福音はこれまで常に、低い階級の人々のなかで最も大きな成果をあげてきた。「人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない」(Ⅰコリント1:26)。貧しく、友人もいない捕らわれ人のパウロに、ローマ市民の金持ちや貴族階級の注意を引くことができるとは思われなかった。悪習が彼らにあらゆる華麗な誘惑を与え、彼らをみずから進んでやってくる獲物にした。しかし、彼らの圧制で労苦にやつれ、困窮に打ちのめされた犠牲者たちの中から、貧しい奴隷の中からさえも、多くの者たちがパウロの言葉に喜んで耳を傾け、キリストを信じる信仰のうちに、運命の過酷さの中にあって彼らを励ましてくれる希望と平和を見いだした。 AA 1531.4
使徒パウロの働きは身分の低い者たちから始まったが、その影響は広がって皇帝の宮廷にまで達した。 AA 1531.5
ローマはこの当時、世界の首都であった。傲慢な皇帝たちは、地上のほとんどすべての国に法律を与えていた。王も廷臣たちも謙遜なナザレ人については無知か、憎しみや嘲笑の目を向けていた。それにもかかわらず、2年たらずのうちに福音は、捕らわれ人の貧しい家から宮殿へとその道が開かれた。パウロは悪者として鎖につながれているが「神の言はつながれてはいない」(Ⅱテモテ2:9)。 AA 1531.6
以前には、使徒パウロは人をひきつける力でキリストを信じる信仰を公衆に宣伝した。そしてしるしや奇跡からも、その聖なる性質について誤解の余地のないことを証言していた。彼は堂々と堅実にギリシャの賢人たちの前に立ち、また彼の知識と雄弁によって、誇り高い哲学の論法を沈黙させた。彼は不撓不屈の勇気をもって王や役人たちの前に立ち、正義、節制、未来の審判について論じ、ついに傲慢な支配者たちは、神の日の恐怖をすでに見ているかのようにおそれおののいたのであった。 AA 1531.7
今、使徒パウロは自分の住居に監禁されている身で、そのような機会を与えられていなかった。そして、彼を尋ねてくる人々にだけしか真理を宣べ伝えることができなかった。彼はモーセやアロンのように、不品行な王の前に行き、「わたしは有る」という偉大なお方のみ名によって王の残虐や圧制を譴責するよ うには、神のご命令を受けていなかった。しかし、その第一の唱道者が公の働きから断ち切られたように見えたまさにこの時、福音のために1つの大勝利が与えられた。まさしくその宮廷から、幾人もの人々が教会に加えられたからである。 AA 1531.8
ローマの宮廷の中ほど、キリスト教と合わない雰囲気を持っているところはほかになかった。ネロは自分の魂から霊的な面ばかりか、人間的な面の最後のわずかなものさえも抹殺して、サタンのような感じを身につけたようであった。彼の従者や廷臣たちも、一般に皇帝と同様、凶暴で、卑劣な、堕落した品性を持っていた。どう見ても、キリスト教がネロの宮廷でしっかりした立場を得ることは不可能なことのようであった。 AA 1532.1
しかしこの場合でも、他の多くの場合と同じように、自分の戦いの武器は「神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである」というパウロの主張の真実さを証明した(Ⅱコリント10:4)。ネロの宮廷の中でさえ、十字架の勝利があった。不道徳な王の堕落した臣下から、神のむすことなる改宗者が出た。これらの人々は、こっそりとではなく公然とクリスチャンであった。彼らは自分たちの信仰を恥としなかった。 AA 1532.2
中に入ることさえ困難なように見えた場所へ、どんな方法でキリスト教が入り、確かな地歩を占めるようになったのであろうか。パウロはピリピ人への手紙の中で、ネロの宮廷から信仰へと改宗者を導くことができたのは、パウロ自身が捕らわれていたためであると述べた。彼の苦難が福音の進展を妨げていたと思われてはならないと思って、パウロは彼らにこう断言した、「兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい」(ピリピ1:12)。 AA 1532.3
