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患難から栄光へ

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    第二四章退廃の都コリントにて

    本章は使徒行伝第一八章一節-一八節に基づくAAJ 262.1

    紀元一世紀のあいだ、コリントは、ギリシヤばかりでなく世界の主要都市の一つであった。ギリシヤ人、ユダヤ人、ローマ人、各地からの旅行者などが、仕事や楽しみを熱心に求めて、町の通りに群がっていた。ローマ帝国内のどこからでも楽に行ける位置にある、商業の大中心地として、コリントは神と神の真理のために記念碑を打ち立てるべき重要な場所であった。AAJ 262.2

    コリントに住居を定めていたユダヤ人たちの中に、アクラとプリスキラがいた。彼らはのちに、キリストのための熱心な働き人として目立つ存在になった。このふたりの人柄を知るようになったパウロは、「その家に住み込ん」だ。AAJ 262.3

    パウロは、この交通の大通りで働きを始めようとした最初から、彼の働きの進展を妨げる深刻な障害を見た。町全体が偶像礼拝にささげられていたのである。ビーナスは気に入りの女神で、ビーナスを拝 むことには、さまざまな風紀を乱す慣習や儀式が伴っていた。コリント人は、異教徒たちの中でさえも、みだらな不道徳行為のために目立つ存在であった。彼らは一時的な快楽や歓楽以外、ほとんど何も考えず、気にかけもしないようであった。AAJ 262.4

    コリントで福音を宣べ伝えるにあたって、パウロは、アテネにおける働きを特徴づけたものとは異なった方法を取った。アテネにおいてパウロは、聴衆の性格に自分のやり方を適合させようとし、論理には論理で、科学には科学で、哲学には哲学で立ち向かった。彼は、このようにして過ごした時のことを考え、アテネにおける彼の教えがほとんど実を結ばなかったことに気づいて、コリントでは、また別の伝道方法によって、軽率で無関心な人々の心をとらえようと決めた。彼はむずかしい議論や討論をさけて、「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは」、コリント人のあいだでは「何も知るまい」と決心した。彼は、「巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によ」ってコリント人を説こうとした(コリント第一・二ノ二、四)。AAJ 263.1

    パウロがコリントのギリシヤ人たちにキリスト〔注・救い主〕として紹介しようとしていたイエスは、悪名の高い町で育てられた、身分の低い生まれのユダヤ人であった。イエスはご自分の民族に拒まれ、ついに、悪人として十字架にかけられた。ギリシヤ人は、人類を高めることは必要であると信じていたが、哲学や科学の研究が真に人類を高め名誉を得る唯一の方法だと思っていた。この身分の低いユダヤ人の力を信じることが、人間のあらゆる力を向上させ、高尚なものとすることを、パウロは彼らに信じ させることができるであろうか。AAJ 263.2

    現代に住む人々の心にとって、カルバリーの十字架は神聖な思い出につつまれたものである。キリストの受難の光景は神聖なものを連想させる。しかし、パウロの時代には、十字架は拒絶と恐怖の感情をもって眺められていた。十字架上で死を遂げた者を人類の救い主として支持すれば、当然、嘲笑や反感を呼び起こしたであろう。AAJ 264.1

    パウロは自分の使命が、コリントのユダヤ人やギリシヤ人にどのように受けとめられるかをよく知っていた。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである」と、彼は認めていた(コリント第一・一ノ二三)。ユダヤ人の聴衆の中には、パウロが宣べ伝えようとしていた使命に腹を立てる人々がたくさんいたであろう。ギリシヤ人の見るところでは、パウロの言葉はばかげた愚言であったであろう。十字架が民族を高尚にし、人類を救うことに関係があるということを示そうとしたパウロは、知能の低い者とみなされたであろう。AAJ 264.2

    しかし、パウロにとって、十字架は最高の関心をはらうべき唯一の対象であった。パウロは、十字架にかけられたナザレ人に従う者たちを迫害していたさ中にとらえられて以来、ずっと、十字架をあがめつづけてきた。その時、キリストの死に表された、神の無限の愛についての啓示が彼に与えられたのである。そして、彼の人生に驚くべき変化が起こり、彼のすべての計画と目的が天と一致するようになった。 その時からパウロは、キリストにある新しい人になった。罪人がみ子の犠牲の中に見られる天父の愛をあおぎ見て、神の感化力に従うとき、心に変化が起こり、それ以後、キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられると悟るようになることを、パウロは個人的な経験から知った。AAJ 264.3

