本章は使徒行伝28:11~31、及びピレモンへの手紙に基づく AA 1526.1
航海の開始とともに、百卒長と囚人たちはローマに向かって出帆した。西方へ向かう途中、マルタ島に冬ごもりをしていたデオスクリの船飾りのあるアレキサンドリヤの船にこの旅行者たちは乗り込んだ。逆風のために少々遅れたが、無事に航海を終えて、船はイタリヤ沿岸のポテオリという美しい港に停泊した。 AA 1526.2
ここに数人のクリスチャンがいた。彼らはパウロに7日間滞在するように頼んだ。この願いは親切な百卒長に許された。イタリヤのクリスチャンたちは、ローマ人へ宛てたパウロの手紙を受けていたので、使徒の訪問をしきりに待っていたのである。彼らはパウロが囚人として来るとは思っていなかった。しかし彼はその苦難のゆえに、一層深く彼らから慕われた。ポテオリからローマまでの距離は140マイルあり、この海港は首都ローマとの交通が密であったので、ローマのクリスチャンたちはパウロの到来することを聞かされて、中には彼を出迎えに出た者たちもいた。 AA 1526.3
上陸して8日目に、百卒長と囚人たちはローマに向かって出発した。百卒長ユリアスは、自分の力で与えられることは何でも使徒に与えたが、囚人としての状態を変えてやることや、番兵と鎖でつながれている彼を解き放すことはできなかった。パウロは重い心で、長い間期待していた世界の首都への訪問に出発したのである。彼が予期していたこととは何と事情が違っていることであろう。鎖につながれ、汚名を着せられている身で福音をのべ伝えるとは何ということであろうか。ローマで多くの魂を真理へ導きたいという彼の希望は、当てはずれに終わる運命にあるように思えた。 AA 1526.4
ついに旅行者たちは、ローマから40マイルのところにあるアピオ・ポロに着く。彼らが大通りにむらがる群衆をわけて進んで行くと、かたくなな顔つきをした犯罪人と一緒に鎖につながれた白髪の老人は、多くの人々の侮蔑的な流し目を受け、多くの無礼な嘲笑のまととなる。 AA 1526.5
突然歓喜の叫びがきこえたかと思うと、1人の男が通りがかりの群衆の中からとび出してきて、その囚人の首にしがみつき、あたかも息子が長い間留守をしていた父を迎えるかのように、涙と喜びをもって抱きしめる。多くの者が愛情のこもった、しかも待ちかねたようなまなざしで、この囚人こそ、かつてコリントで、ピリピで、エペソで自分たちにいのちのことばを語ってくれた人だと認めるや、そのつど同じ光景が繰り返される。 AA 1526.6
心の温かい弟子たちが福音の父のまわりに熱心にむらがるたびに、一行は全部立ち止まってしまう。兵士たちは遅れるのでいらいらするが、この楽しい面会を邪魔しようとは思わない。彼らもこの囚人を尊敬し重んじるようになっていたからである。弟子たちは、そのやつれた、苦労の刻まれている顔に、キリストのみかたちが反映されているのを見る。彼らは、パウロを忘れたこともなければ、彼を愛する心にも変わりがないということ、また、彼らの生活を生き生きしたものにし、神に対する平和を与えてくれる喜ばしい望みが持てるのは、彼のおかげであるということを、自信をもってパウロに伝える。彼らは、特別に許されさえすれば、町までの道をずっと、愛の熱情に燃えて、パウロを肩にのせて行くであろう。 AA 1526.7
パウロが兄弟たちに会って「神に感謝し勇み立った」と述べているルカの意味深長な言葉に気がつく者はほとんどいない。パウロの鎖を恥とせず、かえって同情して泣く信者の群れの真中にあって、使徒は声高らかに神を讃美した。彼の心にたれこめていた悲しみの雲は一掃された。キリスト者としての彼の生涯は試練と苦難と失望との連続であったが、この時彼は豊かに報いられたと思った。彼は一層しっかりと足を踏みしめ、喜びに心をはずませて、彼の道を歩みつづけた。彼は過去について不平を言わず、未来を恐れもしなかった。投獄と患難が待ち受けてい ることを知っていたが、彼はまた、もっと恐ろしい無限のなわめから魂を救うことが彼の仕事だということを知っていて、キリストのために受ける苦しみを喜んだのである。 AA 1526.8
ローマで百卒長ユリアスは、囚人たちを皇帝の侍衛の長に引き渡した。ユリアスがパウロについてよい報告をしたのと、フェストの手紙のおかげで、パウロは隊長から好意を示され、獄に放り込まれず、自分の借家に住むことを許された。やはり番兵をつけられてはいたが、パウロは自由に友人たちに会い、キリストのみわざの進展のために骨折ることができた。 AA 1527.1
