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    信仰

    聖霊によって私たちの良心が目覚めると、罪がいかに忌わしく、罪の力、罪のとが、また罪からくる災いがどんなものであるかがいくらか分かってきて、罪を憎む上うになります。罪が自分を神より引き離してしまい、自分は悪の力の奴隷になっていることに気づくのです。逃れようと、もがけばもがくほど、自分の力なさを感じます。動機は不純で心は不潔で、自分の生活は全く利己心と罪ばかりであるのを知り、何とかしてゆるされ清められて、自由になりたいと望むのです。神と調和し、神に似るにはいったい何をすればよいのでしょうか。SC 1950.4

    あなたに必要なものは平和です。つまり天のゆるしと平和と愛を心にいただくことです。それは、金で買うことも知識で達することも、また知恵で手に人れることもできません。自分のカでは絶対に手に入れることは望めないのです。けれども神は、これを「金を出さずに、ただで……買い求」(イザヤ55:1)める賜物として与えられるのですから、ただ手をのばしてそれをつかみさえすれば自分のものとなるのです主は、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ1:18)。「わたしは新 しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け」(エゼキエル36:26)ると言われます。SC 1950.5

    あなたは自分の罪を告白して、心よりこれを捨て去り、神に自らをささげようと決心なさいました。ですから今、神のもとに行き、罪を洗い去って新しい心を与えてくださいと願いなさい。そして、神がお約束なさったのですから、そうしてくださると信じなさい。これはイエスのこ在世の時に教えられた教訓であって、神が私たちにお約束になった賜物は、それを得たと信じるときに、私たちのものとなるのです、人々が彼のカを信じた時、イエスは病気をおいやしになりました。イエスはまず、人々を目で見えるものでお助けになって、目に見えないこと、すなわち罪をゆるす力についても、彼に信頼をおくようにお教えになりました。SC 1951.1

    イエスは中風の病人をいやす時に、このことをはっきりと言われました。「『人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために』と言い、中風の者にむかって、『起きよ、床を取りあげて家に帰れ』」(マタイ9:6)と。同じく伝道者ヨハネも、キリストの奇跡について「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ20:31)と言っています。SC 1951.2

    イエスが病人をおいやしになったという簡単な聖書の記録から、私たちは罪のゆるしを得るためには、どのようにして彼を信じればよいかについていくらか知ることができます。ベテスダの中風患者のことを考えてみましょう。哀れな病人は、38年も体の自由を失っていたのです、しかしイエスは、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われました。この病人は、「主よ、もし私をいやしてくださるならばみ言葉に従います」とも言えたでしょう。しかし彼は、キリストのみ言葉を信じ、自分がいやされたと信じてすぐに立って歩こうとしました。歩こうとしたときに実際に歩くことができたのです。彼は、キリストのみ言葉に頼って行動しましたので、神は彼に力を与え、彼はすっかりいやされたのです。SC 1951.3

    罪人である私たちも同じです、過去の罪をあがなうことも、自分の心を変えることも自分自身を清くすることもできません。しかし神は、こうしたことをすべてキリストを通してしてくださるとお約束なさいました。あなたはまずそのみ約束を信じ、罪を告白し、自らを神にささげて、神に仕えようと決心しなければなりません。これを実行しさえすれば、必ず神はそのみ約束を果たしてくださるのです、神のみ約束を疑わずゆるされ、清められたと信じさえすれば、神はそれを事実としてくださるのです。中風の病人が自分がいやされたと信じたとき、キリストが歩く力をお与えになったと同じようにあなたはいやされるのです。信じたようになるのです。SC 1951.4

    いやされたと感じるまで待ってはなりません。そして「信じます。いやされています。私がそう感じるからではなく、神がこれを約束されたからです」と言いましょう。SC 1951.5

    イエスは「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と言われましたが、このみ約束には条件が1つあります。それは神のみ旨に従って祈るということです。けれども、私たちの罪を清め、神の子らとして清い生活を送らせようとなさるのは神のみこころです。ですから、これらの祝福を願い求め、それを受けたと信じて神に感謝してもよいのです。イエスのもとにきて清められ、恥じるところなくおきての前に立つことができるのは私たちの特権です。聖書にも「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない……これは……肉によらず霊によって歩く」(ローマ8:1、4)とあります。SC 1951.6

    ですから、私たちは自分のものではなく、価をもって買われたものです。「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(Ⅰペテロ1:18、19)とあります。神を信じるこの簡単な行為によって、聖霊は私たちの心に新しいいのちを 与えます。私たちは神の家族の子供として生まれたのです。ですから、神はみ子を愛されると同様に私たちを愛してくださるのです。SC 1951.7