    パウロは改心したとき、ナザレのイエスを、人を変え救いを施す力のある生ける神のみ子として、同胞にぜひともあおぎ見させたいという願いをいだいた。それ以来彼は、生活のすべてをささげて、十字架にかけられたかたの愛と力を描くことに全力をつくした。彼の大きな同情心は、あらゆる階級の人々を受け入れた。「わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある」と彼は言った(ローマ一ノ一四)。パウロが以前に、聖徒たちの名を借りて冷酷にも迫害していた栄光の主に対する愛は、彼の行動を駆りたてる原理、すなわち原動力であった。もし義務の道において熱情の衰えることがあれば、彼は十字架を一目見るだけで、そこに驚くべき愛が示されていることを知り、自己否定の道に邁進まいしんするのであった。AAJ 265.1

    コリントにある会堂で説教をし、モーセや預言者たちの書き物から説いて、聞く者たちを約束のメシヤの来臨へと導いている使徒パウロを見よ。あがない主が人類の大祭司として、ご自身の命を犠牲にすることにより、一度だけすべての者のために罪の償いをされて、それから天の聖所においてご自分の務めをなさる、その主のみわざをわかりやすく説くパウロに耳を傾けよ。パウロの言葉を聞いていた者たちは、自分たちの待望していたメシヤが既に来られたこと、キリストの死がすべての犠牲のささげ物の 本体であったこと、また、天の聖所におけるキリストの務めは、背後にその影を持ち、ユダヤの祭司の務めを明らかにする、偉大な実体であるということを理解させられた。AAJ 265.2

    パウロは「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに・・・・あかしした」。預言やユダヤ人たちの一般的な期待によれば、メシヤはアブラハムとダビデの家系から出るはずだということを、彼は旧約聖書から説明した。次にパウロは、父祖アブラハムから、王位にある詩篇記者を経て、イエスの家系をたどった。彼は、約束のメシヤのご品性と働きについての、また、この地上でメシヤがどのような扱いをうけるかについての預言者たちのあかしを読み、次に、これらすべての預言が、ナザレのイエスのご生涯とみわざと死において成就したことを説明した。AAJ 267.1

    パウロはキリストが、何よりもまず、国家の存続を達成し、その栄光をあらわすものとしてキリストの来臨を待ち望んでいた民族に、救いを与えるために来られたのだと説明した。しかし、その民族は、彼らにいのちをさずけてくださるはずであったキリストを拒んで、その支配が死と共に終わるような他の指導者を選んだ。パウロは、悔い改めによる以外、差し迫った滅亡からユダヤ民族を救うことができないことを、聞く者たちにはっきり分からせようと努めた。彼らが、十分に理解していることを自分たちの最高の誇りとし、栄光としていたそれらの聖句の意味について、実は無知であったことを、パウロは指摘した。また彼は、ユダヤ人の世俗的なことや、地位や肩書きや自分を誇示することを好むことや、過度に利己主義なことを譴責した。AAJ 267.2

    聖霊の力により、パウロは自分の奇跡的な改心や、旧約聖書に対する確信を語った。旧約聖書こそナザレのイエスにおいて完全に成就されたものである。このことを厳粛に、熱心に語ると、聞く者たちは、彼が、十字架にかけられて、よみがえられた救い主を、心から愛しているのだと認めざるを得なくなった。彼らには、パウロの心がキリストに向けられ、彼の全生涯が主に結びつけられているのだとわかった。彼の言葉は非常に心を動かすものだったので、無感動でいることができたのは、ただキリスト教に対する激しい憎悪に満たされていた者たちだけであった。AAJ 268.1

    しかしコリントのユダヤ人は、使徒パウロによってはっきり示された証拠に目を閉じ、彼の訴えを聞こうとしなかった。キリストを拒むに至ったのと同じ精神から、彼らはキリストのしもべに対して激しい怒りに満たされた。パウロが福音使命を異邦人に伝え続けることができるよう、神が特別にパウロを保護されなかったら、彼らはパウロの息の根をとめてしまったであろう。AAJ 268.2

    「しかし、彼らがこれに反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、『あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く』。こう言って、彼はそこを去り、テテオ・ユストという神を敬う人の家に行った。その家は会堂と隣り合っていた。」AAJ 268.3

