本章はコロサイ人への手上、及びピリピ人への手紙に基づく AA 1534.3
使徒パウロは、彼のクリスチャン経験の初期に、イエスに従う者たちについての神のみこころを学ぶ機会が特別に与えられた。彼は、「第三の天にまで引き上げられ」、「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた」。彼は「主のまぼろしと啓示」が豊かに与えられたことを知った。福音の真理の原則に対する彼の理解力は「あの大使徒たち」と同じであった(Ⅱコリント12:2、4、1、11)。パウロは「人知をはるかに越えたキリストの愛」の「広さ、長さ、高さ、深さを」明瞭に、十分理解していた(エペソ3:19、18)。 AA 1534.4
パウロは幻の中で見たものを、すべて語ることはできなかった。聞いている者たちの中には、彼の言葉を誤用するかもしれない人々がいたからである。しかし彼に示されたことは、彼を指導者、賢明な教師として働くことができるようにさせ、また、彼がのちに教会に送ったメッセージの形を作ってくれた。幻の中で受けた印象は常に彼を離れず、それによって彼はクリスチャン品性の止しい模範を示すことができた。パウロが口頭により、また書簡によって伝えた使命は、それ以来、神の教会を助け、力づけてきた。この使命は今日の信者に、教会をおびやかす危険と、彼らが見分けなければならない誤った教理のことを、明瞭に語っている。 AA 1534.5
パウロは勧告や訓戒の手紙を人々に書き送ったが、パウロの願いは、彼らが「もはや子供ではないので……様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」、「神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」ようにということであった。パウロは、異教徒の社会に住むキリストの信徒たちに勧めている、「異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり……心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ」ている。「賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい」(エペソ4:14、13、17、18、5:15、16)。彼は、「教会を愛してそのためにご自身をささげられた」キリストが「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎え」て下さる時を待ち望むようにと、信者たちを励ました(エペソ5:25、27)。 AA 1534.6
人の力でなく神の力によって書かれたこれらのメ ッセージは、すべての者が学ばなければならない教訓を与えるものであり、たびたび繰り返されて益となるものである。これらのメッセージの中に、実際的な信仰が概説され、どの教会でも従わなければならない原則が示され、また永遠のいのちへ至る道が明らかにされている。 AA 1534.7
「コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ」あてたパウロの手紙は、彼が捕らわれの身でローマにいたときに書かれたが、その手紙の中で彼は、コロサイにいる兄弟たちが、信仰を堅実に持ちつづけていることに対する彼の喜びについて述べている。この知らせをもたらしてくれたのはエパフラスで、彼は「あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれた」と使従は書いた。更に彼は、「そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍」ぶことであると述べた。 AA 1535.1
こうしてパウロは、コロサイの信者たちに彼の願いを書きあらわした。キリストに従う者の前に示されたこれらの言葉は、実に高い理想をもっている。それらはクリスチャン生活のすばらしい可能性を示し、神の子らが受ける祝福には限りがないことを明らかにしている。神を知る知識をいよいよ増し加えることにより、彼らは力から力に進み、クリスチャン経験の高みから高みへ進み、ついに「神の栄光の勢い」によって、「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて」いただくのである。 AA 1535.2
使徒は、神はキリストによって万物を創造され、人々のあがないを計画されたのであるとして、キリストを兄弟たちの前であがめた。宇宙にある諸世界を支え、また、森羅万象をことごとく規則的に配列し、たゆまず活動させておられる手は、彼らのために十字架にはりつけにされた手であると彼は言明した。「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」とパウロは書いた。「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである」。 AA 1535.3
神のみ子は、堕落した者たちを救い上げるために身をかがめられた。このために、罪のない天の世界をあとにし、み子を愛する99人をあとに残して、彼は、「われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれ」るためにこの地上に来られた(イザヤ53:5)。み子はすべての点で兄弟たちと同じようにされた。彼はわれわれと同じように肉体をとられた。飢え、渇き、疲れることがどんなことであるかをご存じであった。食物によって養われ、睡眠によって元気を回復された。み子はこの地上では旅人であり、寄留者であった。この世にあったが、この世のものではなかった。み子は、現代の人々が誘惑され、試みられるのと同じように、誘惑や試みに会われたが、なお罪を犯さない生涯を送られた。優しく、憐れみ深く、同情深く常に他の人々を思いやられて、神のご品性をあらわされた。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。……(それは)……めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)。 AA 1535.4