その数年前にローマから追放されていたユダヤ人が帰ることを許され、今は、数多くのユダヤ人がローマにいた。パウロは、彼の敵が入り込んできて、この人々の心を自分にそむかせる機会を得る前に、まずこの人々に自分と自分の働きのことを話そうと決心した。そこでローマに着いて3日後に、主だった人々を呼んで、自分が囚人としてローマに来た理由を簡単に率直に説明した。 AA 1527.2
「兄弟たちよ、わたしは、わが国民に対しても、あるいは先祖伝来の慣例に対しても、何1つそむく行為がなかったのに、エルサレムで囚人としてローマ人たちの手に引き渡された。彼らはわたしを取り調べた結果、なんら死に当る罪状もないので、わたしを釈放しようと思ったのであるが、ユダヤ人たちがこれに反対したため、わたしはやむを得ず、カイザルに上訴するに至ったのである。しかしわたしは、わが同胞を訴えようなどとしているのではない。こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」と彼は言った。 AA 1527.3
パウロは自分がユダヤ人から受けた辱めや、彼らが繰り返し彼を殺そうとしたことなどは、何も言わなかった。彼は用心深く、思いやりのある言葉で語った。人をひきつけたり、同情を求めたりしているのではなく、真理を弁護し、福音の栄えを保とうとしていたのである。 AA 1527.4
聞いていた者たちは、これに答えて、パウロの不利になるような文書は公私ともに受け取っていないし、ローマに来たユダヤ人は誰も彼を罪人として訴えた者はいないと言った。そして彼らは、キリストを信じるパウロの信仰の理由を直接に聞きたいと、熱心に頼んで言った、「実は、この宗派については、いたるところで反対のあることが、わたしたちの耳にもはいっている」。 AA 1527.5
彼らが積極的にそれを望んだので、パウロは彼らに福音の真理を語ることができる日取りを決めさせた。決められた日に多くの者が集まったので、「朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた」。彼は自分の経験を話し、簡潔に、誠実に、力強く、旧約聖書から論証を与えた。 AA 1527.6
使徒は、宗教が、慣習や儀式、信条や理論のうちにあるのではないことを教えた。もしそうだとしたら、生まれながらの人は、この世のことを理解するように、調査することによってそれを理解できるはずである。パウロは、宗教とは実際的な救いの力であり、完全に神から来る原則であり、魂に働きかける神の再生力を個人的に経験することであると教えた。 AA 1527.7
パウロは、モーセがいかに、イスラエルの民が耳を傾けなければならないあの預言者としてキリストを指し示したかということや、すべての預言者たちが、罪に対する神の偉大な救済として罪人の罪を負って下さる罪のない方、キリストについて、いかにあかしをしてきたかということを教えた。パウロは彼らが型や儀式を重んじているのを誤りであるとは言わなかったが、儀式的な礼拝を厳密に保持しようとして、そのすべての制度の本体であられるキリストを拒んでしまうのだと説明した。 AA 1527.8
パウロは、自分はまだ改心していなかったときにキリストを知っていたが、それはキリストとの個人的な面識によるのではなく、他の人々と同じように、来るべきメシヤのご品性とみわざについて抱いていた単なる概念によるものだったと述べた。ナザレのイエスがこの概念を成就されなかったので、パウロはイエスを 詐欺師として拒んでいた。しかし、今、キリストとその使命についての彼の見解ははるかに霊的であり、高められていた。それは彼が改心させられていたからである。使徒は、自分はキリストを肉によって知らせるのではないと断言した。ヘロデはキリストが人性をとっておられた時にキリストに会っていた。アンナスもキリストに会った。ピラトや祭司たち、役人たちも彼に会った。ローマの兵士たちも彼に会った。しかし彼らは信仰の目でキリストを見たのではない。彼らはあがめられたあがない主としてキリストを見ていなかった。信仰によってキリストを理解すること、キリストについて霊的な知識を持つことは、主が地上におられた時に主と個人的な面識があったこと以上に望ましいことなのである。今、パウロに許されていたキリストとの交わりは、単なる地上の人間同士の交わり以上に親しいものであり、長続きするものであった。 AA 1527.9
