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国と指導者

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    第20章 大国シリヤからの訪問者

    「スリヤ王の軍勢の長ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。彼は大勇士であったが、重い皮膚病をわずらっていた」(列王紀下5:1)。PK 483.7

    スリヤの王ベネハダデはイスラエルの軍勢を打ち破り、その戦いにおいてアハブは死んだ。その時以来、スリヤ人はイスラエルに対して絶えず国鮒近の戦争をいどみ続けた。そして、そのような襲撃の際に、彼らは1人の少女を連れ去った。この少女は捕らえられて行った地で「ナアマンの妻に仕えた」。この少女は家庭から遠く離れた奴隷であったけれども、神の証人の1人で、神がご自分の民としてイスラエルを選ばれた目的を無意識のうちに達成したのである。彼女がその異教の家庭で仕えていた時に、彼女の主人を気の毒に思った。そして、エリシャが行なった驚くべきいやしの奇跡を思い出して、その女主人に向かって、「ああ、御主人がサマリヤにいる預言者と 共におられたらよかったでしょうに。彼はその重い皮膚病をいやしたことでしょう」と言った(同5:3)。彼女は、エリシャには天の神の力が宿っているのを知っていた。そして、この力によってナアマンはいやされると信じたのである。PK 483.8

    異教の家庭における捕らわれの少女の行動とその態度は、初期の家庭訓練の力を力強く証明している。父親と母親にゆだねられた任務の中で、子供の保護と訓練ほど重要なものはない。両親は習慣と品性の基礎そのものを築かなければならない。彼らの模範と教育とによって、子供たちの将来の大半が決定されてしまうのである。PK 484.1

    その生活が真に神を反映し、神の約束と命令が子供の中に感謝と崇敬の念を起こさせるような両親は幸福である。また、そのやさしさと正義と忍耐とが、神の愛と正義と忍耐を子供たちに解明し、彼らに対する愛と信頼と服従を教えることによって、天の神に対する愛と信頼と服従を教える両親は幸福である。このような賜物を子供に与える両親は、あらゆる時代のすべての富よりも尊い宝、永遠に至る宝を子供に授けるのである。PK 484.2

    われわれは子供たちがどのような奉仕に召されるかを知らない。彼らは家庭の中で一生を過ごすかもしれない。また人生の一般の職業に従事することであろう。あるいは、異教の地に福音の教師として出かけるであろう。しかし、すべての者は同じく神のための伝道者、世界に対するあわれみの使者として召されているのである、彼らは、キリストの側に立って無我の奉仕をするための教育を受けなければならないのである。PK 484.3

    このヘブルの少女の両親は、彼女に神のことを教えた時に、彼女がどんな運命をたどるかを知らなかった。しかし、彼らはゆだねられた任務に忠実であった。そして、スリヤの軍勢の長の家庭において、彼らの子供は彼女が尊ぶことを学んだ神のためのあかしを立てたのである。PK 484.4

    ナアヤンは彼女が女主人に言った言葉を聞いた。そして、王の許可を得ていやしを求めて出かけた。「彼は銀10タラントと、金6000シケルと、晴れ着10着を携えて行った」(同5:5)。また、彼はスリヤの王からイスラエルの王への手紙を持って行ったが、それには、「わたしの家来ナアマンを、あなたにつかわしたことと御承知ください。あなたに彼の重い皮膚病をいやしていただくためです」と書いてあった。イスラエルの王は、その手紙を読んだ時、「衣を裂いて言った、『わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、重い皮膚病の男をわたしにつかわして、それをいやせと言うのか。あなたがたは、彼がわたしに争いをしかけているのを知って警戒するがよい』」と(列王紀下5:6、7)。PK 484.5

    エリシャはこのことを聞いて、王に人をつかわして言った。「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」(同5:8)。PK 484.6

    「そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った」。するとエリシャは、使者を通じて、「あなたはヨルダンへ行って7たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」と言った(同5:9、10)。PK 484.7

    ナアマンは、何か驚くべき天からの力のあらわれを見るものと期待していた。「わたしは、彼がきっと杖しのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、重い皮膚病をいやすのだろうと思った」と彼は言った。ヨルダンに行って洗うように言われた時に、彼の誇りが傷つけられた。そして、屈辱と失望のあまり、「ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」と叫んだ。「こうして彼は身をめぐらし、怒って去った」(同5:11、12)。PK 484.8

    ナアマンの高慢心はエリシャが命じた方法に従おうとしなかった。スリヤの大将があげた川は、その周囲の木立によって美しくされ、多くの人々はこれらの心地よい川の岸辺に集まって、彼らの偶像の補を礼拝した。ナアマンにとって、こうした川にくだって いくことは、大きな屈辱感を与えるものではなかったしかし、彼が癒されるのは預言者の特別の指示に従うことによってのみであった。喜んで服従することによってのみ、願っている癒しが与えられるのであった。PK 484.9

    ナアマンのしもべたちはエリシャの指示に従うように、彼に嘆願した。「預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」と彼らはしきりに勧めた。ナアマンの誇りが頭をもたげてきていた一方において、彼の信仰が試されていたのである。しかし信仰が勝利した。そして高慢なスリヤのナアマンは誇りを捨てて、主の啓示されたみこころにへりくだって従った。彼は「神の人の言葉のように7たびヨルダンに身を浸」した。すると彼の信仰は報われた。「その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった」(同5:13、14)。PK 485.1

    感謝に満ちて、「彼はすべての従者を連れて神の人のもとに帰ってきて、その前に立って言った、『わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました』」(同5:15)。ナアマンは当時の習慣に従って、高価な贈り物を受けて下さいとエリシャにたのんだ。ところが、預言者はそれを拒んだ。彼は、神が憐れみのうちにお与えになった祝福に対する支払いを受けるべきではなかった。彼は「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」と言った。ナアマンは「しいて受けさせようとしたが、それを拒んだ」(同5:16)。PK 485.2