異教の習慣に取り巻かれ、その影響下にあってコロサイの信者たちは、福音の単純さから引き離される危険にさらされていた。そしてパウロはこれについて警告を与え、彼らにキリストこそ唯一の安全な導き手であると言った。「わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。それは彼らが、心を励まされ、愛 によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」。 AA 1535.5
「わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。……このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらで」ある。 AA 1536.1
キリストは人を惑わす者たちが現れることを預言しておられた。彼らの感化を受けて「不法がはびこ」り、「多くの人の愛が冷える」のである(マタイ24:12)。主は教会が敵の迫害からよりも、もっと、この悪からの危険にさらされるであろうと弟子たちに警告しておられた。パウロは繰り返し、こうした誤った教師たちに注意するよう信者たちに警告した。何よりもまず、この危険から彼らは身を守らなければならない。誤った教師たちを受け入れることにより、彼らは誤った道を進み、その過ちにより敵は霊的な知覚を鈍らせ、福音の信仰を新しく受け入れたばかりの人々の確信をぐらつかせるのである。キリストが標準であられ、彼らはそれによって、紹介される教理をテストしなければならなかった。キリストの教えと一致しないものは、すべて拒まなければならなかった。キリストは罪のために十字架におかかりになり、死からよみがえられて、昇天された。これこそ彼らが学び、そして教えなければならない救いの科学であった。 AA 1536.2
キリスト教会を取り巻くさまざまな危険について神が警告されたことばは、今日われわれも聞かなければならない。弟子たちの時代に、人々は伝統や哲学によって聖書を信じる信仰を破壊させようとしたが、今日は、高等批評、進化論、心霊術、神知学、汎神論など心を楽します意見によって、義の敵は魂を禁じられた道へ導こうとしている。多くの人たちにとって、聖書は油のないランプのようなものである。なぜなら、彼らの心は誤解と混乱しか招かないような、推論的信念に向けられているからである。分析し、推測し、組み立て直す「高等批評」の作業が、神の啓示としての聖書についての信仰を破壊している。高等批評は、神のみことばから、人の生活を支配し、高め、霊感を与える力を奪っている。心霊術によって多くの人々は、欲望が最高の律法であり、放縦が自由であり、人は自分にだけ責任があるのだと信じるよう教え込まれている。 AA 1536.3
キリストに従う者は、使徒がコロサイの信者たちに警告した「巧みな言葉」に出会うであろう。また、心霊主義的な聖書解釈に出会うであろう。しかし、それらを受け入れてはならない。キリストに従う者の声は、聖書の永遠の真理を明確に語らなければならない。目をキリストに向け、キリストの教えに一致しない考えをことごとく捨てて、定められている道を着実に進んで行かなければならない。神の真理が彼の黙想、瞑想の主題でなければならない。聖書を、直接彼に語りかける神の声と思わなければならない。こうして彼は、聖なる知恵を見出すのである。 AA 1536.4
キリストの中にあらわされているような神についての知識は、救われる者たちがみな持っていなければならない知識である。これこそ、品性を変える作用をする知識である。生活の中に受け入れられると、それはキリストのみかたちに魂を造りかえるのである。これこそ、神が子らに受けさせようと招いておられる知識であって、これ以外はすべてむなしく、価値のないものである。 AA 1536.5
どの時代でも、どこででも、品性を築くための真の基礎は同じであって、それは神のみことばに包含されている原則である。唯一の安全で確かな規則は、神が言われることを行うことである。「主のさとしは正し くて」、「これらの事を行う者はとこしえに動かされることはない」(詩篇19:8、15:5)。使徒たちは、当時のいろいろの誤った学説に神のみことばで立ち向かい、「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない」と言った(Ⅰコリント3:11)。 AA 1536.6
コロサイの信者たちは、改宗してバプテスマを受けた時、これまで彼らの生活の一部となっていたさまざまな信仰や慣習を捨てて、キリストに心から忠誠をつくすことを誓った。パウロは手紙の中でこの事を彼らに思い出させ、その誓いを守るために、彼らを支配しようとしている悪に立ち向かうよう、絶えず努力をしなければならないことを忘れないようにと勧めた。「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」。 AA 1537.1
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)。人はキリストの力によって、罪深い習慣の鎖を断ち切る。彼らは利己心を捨てる。不敬な者は敬虔になり、飲酒家は謹厳になり、放蕩者は純潔になる。サタンに似ていた人々が神のかたちに変わってくる。この変化はそれ自体が奇跡中の奇跡である。みことばによって起こる変化、それはみことばの最も深い奥義の1つである。われわれはそれを理解することができない。ただ、聖書に述べられているとおり、それが「あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」と信じることができるだけである。 AA 1537.2