ナザレのイエスがイスラエルの望みであることについて、パウロが知っていることを語り、見たことをあかしした時、ほんとうに真理を求めていた人たちは納得した。彼の言葉は少なくともある人々の心に、決してぬぐい去られることのない印象を与えた。しかし他の者たちは、聖霊の特別な光を受けている人から聖書の明白なあかしを示されても、それを受け入れることを頑固に拒んだ。彼らはパウロの議論に論駁することができなかったが、その結論を受け入れようとしなかった。 AA 1528.1
パウロがローマに着いてかなりの月日がたってから、エルサレムのユダヤ人たちがこの囚人を直訴しにやってきた。彼らはこれまで何度も自分たちの計画をくじかれてきた。しかも今度はパウロがローマ皇帝の最高法廷によってさばかれることになっていたので、彼らはまたもや敗北を被るような危険は冒したくなかった。ルシヤもペリクスもフェストもアグリッパも、みなパウロの無罪を信ずると宣告した。パウロの敵たちは陰謀によって皇帝を動かす以外に成功の望みはなかった。彼らの計画を練って実行する余裕を見るためには、遅延が彼らの目的を促進することになる。そこで彼らは、使徒を直接告発するのをしばらく見合わせていた。 AA 1528.2
神の摂理によって、この遅延は福音の促進という結果をもたらした。パウロの責任を持っていた人たちの好意により、彼は便利な家に住むことを許され、この家で友人たちと自由に会い、また福音を聞きにやって来る人たちに福音を示すことができた。こうしてパウロは2年間働きを続けて「はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた」。 AA 1528.3
この期間中も、パウロは多くの土地に建てた諸教会のことを忘れていなかった。使徒は新しく信仰をもった人々を襲う危険を考えて、警告や実際的教訓を手紙に書いて送り、できるだけ彼らの必要を満たそうと努めた。そして彼は、これらの教会ばかりでなく、彼がまだ訪問していない地方にも、ローマから献身した働き人を送って働かせた。このような働き人は賢い牧者として、パウロが立派に始めた働きを強化した。そしてパウロは彼らと常に連絡を保っていて、教会の状態や危険について知り、すべての教会を賢明に監督することができた。 AA 1528.4
こうして、一見活動的な働きが絶たれたように見えたが、パウロは、以前のように諸教会を自由に訪問して歩いた年月よりもっと広い、永続性のある感化を及ぼした。主の囚人として、彼は兄弟たちに一層強い愛情をいだいた。キリストのためのつながれの身で書いた言葉は、彼が直接彼らと共にいた時語った言葉より、もっと熱心な注目と尊敬を集めた。信者たちは、パウロが彼らから引き離される時まで、彼が彼らのために負い続けた責任の重さに気づかなかった。これまで彼らは、パウロのような知恵や機転や不屈の精力に欠けているので責任や重荷を負えないと言いのがれをしてきた。しかし彼らは、今、これまでパウロの個人的な働きを重んじないで、教訓を避け、それを学ぶ経験を持たずにいたので、パウロの警告や勧告や忠告をありがたいと思った。そして、パウロの長い投獄中の勇気と信仰について学び、彼らはますますキリストのみわざに対する忠誠心と熱意をかき立てられた。 AA 1528.5
ローマにいたパウロの助力者たちの中には、以前の仲間や共労者たちが大勢いた。「愛する医者」ルカは、エルサレムへの旅ではパウロに同行し、カイザリヤでの2年間の監禁中も、またローマへの危険な航海中もパウロと共にいたが、今もなおパウロと共にいた。テモテもパウロに仕えて彼を慰めた。「主にあって共に僕であり、また忠実に仕えている愛する兄弟」テキコは、使徒のそばに雄々しく立っていた。デマスとマルコも彼と共にいた。アリスタルコとエパフラスはパウロと「一緒に捕われの身」となっていた(コロサイ4章7~14参照)。 AA 1529.1
マルコのクリスチャン経験は、信仰を告白した当初のころから次第に深まってきていた。彼はキリストの一生と死について綿密に研究するにつれて、救い主の使命、その辛労と戦いをはっきり把握できるようになった。キリストの手足の傷あとの中に、人類のためにささげて下さった奉仕のしるしと、失われて滅びゆく者を救うために示された自己放棄の深さを認めて、マルコは喜んで主にならって自己犠牲の道を歩むようになっていた。今彼は捕らわれの身となったパウロと運命を共にすることによって、キリストを得ることは無限に益となることであり、世を得て、あがないのためにキリストが血を流された魂を失うことは無限に損となることを、一層よく悟ることができた。彼は激しい試練や逆境に会ってもぐらつかず、最後までパウロの愛する賢い助け手となった。 AA 1529.2