    さて、あなたは自分をキリストにささげたのですから、退いたり、また自分を取りもどしたりしてはなりません。ただ日ごとに「私はキリストのものです。私は自分をキリストにささげました」と言って、聖霊を与えられ、彼の恵みによってささえられるよう祈りましょう。自己を神にささげ、神を信じるとき神の子となるのですから、そのように神にあって生活しなければなりません。使徒パウロも、「あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい」(コロサイ2:6)と言いました。SC 1952.1

    世の中には、自分たちは試験されているのであって、心を改めた証拠がなければ、神の祝福を受けることができないと考えている人々がいます。しかし、今すぐにでも祝福を求めて受けることができるのです。神の恵み、キリストの霊を受けて、自らの弱さを補うのでなければ悪に抵抗することはできないのです、イエスは、私たちが罪に汚れたのみとするものもないままで、みもとに行くのをお喜びになります。私たちは、弱さ、愚かさ、罪深さなどをみな持ったまま悔いの涙をもって、主の足もとにひざまずいてよいのです。主は愛のみ手のうちに私たちをいだき、傷をつつみ、すべての汚れから清めることをご自身のほまれとなさいます。SC 1952.2

    多くの人があやまったのはこの点であって、イエスは個人的に、一人一人にゆるしを与えられることを信じないのです。彼らは神のみ言葉をそのとおり信じません。しかし、だれでも条件に従うならば、いかなる罪のゆるしも価なく与えられることを、はっきり知ることができるのです。神のみ約束は、自分のためではないなどという疑いは捨てなければなりません。このみ約束は、悔い改める罪人一人一人のためです。キリストが備えておられた能力と恵みは、み使いによって、信じる魂一人一人に与えられます。どんなに罪深いからといっても、彼らのために死なれたイエスから能力と純潔と義とを受けることができないという人はありません。イエスは罪に染まって汚れた衣を脱がせ、義の白い衣を着せようと待っておいでになります。死ぬことなく、生きなさいと招いておいでになるのです。SC 1952.3

    神は、人間が互いをあしらうように私たちをあしらいません。彼は、愛とあわれみといつくしみ豊かな神です。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(イザヤ55:7)。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」(イザヤ44:22)と言っています。SC 1952.4

    「わたしは何びとの死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル18:32)。悪魔は、この尊い神よりの保証を奪い去り、人の心から希望と光を消し去ろうとしていますが、そうさせてはなりません。試みる者に耳を貸してはなりません、イエスは私が生きるために死んでくださったのです。彼は私を愛し、私が滅びるのを喜ばれません。私にはまた愛にあふれる天の父があります。私は、天の父の愛をないがしろにし、せっかく与えられた祝福を無駄にしましたが、立って天の父のみもとに行き「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください」と言わねばなりません。このたとえは、さまよい出た者がいかに迎えられるかを次のように語っています。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいてせっぷんした」(ルカ15:18~20)。SC 1952.5

    これは実に優しく、人の心を動かさずにはおかない物語ですが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。主は預言者を通し、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ31:3)と言われました。罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費 しているとき、父の心はその子の身の上を案じているのです。そして、神へ帰りたいという気持を彼の心に起させるのはみな、聖霊のやさしい訴えの声であって、さまよい出た者へ熱心に話しかけ、哀願し、父なる神の愛の心に引きつけようとしておられるのです。SC 1952.6

    聖書には、こうしたみ約束がたくさんありますから、疑う余地はどこにもありません。哀れな罪人が帰りたいと思い、罪を捨てたいと願っているのに、主は彼が罪を悔いて主の足もとに来るのを拒むなどと考えられるでしょうか。決してそのようなことを考えてはなりません。天の父がそのような方であると考えることほど、魂を傷つけるものはありません。神は、罪を憎みますが罪人をお愛しになります。SC 1953.1

    神がキリストをお与えになったことは、ご自分をお与えになったことでした。そして望む者はだれでも救われ、栄光のみ国で限りない祝福にあずかることができるようにしてくださったのです。神が私たちに対する愛をあらわすためにお用いになった次の言葉ほど、強く優しい言葉はありません。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」(イザヤ49:15)。SC 1953.2

    疑い、わななく人々よ、目を上げて見ようではありませんか。イエスはなお生きて、私たちのために執り成しをしておられます。神が愛するひとり子をお与えになったことを感謝するとともに、彼の死が無駄にならないよう祈りましょう。聖霊は今日、あなたを招いておられます。全心をささげて、イエスのもとに行きましょう。そうすれば主の祝福を自分のものとすることができるのです。SC 1953.3

    み約束を読むとき、そのみ言葉は言いあらわすことのできない愛とあわれみの表現であるということを覚えましょう、無限の愛の神のみ心は、はかり知れないあわれみをもって罪人をひきつけています。「その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」(エペソ1:7)。そうです。あなたを助けることができるのは、ただ神のみであることを信じてください。神はご自身の真のかたちを人間のうちに回復したいと望んでおられます。告白と悔い改めによって神に近づくならば、神はあわれみとゆるしをもって私たちに近づかれるのです。SC 1953.4

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