    シラスとテモテはパウロを助けるために「マケドニヤから下ってきて」、共に異邦人のために働いた。パウロとその仲間たちは、ユダヤ人ばかりでなく異邦人にも、堕落した人類の救い主としてキリストを 宣べ伝えた。複雑な、遠まわしの論法を避けて、十字架の使命者たちはこの世の創造主、宇宙の最高の統治者のご性質を強調した。彼らの心は神とみ子への愛に燃え、彼らは人類のためにささげられた無限の犠牲を見上げるようにと異邦人に訴えた。彼らは、異教の中で暗中模索を続けてきた人々が、カルバリーの十字架から流れてくる光さえ見ることができれば、あがない主のもとへと導かれることを知っていた。「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」と、救い主は言っておられた(ヨハネ一二ノ三二)。AAJ 268.4

    コリントにおける福音の働き人たちは、彼らが働きかけている魂の上に恐ろしい危険が迫っていることを実感した。そして、自分たちの上に負わされている責任を感じつつイエスのうちにある真理を明らかにした。彼らの使命は明瞭、率直、また決定的で、それはいのちからいのちに至らせる香りか、それとも死から死に至らせる香りであった。そして、彼らの言葉にばかりでなく、また日々の生活の中に福音があらわされた。天使たちは彼らと協力し、神の恵みと力は多くの者の悔い改めの中に示された。AAJ 269.1

    「会堂司クリスポは、その家族一同と共に主を信じた。また多くのコリント人も、パウロの話を聞いて信じ、ぞくぞくとバプテスマを受けた。」AAJ 269.2

    これまで常に使徒たちに向けられていたユダヤ人の憎しみは、いよいよ激しくなった。クリスポの悔い改めとバプテスマは、頑迷な反対者たちに自分たちの非を認めさせないで、かえって彼らを怒らせる結果になった。彼らはパウロの説教を議論で反駁はんばくすることができなかった。そのように証拠不足だった ので、彼らは欺瞞ぎまんと悪意のある攻撃に訴えて、福音とイエスのみ名を冒涜ぼうとくした。彼らが盲目的な怒りの中で用いるとき、どんな言葉も彼らにとって激しすぎることはなく、どんな計略も低級すぎることはなかった。彼らはキリストが奇跡を行われたことを否定することはできなかったが、キリストはサタンの力によって奇跡を行ったのだと言った。そして、パウロが働きかけたすばらしい仕事も、同じ手先によってなされたのだと断言した。AAJ 269.3

    パウロはコリントでいくらかの成功をおさめたが、なおこの堕落した都市の邪悪さを見聞きして、ほとんど落胆しそうになった。異邦人の堕落ぶりを目撃し、ユダヤ人からは軽蔑と侮辱を受けて、彼は激しく苦悶した。そして、そこに見いだされる人材で教会を築こうとすることは知恵のないことではないかと、おぼつかない気持ちになった。AAJ 270.1

    パウロがもっと有望な伝道地を求めてこの町を去ろうと計画し、自分の義務をさとりたいと熱心に求めたとき、主は異象を通して彼に臨み、そして、言われた、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。パウロは、このことがコリントにとどまれとの命令であり、またまかれた種を主がふやされるとの保証であるとさとった。力づけられ、勇気づけられて、彼は熱心に、辛抱強くそこで働きつづけた。AAJ 270.2

    使徒パウロの努力は公開の説教だけに限られなかった。この方法では動かすことのできない多くの人 人がいた。彼は戸毎訪問に多くの時間を費やし、そうすることによって家庭ぐるみの親しい交際を利用した。彼は病気の者や悲しんでいる者を訪れ、苦しんでいる者を慰め、しいたげられている者を助けた。そして、自分の言うこと行うことのすべてに、イエスのみ名を高めた。こうして彼は働き、「弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」(コリント第一・二ノ三)。パウロは自分の教えていることが神を印象づけないで、人間を印象づけているのではないかとおそれた。AAJ 270.3

    パウロは後になって、次のように言った。「わたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。AAJ 271.1

    ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神か ら賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである」(コリント第一・二ノ六-一三)。AAJ 271.2