デマスはしばらくの間しっかりしていたが、後になってキリストのみわざを見捨てた。これについてパウロは、「デマスはこの世を愛し、わたしを捨て」たと書いた(Ⅱテモテ4:10)。この世の利益のためにデマスは高尚で立派な報酬をすべて手放した。なんと先見の明のない交換であろう。この世の富や名誉だけを持って、たとえどんなにそれが豊かだと誇ってみたところで、デマスはほんとうに貧しかった。一方、マルコはキリストのために苦しむことを選び、天において神の相続人、キリストと共同の相続人とみなされて永遠の富を持っていた。 AA 1529.3
パウロがローマで働いた結果、神に心をささげた者の中にオネシモがいた。オネシモは異教徒で奴隷の身であったが、その主人にあたるコロサイの信者ピレモンに不都合なことをしたためにローマに逃げて来ていた。パウロはあわれな逃亡者が困って苦しんでいるのを親切に助けてやり、それから彼の暗い心に真理の光を照らそうと努めた。オネシモはいのちの言葉に耳を傾け、罪を告白して、キリストを信じる信仰へと改心した。 AA 1529.4
オネシモは信心深く、誠実であったので、パウロに愛された。パウロを慰めるやさしい心づかいや、福音の働きを進める熱意も、パウロの好むところであった。パウロは、オネシモが伝道の働きに非常に役に立つ性質をもっているのを認めて、すぐピレモンのところへ帰ってゆるしを請い、そして将来の計画をたてるようにすすめた。使徒はピレモンが失った金額についての責任を負うと約束した。小アジアの諸教会にあてた手紙を持たせて、テキコを出発させようとしていたところであったので、オネシモを一緒に連れて行かせた。悪い事をした自分から主人の前に出て行くことは、このしもべにとってつらい試みではあったが、彼は本当に改心していたので、この義務を回避しなかった。 AA 1529.5
パウロはピレモンあての手紙をオネシモに持たせた。その手紙の中で、使徒はいつものように上手に、真心をこめて、悔い改めている奴隷のために弁護し、これからも彼の奉仕を受けたいという願いを表明した。その手紙は友人として、また共労者としてピレモンに愛情をこめたあいさつで始まっている。 AA 1529.6
「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしは、祈の時にあなたをおぼえて、いつもわたしの神に感謝している。それは、主イエスに対し、また、すべての聖徒に対するあなたの愛と信仰とについて、聞いているからである。どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい」。使徒は、ピレモンが身につけているしっかりした意図や立派な品性は、みなキリストの恵みによる ものであることを彼に思い起こさせた。このキリストの恵みだけが、彼を邪悪な者や罪深い者たちとは違うものにしていたのである。同じ恵みが、悪質な犯罪者を神の子とし、役に立つ福音の働き人とすることができた。 AA 1529.7
パウロはピレモンに、クリスチャンとしての義務を果たすよう勧めることもできたが、そうせずに懇願の言葉を選んだ。「すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、捕われの身で産んだわたしの子供オネシモについて、あなたにお願いする。彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった」。 AA 1530.1
使徒は、ピレモンがオネシモの改心を認めて、その悔い改めた奴隷を、自分の子供として迎え入れ、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟として」、オネシモが自分から以前の主人と共に住みたいと思うようになるほどの愛情を、彼に示してほしいとピレモンに頼んだ。パウロは、ピレモン自身もそうしたであろうと思われるように、捕らわれの身となっている自分に仕えることのできる者として、オネシモを引きとめておきたいと言った。しかし、ピレモンが自発的にこの奴隷を解放しないかぎり、自分に仕えさせようとは思わなかった。 AA 1530.2
