければならない。多分、神は罪を赦して、神の前に出ることを許してくださるであろうなどと考えてはならない。すでに神は、第一歩をふみ出されたのである。あなたが神にそむいた時に、神はあなたを求めて捜しに出られたのである。羊飼いのようなやさしい心で神は、99匹をあとに残して、さ迷い出た1匹を捜すために荒野へ出ていかれた。彼は、傷ついて、死ぬばかりになっている魂を愛の腕にいだいて、喜び勇んで安全なおりにかかえてこられるのである。COL 1257.2

    罪人は、神の愛に浴するためには、まず悔い改めなければならないと、ユダヤ人は教えていた。彼らの見解によると、悔い改めは、人間が神の恵みを得るための努力なのである。パリサイ人たちが、驚きと怒りをもって、「この人は罪人たちを迎えて」と叫んだのは、このような考え方からであった。悔い改めた者以外は、彼に近づかせてはならないと、彼らは考えていたのである。しかし、この迷い出た羊のたとえでは、救いが与えられるのは、わたしたちが神を求めるからではなくて、神がわたしたちをお求めになるからであるとキリストは教えておられる。「悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出」た(ローマ3:11、12)。神に愛していただくために、わたしたちが悔い改めるのではなくて、わたしたちが悔い改めに至るために、神がわたしたちに愛をあらわしてくださるのである。COL 1257.3

    ついに迷い出た羊を、連れて帰ることができた時、羊飼いの感謝の気持ちは、楽しい喜びの歌となって表現された。彼は、友人や隣人を呼び集めて、「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言った。そのように、羊の大牧者なるイエスが迷い出た者を見いだされる時、天と地とは、感謝と喜びの歌を歌うのである。COL 1257.4

    「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない99人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」あなたがた、パリサイ人は、自分たちを天の寵児(ちょうじ)であると思っていると、キリストは言われた。あなたがたは、自分自身の義で安全であると思っている。あなたに悔い改める必要がないとするならば、わたしは、あなたに用がないということを知ってもらいたい。自分の貧しさと罪深さを感じるこのような魂こそ、わたしが救うために来たその人々なのである。あなたがたが軽べつするこのような失われた魂に、天の使いたちは関心を持っている。あなたがたは、これらの魂の1人がわたしの側に加わると、つぶやき、あざけるが、天使たちは、喜んで、天の宮廷で勝利の歌をひびかせる。COL 1257.5

    神にそむいた者が滅ぼされると、天において喜びがあると律法学者たちは言い伝えていたが、神にとって滅ぼすことは、異常な行為であることをイエスは教えられた。神の創造された魂の中に、神のかたちが回復されるのを、全天は喜ぶのである。COL 1257.6

    罪の中に深く沈んだ者が、神に帰ろうとすると、人々から批判と疑いの目で見られるものである。彼の悔い改めは純粋であろうかなどと疑ったり、「あの人はしっかりしていない。長く続くとは思わない」とささやいたりする人がある。このような人は神の働きでなくて、兄弟を訴える者であるサタンの働きをしている。悪魔は、彼らの批判によって、その魂を失望落胆させて、神から、さらに遠くへ追いやろうとしている。 悔い改める罪人は、1人の道に迷った者が立ち帰る時に天でどんな喜びがあるかをよく考えて、神の愛に安んじ、どんなことがあっても、パリサイ人の軽べつや不信の目に失望してはならない。COL 1257.7

    律法学者たちは、キリストのたとえが、取税人や罪人にあてはまることを理解したけれども、これはさらにもっと広い意味をもったものであった。キリストは、この道に迷った羊によって、個々の罪人だけでなくて、反逆して、罪に傷ついたこの世界をも描かれた。この地球は、神が統治しておられる広い宇宙の1原子に過ぎない。しかし神の日にはこの道に迷った1匹の羊である堕落した小さな世界は、おりからさ迷い出ない99匹にまさって、尊いのである。天の宮廷の愛された司令官、キリストは、この失われた1つの世界を救うために、その高い地位からくだり、天の父とともにもっておられた栄光をお捨てになった。彼は天の罪なき世界、すなわち、彼を愛していた99匹をあとにして、この世界に来られて、「われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」(イザヤ53:5)。神はいなくなった羊をまた迎え入れる喜びのために、み子を与えるとともに、ご自分をお与えになった。COL 1258.1

    「わたしたちが神の子と呼ばれるためにはどんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」(Ⅰヨハネ3:1)。また、キリストは、「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」と言われた(ヨハネ17:18)。すなわち、「キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを……補」うのである(コロサイ1:24)。キリストに救われた者は、みな、キリストのみ名のもとに、失われた人々のために働くように召されている。イスラエル人は、この働きをおろそかにしたが、今日、キリストの弟子であると公言している者も、おろそかにしてはいないであろうか。COL 1258.2

    読者よ。あなたは、さ迷い出た者を、何人さがしあてておりに連れもどしたことであろうか。見込みもなく、見栄えもないと思われる人々に背を向けることは、キリストがさがしておられる魂をないがしろにすることであるのを、自覚しておられるだろうか。あなたが、彼らをかえりみないその時こそ、おそらく彼らがあなたの同情を一番必要としている時である。どの礼拝集会の時にも、休息と平安を求める魂がいる。彼らは見たところ、不真面目な生活を送っているようではあるが、聖霊の働きに無感覚でいるわけではない。彼らの中にも、キリストに導かれる人が多くいることであろう。COL 1258.3

    もし、道に迷った羊をおりにつれてこないならば、それはそのまま死んでしまう。そのように救いの手がさしのべられないために、滅びてしまう魂がたくさんある。誤りにおちいった人々は、かたくなで無謀とさえ思えるであろう。しかし、彼らにも他の人々と同様の機会が与えられたならば、その人々よりはるかに気高い品性と、世に役立つ大きな才能を持つことができたかもしれない。天使たちは、これらのさ迷う人々をあわれんでいる。天使は泣いているのに、人の目は涙にぬれもせず、心は固く戸を閉ざしてあわれもうともしないのである。COL 1258.4

    ああ、誘惑や過ちにおちいった人々への真心からの深い同情が、なんと欠けていることであろう。もっともっと自己を捨てて、もっとキリストの精神がほしいものである。COL 1258.5

    パリサイ人は、キリストのたとえが彼らへの譴責(けんせき)であることを知った。キリストは、主のお働きに対する人々の批判に耳をかすことをせず、彼らが取税人や罪人をおろそかにしていることを譴責なさった。キリストは、彼らが主に対して心を閉じてしまわないように、公然とは彼らをお責めにならなかった。しかし、イエスのたとえは、神が彼らに要求なさる働きであるにもかかわらず、その大切な働きを彼らが怠っていることを彼らに示した。もしも、このイスラエルの指導者たちが真の牧羊者であったなら、彼らは羊飼いの仕事をしたことであろう。彼らは、キリストの愛と憐れみとをあらわし、イエスと一致して、主の働きをしたことであろう。彼らがこうしなかったことは、彼らの信心が偽りであったことを証拠立てだ。COL 1258.6

    さて、キリストの譴責を拒んだ者は多かったが、キ リストの言葉によって罪を悟った者もあった。キリストが昇天なさったあとで、このような人々に聖霊が下った。そして、彼らは弟子たちと1つになって、道に迷った羊のたとえの中で教えられたこの大切な仕事にあたったのである。COL 1258.7

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