    パウロは彼の力が、自分自身の中にあるのではなく、聖霊のご臨在の中にあって、その尊い感化力が彼の心を満たし、一つ一つの思いをキリストに服従させてくださることを知った。彼は自分自身について「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」と言った(コリント第二・四ノ一〇)。使徒パウロの教えにおいては、キリストが中心人物であった。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と彼は言った。自己は隠されて、キリストがあらわされ、高められた。AAJ 272.1

    パウロは雄弁家であった。改心する前に、彼はしばしばほとばしる雄弁で聴衆に感銘を与えようとした。しかし今は、彼はこれをすべて放棄した。感覚を楽しませ、想像力を満足させはするが、しかし日常の生活には関係のないような、詩的表現や空想的描写にふけることなく、パウロはきわめて重要な真理を、人の心に刻みつけるために、単純な言葉を用いるよう努めた。真理を空想的に描写するなら、人を感動させることができるかもしれない。しかし、往々にして、このようにして示された真理は、信者を強めて人生の戦いに備えさせるに必要な糧を与えるものではない。即刻の必要や現実の試みに苦闘している人々には、キリスト教の基本原則にある健全で実際的な教えを与えなければならない。AAJ 272.2

    コリントにおけるパウロの努力には、成果がなかったわけではない。多くの者が偶像礼拝を離れて生ける神に仕えるようになり、一つの大きな教会がキリストの軍旗の下に編入された。異邦人の最も放縦な者たちの中からも、救われる者たちがいて、神のあわれみと、罪からきよめるキリストの血の効力についての、記念碑となった。AAJ 273.1

    パウロがキリストを示すことにますます成功したことから、不信なユダヤ人は一層強固な妨害へと奮い立った。彼らは一団となって立ち上がり、「一緒になってパウロを襲い、彼を法廷にひっぱって行って訴えた」。当時、ガリオがアカヤの総督であった。彼らは法廷の役人たちが、以前の場合と同じように彼らに味方するだろうと期待して、怒声を張り上げ、使徒パウロに対する苦情を訴えた、「この人は、律法にそむいて神を拝むように、人々をそそのかしています」。AAJ 273.2

    ユダヤの宗教はローマの権力の保護下にあった。だからパウロを訴えた者たちは、もし彼に、彼らの宗教の律法を犯したという罪を負わせることができるなら、彼は裁判にかけられ、判決を受けるために引き出されることになるだろうと思った。こうして彼を死に追い込みたいと彼らは望んだ。しかし、ガリオは誠実な人で、ユダヤ人の嫉妬しっとと陰謀にだまされる者とならず、これをはねつけた。ガリオは彼らの偏狭と独善にあいそをつかし、彼らの訴えを無視していた。パウロが弁明のために口を開こうとすると、ガリオはその必要はないと彼に告げ、それから、怒っている告発者たちに向かって言った、「『ユダヤ人諸君、何か不法行為とか、悪質の犯罪とかのことなら、わたしは当然、諸君の訴えを取り上げもし ようが、これは諸君の言葉や名称や律法に関する問題なのだから、諸君みずから始末するがよかろう。わたしはそんな事の裁判人にはなりたくない』。こう言って、彼らを法廷から追いはらった。」AAJ 273.3

    ユダヤ人もギリシヤ人もガリオの決定を熱心に待っていた。ガリオがこの事件を、公共の利害になんら関係のないものとしてその場で却下したのを見て、ユダヤ人は計画をくじかれたことを知り、怒って退場した。総督の断固たる態度によって、ユダヤ人のあと押しをしていたうるさい群衆の目が開かれた。パウロがヨーロッパで働くようになって以来はじめて、群衆は彼に味方した。総督の見ている前で、しかも、彼の干渉も受けずに、彼らは使徒を訴えた有力者たちにはげしく襲いかかった。「みんなの者は、会堂司ソステネを引き捕え、法廷の前で打ちたたいた。ガリオはそれに対して、そ知らぬ顔をしていた。」こうしてキリスト教はめざましい勝利をおさめた。AAJ 275.1

    「パウロは、なお幾日ものあいだ滞在した。」もし使徒パウロが、この時コリントを去るよう強いられていたなら、イエスを信ずる信仰へと改宗した人々は、危険な立場に置かれたことであろう。ユダヤ人たちは、その地方からキリスト教が絶滅してしまうまで、彼らが得た有利な状態をいよいよ徹底させる努力をしていたことであろう。AAJ 275.2

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