使徒パウロは、主人たちが奴隷たちに厳しい仕打ちをしていることをよく知っていた。また、ピレモンが彼の奴隷の振る舞いにひどく怒っていることも知っていた。パウロは、クリスチャンとしてのピレモンの真情あふれるやさしい気持ちをかき立てるような方法で、彼に手紙を書こうとした。オネシモは改心して信仰にある兄弟となっていたので、この新しい改心者に加えられる罰はパウロ自身に加えられるもののように思われた。 AA 1530.3
パウロは、この罪を犯した者が罰を受けずにすむように、また、失った特権を再び得ることができるように、オネシモの負債を支払うことを進んで申し出た。「そこで、もしわたしをあなたの信仰の友と思ってくれるなら、わたし同様に彼を受けいれてほしい。もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それをわたしの借りにしておいてほしい。このパウロが手ずからしるす、わたしがそれを返済する」とパウロはピレモンに書き送った。 AA 1530.4
これは悔い改めた罪人に対するキリストの愛をあらわすのになんとふさわしい実例であろう。主人のものを横領した奴隷は、それを償うべき何ものも持たなかった。神に仕えるべき年月を横取りしてきた罪人には、その負債を取り消す方法がない。イエスは、罪人と神の間に入って、わたしが負債を支払います、罪びとを赦してください、彼の代わりにわたしが罰を受けます、と言われる。 AA 1530.5
パウロは、オネシモの負債を引き受けると申し出てのち、ピレモン自身が使徒に負うところがいかに大きいかを思い起こさせた。神がパウロを、ピレモンの改心に力を貸すものとされたのであるから、ピレモンは自分自身をパウロに負っていることになった。それからパウロは、やさしく熱心に訴えて、ピレモンが惜しみなく聖徒たちを元気づけたように、喜びとなるこの申し出を聞き入れて、パウロをさわやかな気持ちにさせてほしいと懇願した。「わたしはあなたの従順を堅く信じて、この手紙を書く。あなたは、確かにわたしが言う以上のことをしてくれるだろう」とパウロはつけ加えた。 AA 1530.6
ピレモンへのパウロの手紙は、福音が主人としもべとの関係に及ぼす影響について教えている。奴隷所有は、ローマ帝国内に行きわたった既定の制度で、パウロが働いていた教会のほとんどどこででも主人と奴隷の姿が見られた。奴隷の数が自由市民の人口を大きくしのいでいるような都市では、しばしば、彼らを服従させるために恐ろしく厳格な法律が必要なものとみなされていた。金持ちのローマ人は、あらゆる身分や民族の、またさまざまな技能を持った奴隷を幾百人もかかえていることがしばしばであった。彼はこうした無力な者たちの魂と肉体を完全に支配し、思いのままにどんな苦しみでも加えることができた。もし彼らのうちの1人でも仕返しや自己防衛のために主人に手を振り上げようものなら、その奴隷の 家族全員が残酷に犠牲とされた。どんな小さな間違いや事故や不注意でも、無慈悲に罰せられることがよくあった。 AA 1530.7
他の者たちより人情味のある主人は、しもべたちにもっと寛大であったが、大多数の金持ち貴族は思うがままに情欲、激情、欲望にふけり、彼らの奴隷を気まぐれと暴虐の悲惨な犠牲者にした。この制度全体が絶望的に堕落した状態にあった。 AA 1531.1
既成の社会制度を独断的に、あるいは急にくつがえすことは使徒パウロの仕事ではなかった。これを試みようとすれば、福音の成功が阻まれるであろう。しかし彼は、奴隷制度の根本にある原則、しかも、それが実行されれば奴隷制度全体を揺るがせること必然であろうと思われる原則を教えた。「主の霊のあるところには、自由がある」と彼は言明した(Ⅱコリント3:17)。奴隷オネシモは改心してキリストのからだの1員となったのであるから、主人と共に神の祝福と福音の特権にあずかる兄弟として、また相続人として愛され、取り扱われなければならなかった。一方、しもべたちは「人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い」、自分たちの義務を果たさなければならなかった(工ペソ6:6)。 AA 1531.2
キリスト教は、主人と奴隷、王と臣民、福音を説く牧師とキリストの中に罪からのきよめを見いだしている堕落した罪人との間に、強い一致のきずなをつくる。彼らは同じ血潮に洗われ、同じみ霊によって生かされた。そして彼らはキリスト・イエスにあって1つとされているのである。 AA 1531.3