キリスト教会は、はじめパウロがローマを訪問すると知った時、その町に福音の著しい勝利を期待していた。パウロは多くの地に真理を携えて行き、大都市で真理を宣べ伝えていた。この信仰の闘士は世界の大都市ローマにおいても、立派に魂をキリストに導くのではないだろうか。しかし、パウロが捕らわれ人としてローマに行ったという知らせによって彼らの希望はくじかれた。彼らはかつてこの大中心地に確立された福音がすべての国々に速やかに伝えられて、この地上における支配的な力となることを確信して、待ち望んでいた。それだけに彼らの失望は大きかった。人間の期待ははずれた。しかし神の目的ははずれなかった。 AA 1532.4
宮廷は、パウロの説教によってではなく、彼の受けた束縛によって、キリスト教へと注目するようになった。彼は捕らわれの身でありながら、罪の奴隷となっていた多くの魂から束縛を断ち切ったのである。こればかりではなかった。「兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」と彼は言明した(ピリピ1:14)。 AA 1532.5
長い間の不正な留置の間中、パウロが示した忍耐と快活と勇気と信仰は、不断の説教となった。パウロの精神は、この世の精神と全く違っていて、地上の力よりももっと偉大な力が彼の中にとどまっていることをあかしした。そして彼の模範によって、クリスチャンたちは、みわざ——その公の活動からはパウロはすでに身をひいていたけれども——の唱道者として、より大きな働きへとかりたてられた。このように使徒のなわめの影響力は大きかった。彼の力と有用さとが断ち切られたように見え、どうみても何もできそうもない時に、パウロは全く自分がしめ出されたようにみえた地からキリストのために、麦束を集めるように魂を集めたのである。 AA 1532.6
2年間の捕らわれの身が終わる前にパウロは、「わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかにな」ったと言うことができた(ピリピ1:13)。そして、ピリピ人へあいさつを送った人々の中に、特に「カイザルの家の者たち」がいることをパウロは述べている(ピリピ4:22)。 AA 1532.7
忍耐は勇気と同様、勝利するものである。試練の時に忍耐強いことは、事業をなす時の大胆さと同じほど、魂をキリストに導くことができる。死別や苦し みの時に忍耐と快活さをあらわし、平安で穏やかなゆるがない信仰をもって、死そのものにさえも向かうクリスチャンは、忠実に働いて長い一生になし遂げることができる以上のことを、福音のためにすることができる。神のしもべが活動的な働きから後退させられる時、先を見通すことができないわれわれは、その不可解な摂理を歎くが、そうでなければ決してなされないような働きをなし遂げるために、神は摂理を計画されるのである。 AA 1532.8
キリストに従う者は、もはや神や真理のために、公然と積極的に働くことができなくなっても、もう奉仕することも報いをいただくこともできないなどと考えてはならない。キリストの真の証人は、決してその務めを解かれることはない。彼らが健康な時でも病の時でも、生きていようが死んでいようが、神はなお彼らをお用いになる。サタンの悪意によってキリストのしもべたちが迫害され、彼らの積極的な働きが妨げられたとき、また、彼らが投獄されたり、死刑や火刑に処せられた時、それは真理がより大きな勝利を得るためであった。こうした忠実な者たちが血のあかしを立てる時、これまで疑いを持ち、半信半疑であった者たちが、キリストの信仰を悟ってキリストのために勇敢に証人台に立った。殉教者たちの灰の中から、神のための豊かな収穫が生じていた。 AA 1533.1
