第9章 預言者エリヤの出現
本章は列王紀上17:1~7に基づくPK 436.7
アハブの時代に、ヨルダン川の東のギレアデの山中に、信仰と祈りの人が住んでいて、彼の大胆な活動によって、急速に進んでいたイスラエルの背信は阻止されるのであった。テシベびとエリヤは、有名 な都市から遠く離れて住み、高い地位を占めてはいなかったけれども、神が彼の前に道を備えて、豊かな成功をお与えになることを確信して、仕事に着手したのである。彼は信仰と力に満ちた言葉を語った。そして、彼はその全生涯を、改革の事業に献げていた。彼は、罪を譴責し、罪悪の潮流を押しとどめるために、荒野に呼ばわる者の声であった。彼は罪の譴責者として、人々のところに来たのではあったが、彼の言葉は、癒しを願うすべての悩める人々に、ギレアデの乳香を与えたのである。PK 436.8
イスラエルがますます偶像礼拝の深みに落ち込むのを見たエリヤの心は、大きな悲しみと憤りを覚えた。神は、神の民のために、大いなる事を行われたのであった。神は、彼らを奴隷から解放して、「もろもろの国びとの地を彼らに与え、……彼らが主の定めを守り、そのおきてを行う」ことができるようになさった(誌篇105:44、45)。しかし、主の恵み深いみこころは、もうほとんど忘れ去られてしまった。不信は、選民を彼らの力の源であられる神から、急速に引き離していた。エリヤは、こうした背信を、彼の山の中のかくれがから眺めて、悲しみに沈んだ。彼は心を悩まして、かつては神に恵まれた民の悪行を神が阻止されるように祈り求めた。そして、もし必要ならば、彼らに罰を下してでも、彼らに天の神からの離反が何であるかを悟らせようとした。彼は、彼らが悪行の果て、ついに神の不興を招いて、全く滅ぼされるに至る前に、彼らが悔い改めることを願ったのである。PK 437.1
エリヤの祈りは聞かれた。訴えや忠告や警告が職なく繰り返されたにもかかわらずイスラエルを悔い改めさせることができなかった。刑罰によって、繰らに語るべき時が来たのである。PK 437.2
バアルの礼拝者たちは、露や雨などの天の宝は主がお与えになるものではなくて、自然の法則によるものであり、また、地が肥沃になって、豊かな実りをもたらすのは、太陽の創造的エネルギーによるものであると主張していたので、汚染された地上に、神ののろいがきびしく下ることになったのである。背信したイスフエルの部族は、物質的祝福をバアルの力に依存した愚かさを知らされるのであった。彼らが悔い改髭て神に立ち返り、神がすべての祝福の源であることを認めない限り、地には、雨も降らなければ露もおりなくなるのであった。PK 437.3
天からの刑罰の言葉をアハブに伝える任務が、エリヤに負わせられた。彼は主の使命者になることを求めたのではなかった。主の言葉が彼に臨んだのである。彼は神の働きの栄誉のために熱心だったので、従うことは悪王の手にかかって、速やかに殺されることを招くようなものであったが、神の召しに従うことをためらわなかった。預言者はただちに出発して夜も昼も旅をして、ついに、サマリヤに到着した。彼は宮殿において、入場の許可を求めもしなければ、彼が来たことが知らされるのも待たなかった。彼は、当時の預言者たちが着ていた荒布の衣を着て、誰にも気づかれずに護衛兵たちを通りすぎ、あっという間に王の前に立って、彼を驚かせた。PK 437.4
エリヤは、彼の突然の出現に対して、なんの弁解もしなかった。イスラエルの王ではなくて、創造主が、彼に語ることをお命じになったのである。そして、彼は手を天に向けて、生ける神に誓って厳粛に、今や至高者であられる神の刑罰がイスラエルに降ろうとしていることを断言した。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」と彼は宣言した(列王紀上17:1)。PK 437.5
エリヤが彼の言葉を語ったのは、神のみことばの確実な力に対して強い信仰を働かせたからにほかならなかった。もし彼が自分が仕える神に絶対的信頼を持っていなかったならば、アハブの前に立つことはしなかったであろう。PK 437.6