神のみ霊が思いと心を支配すると、改心した人は新しい歌をうたいだす。それは神のみ約束が彼の経験の中で成就されたからであり、彼の不義は許され、罪がおおわれたからである。彼は、神の律法を犯したことを神に対して悔い改め、人を義とするために死なれたキリストを信じたのである。彼は「信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得」たのである(ローマ5:1)。 AA 1537.3
しかし、この経験が自分の経験であるからといって、クリスチャンは自分のためになし遂げられたことに満足して、手をこまねいていてはならない。霊の王国に入ることを決意した人は、生まれ変わっていない力と熱情が、やみの王国の勢力に後押しされて、こぞって彼に反対することを知るであろう。彼は毎日、献身を新たにして、悪と戦わねばならない。古い習慣、罪を犯そうとする生来の傾向が、支配力をふるおうとするであろうから、これらに対していつも油断なく見張り、勝利を得るためにキリストの力によって戦わねばならない。 AA 1537.4
パウロはコロサイの人々にこう書いた、「だから、地上の肢体……を殺してしまいなさい。……あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。……だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい」。 AA 1537.5
コロサイ人への手紙は、キリストの奉仕に携わる者たちにとって最も価値のある教訓に満ちている。その教訓は、救い主を正しくあらわす者の生活に見られる、目的の単純さと目標の高尚さを示している。信者は自分の向上に妨げとなるものや、その狭い道から他の人の足をそらすものをすべて断ち切り、日常の 生活において慈悲、親切、謙遜、柔和、寛容、キリストの愛をあらわすのである。 AA 1537.6
もっと高く、もっと純潔で、もっと崇高な生活の力が、われわれに大いに必要である。われわれは世俗のことに心を用いすぎ、天の国について考えることがあまりにも少ない。 AA 1538.1
クリスチャンは、神が彼のために定められた理想に到達しようとする努力において、どんなことにも絶望してはならない。キリストの恵みと力によって、道徳的、霊的完全さがすべての者に約束されている。イエスは力のみなもと、いのちの泉である。イエスはわれわれをみことばに導き、いのちの木から、罪に悩む魂をいやす葉をわれわれに提供される。また、われわれを神のみ座に導き、われわれの口に祈りを入れられる。それによってわれわれは、神ご自身と親しく接触するのである。イエスはわれわれのために、強力な天の軍勢を動員される。1歩1歩、われわれは主の生きた力に触れるのである。 AA 1538.2
神は「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り」たいと思っている者たちの前進を制限なさることはない。祈り、警戒し、知恵と理解力を発達させることによって、彼らは、「神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ」るのである。こうして彼らは、他の人々のために働く準備をする。きよめられ、聖別された人々を、主の助け手となさることが救い主の目的である。この大いなる特権にあずかり、「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった」神に感謝したいものである。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」。 AA 1538.3
ピリピ人へのパウロの手紙は、コロサイ人への手紙のように、彼がローマで捕らわれの身であったときに書かれた。ピリピの教会はエパフロデトをつかわし、パウロに贈り物を届けていたが、パウロはエパフロデトを「わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれた」人と呼んでいる。エパフロデトは、ローマにいる間に「ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである」とパウロは書いた。エパフロデトが病気だと聞いて、ピリピの信者たちは彼の身を案じたので、彼は信者たちのもとへ帰る決心をした。「彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているから」、また「その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。……そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである」とパウロは書いた。 AA 1538.4
エパフロデトに託してパウロは、ピリピの信者たちに手紙を送ったが、その中で彼らからの贈り物のお礼を述べている。すべての教会の中で、ピリピの教会が一番惜しみなくパウロの必要を満たしてくれていた。「ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である」とパウロは手紙の中で述べた。 AA 1538.5
「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜び をもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。わたしが……どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように」。 AA 1538.6
神の恵みは、捕らわれの身であったパウロを支えて、試練の中で喜んでいることができるようにした。パウロはこの監禁が福音をひろめる結果になったと、信仰と確信に満ちてピリピの兄弟に書いている。「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうちの多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」とパウロは述べた。 AA 1539.1