パウロや共労者たちの熱意と忠誠は、険悪な状況のもとでキリスト教へと改宗した人々の信仰と服従と同様、キリストに仕える者の怠惰と信仰の不足を譴責している。使徒と彼の共労者たちは、きびしい誘惑に打ちのめされ、多くの障害に取り巻かれ、激しい反対にさらされているネロの臣下たちを、キリストを信じる信仰へ悔い改めさせることはむだだと論じ合うこともできたかもしれない。たとえ彼らが真理を受け入れたとしても、彼らはどうして信仰に従っていけるであろうか。しかしパウロは、このようなことを理由にしなかった。彼は信仰をもってこれらの魂に福音を紹介した。そして聞いた者たちの中に、なんとしても従おうと決意した者たちがいたのである。障害や危険があるにもかかわらず、彼らは光を受け入れて、その光を他の人々にも輝かすように、神により頼んだのである。 AA 1533.2
カイザルの宮廷で改宗者が真理に導かれたばかりでなく、それらの人たちは改宗後も宮廷にとどまった。彼らはその環境に適しなくなったからという理由で、責任の地位を勝手に捨ててもよいとは思わなかった。彼らは宮廷で真理に導かれたので、宮廷にとどまり、自分たちの生活と品性が変えられたことを示し、人を一変させる新しい信仰の力をあかしした。 AA 1533.3
自分たちの環境はキリストのためにあかしするにふさわしくないと、言いわけしたくなる人がいるならば、カイザルの宮廷で、皇帝の堕落や王室の不品行を見ている弟子たちの立場を考えてみるがよい。宗教的な生活にとってこれほど好ましくない環境を、また、これらの人々の置かれている立場ほど大きな犠牲と反対を伴う環境を、ほかに想像することはできないであろう。さまざまな困難と危険のただ中にあってもなお、彼らは忠誠を保ちつづけていた。うち勝ちがたいようにみえる障害のためにクリスチャンは、キリストのうちにある真理に従うことのできない自分に言いわけをしようとするかもしれない。しかし、取り調べに耐える弁解をすることはできない。もし、これができるとすれば、彼は、神がその子らに、応じることのできないような救いの条件をお作りになったのだから、神は不公平だと証言するであろう。 AA 1533.4
神に仕えようと心に決めている人は、神のためにあかしする機会を見つけるであろう。まず神の国と神の義を求めようとしている者には、困難などはなんら妨げる力のないものである。彼は祈りとみことばの研究から与えられる力によって徳を求め、悪を捨てる。罪びとたちの反対に耐えたお方、信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、信者は侮辱と嘲笑に勇敢に立ち向かうのである。それぞれの事情に応じて十分な助けと恵みが、真実なことばをお語りになる方によって約束されている。彼は助けを求めてくる魂を、その変わることのないみ腕で抱擁される。この方に任せていれば、われわれは「わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます」と言って、 安心して休むことができる(詩篇56:3)。彼に信頼するすべての者に、神はみ約束を成就して下さるのである。 AA 1533.5
救い主はご自身の模範によって、弟子たちが世にありながら世のものにならないでいられることを、お示しになった。主は世の欺瞞的な快楽を味わったり、世の風習に支配されたり、世の習慣に従ったりするために来られたのではなく、父のみこころを行うために、また失われた者を探して救うためにおいでになった。この目的を目の前におくとき、クリスチャンはどんな環境にも汚されないでいることができる。身分が高かろうと低かろうと、環境がどうであろうと、彼は義務を忠実に果たすことによって、真の宗教の力をあらわすのである。 AA 1534.1
試みから逃れるのではなく、試みのただ中にいてクリスチャンの品性は磨かれる。拒絶や反対にさらされると、キリストの弟子はますます用心するようになり、一層熱心に偉大な助け主に祈るようになる。神の恵みによりきびしい試みに耐えると、忍耐強く、用心深く、不屈になり、また、神を信じる信仰が深まり、長続きするようになる。クリスチャン信仰の勝利とは、キリストに従う者が、苦しみを受けるが強められ、服従するが勝利し、たえず死に渡されるが生かされ、十字架を負うが、栄光の冠を受ける、まさに、このことである。 AA 1534.2