エリヤはサマリヤへ行く途中で、水のつきない流れや、緑におおわれた山々や、かんばつに襲われそうもない堂々とした森林を通過した。彼が見たものは、すべて、美におおわれていた。預言者は、どのようにして、流れの水が止まって干からび、山々や谷が、かんばつで焼けつくようになるだろうかと、怪しむこともできた。しかし、彼は、不信仰におちいらたかっ た。彼は、神が背信したイスラエルを卑しめて、刑罰によって彼らを悔い改めさせることを疑わずに信じていた。天の神の厳命が出されたのである。神の言葉に誤りはあり得なかった。エリヤは自分の生命の危険をもかえりみずに、恐れることなく、彼の任務を果たしたのである。刑罰の切追を告げる言葉は、あたかも青天のへきれきのごとくに、悪王の耳にひびいた。しかし、アハブが驚きから立ち直り、返答をすることができる前に、エリヤは、彼の言葉の結果を待って目撃しようともせず、彼が現れた時と同様に、忽然と姿を消してしまった。そして、主は彼の前に行かれて、道を平らにされた。預言者は次のように命じられた。「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」(同17:3、4)。PK 437.7
王は熱心にさがし求めたが、エリヤを見つけることはできなかった。王妃イゼベルは、天の宝を閉じ込めてしまった言葉に対して腹を立てて、直ちにバアルの預言者たちと謀った。彼らは彼女と一緒になって、預言者エリヤをのろい、主の怒りに反抗した。彼らは、災いの言葉を発した者を発見しようと思ったけれども、それは失望に終わるにきまっていた。また、広くはびこった背信のために、刑罰がくだされたということを、隠しておくこともできなかった。エリヤがイスラエルの罪を弾劾したことと、速やかに刑罰がくだるという彼の預言の知らせは、急速に全国に広がった。恐れを抱いたものもあったけれども、一般の人々は、天からの言葉をさげすみ、あざ笑った。PK 438.1
エリヤの言葉は直ちに実施された。初め、災害が起こることを嘲笑した人々は、間もなく、まじめに考えなければならなくなった。露や雨にうるおされていた地が、ほんの数か月のうちに、干からびて、植物は枯れてしまった。時が経過するにつれて、枯れたことのない川が減水し始めて、小川は乾き始めた。しかし、指導者たちは、バアルの力に信頼し、エリヤの無益な預言の言葉を無視するように人々に訴えた。祭司たちは、なおも、雨が降るのはバアルの力によるのだと主張した。エリヤの神を恐れるな、また、神の言葉におののくな、季節ごとに収穫を実らせて、人間と動物を養うのはバアルであると彼らは力説したのである。PK 438.2
アハブに対する神の言葉は、イゼベルと彼女の祭司たち、そしてバアルとアシタロテに従うすべての者に、彼らの神の力を試めす機会を与え、もしできることならば、エリヤの言葉が誤りであることを証明する機会を与えた。幾百の偶像礼拝の祭司たちの確信に対して、エリヤの預言は、孤立した存在であった、預言者エリヤが宣言したにもかかわらず、もしバァルが雨や露をふらし、川の水を流し続けて、植物を繁茂させることができるならば、その時には、イスラエルの王はバアルを礼拝し、国民はバアルが神であると言えばよいのである。PK 438.3
バアルの祭司たちは、人々をだましておくことに心を決めて、彼らの神々に犠牲を献げ、地に雨を降らせるように、夜も昼も彼らの神々に祈り続けた。祭司たちは高価な供え物を献げて、彼らの神々の怒りを和らげようとした。彼らは、もっと有益なことのために用いればよいと思われる熱心さと忍耐力をもって、異教の神々の祭壇のまわりを去ろうともせずに、真剣になって、雨を祈り求めた。のろわれた国土全体において夜ごとに、彼らの叫びと嘆願の声があがった。しかし、燃えるような昼間の太陽の光線をさえぎる雲は空に現れなかった。乾燥した地をうるおす雨も露もなかった。バアルの預言者たちがどんなことをしても、主の言葉は何の変わりもなく成就するのである。PK 438.4
1年が経過したが、雨は降らなかった。地は火で焼かれたように干からびた。焼けつく太陽の熱は、わずかに残った植物を枯らしてしまう。川の流れは乾き、羊の群れや家畜は、苦しんで鳴き声をあげながら、あちらこちらをさ迷い歩く。これまで青々と繁っていた野原が、焼けつく砂漠となり、不毛の荒野と化した。PK 438.5
偶像の礼拝に献げられた緑の木々は葉が落ちたただ、枯枝だけになってしまった林の木々に木陰はない。空気は乾燥して、窒息しそうである。砂塵の暴風は視界をさえぎり、息も止まりそうである。かり ては、繁栄した都市や村落が、悲しむべき場所になってしまった。飢えとかわきとが、人間と動物を苦しめ、恐ろしい勢いで、彼らの生命を奪っている。戦慄すべき飢饉が刻々と切迫している。PK 438.6
しかし、イスラエルは、こうした神の力の証拠を与えられたにもかかわらず悔い改めず神が彼らに学ばせようと望まれた教訓を学ばなかった。彼らは、自然を創造された神が自然の法則を支配なさること、また、彼らを祝福の器にすることも、あるいは破滅の器にすることもおできになることを悟らなかった。彼らは、高慢で、偽りの礼拝に心を奪われてしまい、神の大いなる手のもとでへりくだることを快しとしなかった。そして、彼らは彼らの災害の理由とすべき何か他の原因をさがし始めた。PK 439.1