    「そこでナアマンは言った、『もしお受けにならないのであれば、どうぞ騾馬に2駄の土をしもべにください。これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめる、とがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主がその事を、しもべにおゆるしくださるように』」(列王紀下5:17、18)。PK 485.3

    「エリシャは彼に言った、『安んじて行きなさい』。ナアマンが、エリシャを離れて少し行った」(同5:19)。PK 485.4

    エリシャのしもベゲバジはこの年月の間に、彼の主人の生涯の働きの特徴であった自己犠牲の精神を養う機会が与えられていた。彼は主の軍勢の気高い旗手となる特権が与えられていた。天からの最高の賜物が長い間彼の手の届くところにあった。それにもかかわらず、彼はそれらに背を向けて、その代わりに世俗の富という卑しい合金をむさぼった。ここで彼は心にひそんだ強欲心のために、圧倒的誘惑に負けてしまった。ゲハジは心の中で考えた。「主人はこのスリヤびとナアマンをいたわって、彼が携えてきた物を受けなかった。……わたしは彼のあとを追いかけて、彼から少し、物を受けよう」。こうして、ひそかに、「ゲハジはナアマンのあとを追った」(同5:20、21上句)。PK 485.5

    「ナアマンは自分のあとから彼が走ってくるのを見て、車から降り、彼を迎えて、『変った事があるのですか』と言うと、彼は言った、『無事です』」。ここで、ゲバジは計画的な偽りを言った。PK 485.6

    「主人がわたしをつかわして言わせます、『ただいまエフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若者が、わたしのもとに来ましたので、どうぞ彼らに銀1タラントと晴れ着2着を与えてください』」。ナアマンはこの願いを喜んできき、銀1タラントのかわりに銀2タラントと「晴れ着2着を添えて」ゲハジに与えて、しもべたちにその宝物を背負っていくように命じた(列王紀下5:21下句~23)。PK 485.7

    ゲバジはエリシャの家に近づくとしもべたちを先に帰して、銀と晴れ着を隠した。そうしておいて「彼がはいって主人の前に立っ」た。そして、彼はとがめ立てされないために、もう1つのうそを言った。預言者のどこへ行ってきたのかという質問に答えて、ゲバジは、「しもべはどこへも行きません」と答えた(同5:25)。PK 485.8

    その時、厳しい非難の声が聞こえて、エリシャがすべての事を知っていることを示した。「あの人が車をはなれて、あなたを迎えたとき、わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか、今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか。それゆえ、ナアマンの重い皮膚病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」。罪ある人に対する天罰はてきめんであった。彼がエリシャの前を出ていくとき、「重い皮膚病が発して雪のように自くなっていた」(同5:26、27)。PK 486.1

    高く聖なる特権が与えられた者のこの経験は、実に厳粛な教訓を教えている。ゲバジの行為は、驚くべき光が心にさし、生ける神の礼拝に対して好感を持ったナアマンの道につまずきの石を置くようなものであった。ゲハジが行った欺瞞行為は、弁解の余地がない。彼は死ぬまで重い皮膚病であった。そして、神にのろわれ、人々からいみ嫌われた。PK 486.2

    「偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者はのがれることができない」(箴言19:5)。人々は、その悪行を、人間の目から隠すことができると考えるであろうが、彼らは神を欺くことはできない。「すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」(ヘブル4:13)。ゲバジはエリシャを欺くことができると考えたが、神はゲバジがナアマンに語った言葉と彼ら2人の間に起こったでき事を詳しく神の預言者に示されたのである。PK 486.3

    真理は神からのものである。種々様々の形態を装うあらゆる欺瞞はサタンからのものである。であるから、どんな方法においても、真理のまっすぐな道から離れるものは、悪魔の力に自分を売り渡しているのである。キリストの教えを受けた者は「実を結ばないやみのわざに加わらない」(エペソ5:11)。彼らは生活におけると同様、言葉も単純、正直、誠実である。彼らはその口に偽りがない聖なる人々との交わりに入る準備をしているのである(黙示録14:5参照)。PK 486.4

    ナアマンが肉体をいやされ、心は悔い改めてスリヤの家庭に帰ってから幾世紀も後に、救い主は、神に仕えると主張するすべての者への実物教訓として、彼の驚くべき信仰を例に引き賞賛されたのである。「預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くの重い皮膚病にかかった人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた」(ルカ4:27)。神はイスラエルに多くの重い皮膚病にかかった人がいたが、彼らが不信仰におちいり、幸福への扉を閉ざしてしまったために、彼らを見過ごしにされた。自分が正しいと信じたことに忠実で、助けの必要を感じた異邦の将軍は、神から与えられた特権を侮辱し軽蔑したイスラエルの病人たちより、神の目にははるかに神の祝福にあずかる価値があったのである。神は神の恵みを感謝し天から与えられた光に答える者のために働かれるのである。PK 486.5

    今日、各地に、心の正しい人々がいる。そして、そのような人々に天の光が輝いている。もし、彼らが、義務であると知ったことに忠実に従っていったならば、彼らはもっと光が与えられて、ついに昔のナアマンのように、生ける神、創造主のほかに「全地のどこにも神のおられない」ことを認めないわけにいかなくなるのである。PK 486.6

    「暗い中を歩いて光を得な」いすべてのまじめな人に対して、「なお主の名を頼み、おのれの神にたよ」れという招きが発せられている。PK 486.7

    「いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる」(イザヤ50:10、64:4、5)。PK 486.8

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