パウロのこの経験の中に、われわれのための教訓がある。それは神の働かれる方法を示しているからである。主は、われわれには失敗であり敗北だと思われることから、勝利をもたらすことがおできになる。われわれは、神を忘れ、見えないものを信仰の眼で見上げることをせず、目に見えるものを見つめるという危険がある。不幸や災難に見舞われると、すぐさま神は無視しておられるとか残酷だと言って神をとがめる。神が、ある方面でのわれわれの有用さを断ち切ることが好ましいとお考えになることがあるが、われわれは、こうして神がわれわれの益となるよう働いておられることを考えてみもせずに嘆く。われわれは、こらしめが神の偉大なご計画の一部であり、苦悩のむちを受けてクリスチャンは、時には活発な奉仕に携わっている時よりももっと、主のために多くの事をすることができるということを学ぶ必要がある。 AA 1539.2
クリスチャン生活の模範として、パウロはピリピ人にキリストを指し示した。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。 AA 1539.3
パウロは続けた、「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」。 AA 1539.4
これらの言葉は、努力しているすべての魂に役立つようにと記された。パウロは理想の標準をかかげて、それに到達する方法を教えている。「自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけ……るのは神で」あると彼は言っている。 AA 1539.5
救いを得る仕事は協同組合のようなもの、すなわち、共同作業である。神と悔い改めた罪人との間に協力がなければならない。これは品性における正し い原則を形成するのに不可欠である。人は完全を目指すにあたって、妨げとなることを克服するよう、ひたすら努力しなければならない。しかし、これを成功させるために全く神により頼むのである。人間の努力だけでは不十分である。神の力に助けられなければ全く効果がない。神が働かれ、また、人も働くのである。誘惑に抵抗するのは人の仕事であり、そのための力を神からいただくのである。一方には無限の知恵と憐れみと力があるが、他方には、弱さ、罪深さ、全くの無力さがある。 AA 1539.6
神はわれわれが自己にうち勝つことをお望みになっている。しかし、神は、われわれの同意と協力がなければ、われわれを助けて下さることができない。聖霊は人に与えられた力と能力を用いて働かれる。われわれは自分では、意志と願望と性向とを神のみ旨に一致させることができない。しかし、もしわれわれが喜んでそうするものになりたいと望むなら、救い主はわれわれのためにこれをなし遂げ、「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」て下さる(Ⅱコリント10:5)。 AA 1540.1
健全で均斉のとれた品性を築きたいと思う者、よく釣り合いのとれたクリスチャンになりたいと思う者は、すべてをささげて、キリストのために全力をつくさなければならない。なぜなら、あがない主は、分割された奉仕はお受け入れにならないからである。日毎に服従の意味を学ばなければならない。神のみことばを研究し、その意味を学び、その教えに従わなければならない。こうして、クリスチャンとしての卓越した標準に到達できるのである。神は毎日共に働いて下さり、最後の試みの時に耐えられるような品性を完成させて下さる。こうして信者は、福音が堕落した人間にできることを示し、人々や天使たちの前で、崇高な試みを日毎になし遂げていくのである。 AA 1540.2
「わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」とパウロは書いた。 AA 1540.3
パウロは多くの事をした。キリストに忠誠をささげて以来、彼の生涯はたゆみない奉仕に満たされていた。町から町へ、国から国へと旅を続け、十字架の物語を語り、福音へと改宗者を導き、教会を設立した。これらの諸教会のことを彼は絶えず心にかけ、指導の手紙を数多く書き送った。時々パウロは自分の手仕事に従事して生活費をかせいだ。しかし、どんなに仕事に忙殺されても、パウロは、上に召して下さる神の賞与を得ようと努めるという、1つの大きな目的を見失わなかった。ダマスコの入口でご自身をあらわして下さったかたに忠誠をつくすという、1つの志を固く守り通した。どんな力も彼をこの目的からそらすことはできなかった。カルバリーの十字架をあがめること、これこそパウロの言葉と行動を起こさせる動因、彼を全く夢中にさせる動機であった。 AA 1540.4
辛苦と困難に直面しながらパウロを前進させたその偉大な目標こそ、すべてのクリスチャンの働き人を導き、神の奉仕に自分のすべてをささげさせるものである。働き人の注意を救い主からそらすために、世的な誘惑がふりかかるであろう。しかしクリスチャンの働き人は、ひたすら目標に向かって進み、神のみ顔を見る望みは、その望みを達成するために必要な努力と犠牲のすべてに値するものであることを、この世に、天使たちに、また人々に示さなければならない。 AA 1540.5
パウロは捕らわれの身であったが、失望しなかった。それどころか、彼がローマから諸教会に書き送った書簡には、勝利の調べが鳴り響いている。「主にあっていつも喜びなさい」と彼はピリピ人に書いた。「繰り返して言うが、喜びなさい。……何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべ て愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。 AA 1540.6
「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。……主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。 AA 1541.1