イゼベルはかんばつが主の刑罰であることを全然認めようとしなかった。彼女は不屈の決意をもって、天の神に反抗し、ほとんどすべてのイスラエル国民と1つになって、エリヤが彼らのすべての災害の原因であると非難した。エリヤが彼らの礼拝を非難する証言をしたのではなかったか。もし彼を片づけることさえできれば、彼らの神々の怒りは静められて、災害は終わるのだとイゼベルは主張した。PK 439.2
アハブは王妃に迫られて、預言者のかくれがをくまなく捜索し始めた。彼は自分が憎み、また恐れている人間を捜索するために、方々の隣国に使者をつかわした。そして、彼は、捜索をできるだけ完ぺきなものにするために、これらの王国や国家から預言者の行方は不明であるという宣誓を要求した。しかし、捜索はむだであった。預言者は、王の敵意から安全に守られていた。王の罪が神の怒りを招き、地に神の告発が下ったのであった。PK 439.3
イゼベルはエリヤを捕らえようとする努力鉄敗したのを見て、イスラエルにおける主の預言者を全部殺して、復讐しようとした。誰1人生かしておいてはならなかった。灘したイゼベルは、多くの神のしもべたちを虐殺して、自分の目的を達成した。PK 439.4
しかし、全滅したわけではなかった。アハブの家司であったが神に忠実に仕えていたオバデヤは、自分の生命の危険もかえりみず、「100人の預言者を覇い出して50人ずつほら穴に隠し、パンと水をもって彼らを養った」(列王紀上18:4)。PK 439.5
飢饉の2年目が過ぎてもなお天は無情にも雨のしるしを見せなかった。かんばつと飢饉は、全国に悲惨な災いを及ぼし続けていた。父親も母親も、子供たちの苦しみを和らげることができず、彼らが死んでいくのをどうすることもできなかった。それでも背信したイスラエルは、神の前にへりくだることを拒み、彼らの上にこうした恐ろしい罰をくだした者に対して不平を言い続けた。彼らは、その苦難と悩みが、悔い改めの招きであり、彼らが天の神のゆるしの限界を越えて致命的1歩を踏み出すのを止める神の介入であることを認め得なかったようである。PK 439.6
イスラエルの背教は、飢饉の数多い恐怖のすべてよりも恐るべき害悪であった。神は、人々を欺瞞から解き放って、彼らの生命とすべてのものの与え主であられる神に対する責任が、彼らに負わせられていることを理解させようとなさった。神は、彼らが失った信仰を回復させようとしておられた。そして、彼らに大きな苦難を与えなければならなかったのである。PK 439.7
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか」。「あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。「あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」(エゼキエル18:23、31、32、33:11)。PK 439.8
神は、イスラエルに使命者たちを送って、彼らに神への忠誠に立ち返るように訴えられたのであった。もし彼らが、こうした訴えに心を留め、バアルから生きた神に立ち返ったならば、エリヤの刑罰に関する言葉は、語られなかったことであろう。PK 439.9
しかし、命から命に至らせるかおりであった警告が、 彼らにとって死から死に至らせるかおりとなってしまったのである。彼らは自尊心が傷つけられた。そして、彼らは使命者に対して怒りを抱き、今や、預言者エリヤを極度に憎むようになった。もし彼らがエリヤを捕らえることができさえすれば、彼らは喜んで彼をイゼベルに引き渡し、彼の声を沈黙させることによって、彼の言葉の成就を阻止することができるとでも思ったのである。彼らは、災害にもかかわらず、彼らの偶像礼拝を固守し続けた。こうして、彼らは天の刑罰を地にくだした罪を増し加えていた。PK 439.10
苦難のうちにあるイスラエルの救いの道は、ただ1つしかなかった。それは、彼らに全能の神の懲罰の手を伸べさせた罪を離れて、一心をもって主に立ち返ることであった。彼らには、次のような確証が与えられていた。「わたしが天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送るとき、わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす」(歴代志下7:13、14)。決定的改革が起こるまで、神が、雨や露をとどめて、彼らにお与えにならなかったのは、こうした祝福された結果をもたらすためであった。PK 440.1