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各時代の希望

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    第30章 12弟子の任命

    本章はマルコ3:13~19、ルカ6:12~16に基づくDA 815.2

    「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで12人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわ」すためであった(マルコ3:13、14)。DA 815.3

    使徒としての務めに12人が召され、山上の垂訓が与えられたのは、ガリラヤの海から少し離れた山の中腹の木蔭においてであった。野原や山は、イエスが好んで行かれた場所で、イエスの教えの多くは、宮や会堂の中よりもむしろ青空の下でなされた。イエスについてくる群衆を収容しきれる会堂はなかった。イエスが野や森で教える方がよいとお思いになった理由は、それだけではなかった。イエスは自然の景色がお好きだった。静かなひっこんだ場所は、みなイエスにとって聖なる宮であった。DA 815.4

    地上の最初の住民が彼らの聖所として選んだのはエデンの木の下であった。そこでキリストは、人類の父祖と交わられた。楽園から追放された時も、アダムとエバは、やはり野や森の中で礼拝し、キリストは、そこで、彼らに恵みの福音をもってお会いになった。マムレのかしの木の下で、アブラハムと語られたのは、キリストであった。キリストはまた、夕暮れに野で祈るために出てきたイサクと語り、ベテルの丘でヤコブと語り、ミデアンの山でモーセと語り、羊の群れの番をしていた少年ダビデと語られた。15世紀にわたって、ヘブル人が毎年1週間家を離れ、「美しい木……なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝」などの緑の小枝でつくられた仮小屋に住んだのは、キリストのさしずによってであった(レビ23:40)。DA 815.5

    弟子たちを訓練するにあたって、イエスは都会の混雑から離れて、ご自分が彼らに教えようと望んでおられる克己の教訓にもっとよく調和している静かな野と丘をお選びになった。DA 816.1

    またイエスは、その公生涯の間、青空の下のどこか草の茂った山腹や、湖の岸辺に人々を集めるのがお好きだった。ここでイエスは、ご自分の創造のみわざにかこまれて、聴衆の思いを人工的なものから自然界の事物へ向けるごとがおできになった。自然界の事物の成長と発展の中に、キリストのみ国の原則があらわされていた。人々が目をあげて神の山を見、神のみ手の不思議なみわざをながめる時に、彼らは、神の真理についてとうとい教訓を学ぶことができた。キリストの教えは、自然界の事物を通して、彼らにくりかえされるのであった。心の中にキリストを宿して野に行く人はみな、これと同じ経験をするのである。彼らは、自分たちが聖なる感化にかこまれているのを感ずる。自然界の事物は、われらの主の譬をとりあげ、また主の勧告をくりかえしている。自然界の中で神と交わることによって、人はその思いが高められ、心が休まるのである。DA 816.2

    キリストがこの世を去られた後に、地上におけるキリストの代表者となる教会を組織するのに、いまその第一歩がふみ出されるのであった。弟子たちはぜいたくな聖所を自由に使うことはできなかったが、救い主は、彼らをご自分の好きなかくれ場へつれて行かれたので、その日の経験は、彼らの心の中で山や谷や海の美しさと永遠にむすびついた。DA 816.3

    イエスは、弟子たちを証人としてつかわし、イエスについて見聞きしたことを世にのべつたえさせるために、彼らを召されたのであった。彼らの任務は、人類がこれまでに受けた任務の中で最も重要なものであって、ただキリストご自身の任務に次ぐものであった。彼らは、世の救いのために神と共に働く者となるのであった。旧約聖書の中で、12人の父祖たちがイスラエルの代表者どなっているように、12人の使徒たちは、福音を伝える教会の代表者となるのであった。DA 816.4

    救い主は、ご自分が選ばれた人々の性格をご存じだった。彼らの弱点やまちがいはみな、イエスにはっきりわかっていた。イエスは、彼らが経験しなければならない危険や、彼らの上に負わされる責任を知っておられた。だからイエスのお心は、この選ばれた人々の上にそそがれていた。ガリラヤの海に近い山の上で、イエスはただ1人、一晩中彼らのために祈られたのに、弟子たちは、山のふもとで眠っていた。夜明けの光がさしてくると、イエスは、彼らを呼んでこちらにくるようにと招かれた。彼らに伝えなければならない何か重大なことがあったからである。DA 816.5

    これらの弟子たちは、ある期間イエスといっしょに活動的な働きにたずさわった。ヨハネとヤコブ、アンデレとペテロは、ピリポ、ナタナエル、マタイといっしょに、ほかのだれよりも親しく、イエスと交わり、イエスの奇跡を、だれよりも多く見てきた。中でもペテロとヤコブとヨハネは、一層イエスと親しい関係にあった。彼らは、ほとんどたえまなくイエスといっしょにいて、その奇跡を見、そのみことばを聞いてきた。特にヨハネは、イエスと親しかったので、イエスから愛される者として目立っている。救い主は、彼らをみな愛されたが、ヨハネが最も感受性の強い心を持っていた。彼はほかの人たちよりも年が若く、ほかのだれよりも子供のようにつつみかくしのない信頼をもって、イエスに心を開いた。このようにヨハネは、イエスに対してだれよりも心をよせていたので、彼を通して、救い主の最も深い霊的な教えが、イエスの民に伝えられた。DA 816.6

    使徒たちが分けられているグループの一つの最初に、ピリポの名前がある。彼は、イエスが「わたしについてきなさい」とはっきり命令をお与えになった最初の弟子であった。ピリポは、アンデレとペテロの町であるベツサイダの出身だった。彼は、バプテスマのヨハネの教えを聞き、ヨハネがキリストを神の小羊として宣言するのを聞いた。ピリポは真理のまじめな探求者だったが、信じるのが遅かった。彼はキリストに連なる者になったけれども、彼がナタナエルにキリストのことを知らせたことばには、イエスの神性について完全な確信をもっていなかったことがあらわれている。キリストは、天からの声によって神のみ子 として宣言されたのであったが、ピリポにとっては、彼は「ヨセフの子、ナザレのイエス」であった(ヨハネ1:45)。また5000人に食物が与えられた時、ピリポの信仰の足りなさがあらわれた。イエスが、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」とおたずねになったのは、ピリポをためすためであった。ピリポの答えは不信に傾き、彼は、「200デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」と言った(ヨハネ6:5、7)。イエスは悲しまれた。ピリポは、イエスのみわざを見、イエスの力を感じていたにもかかわらず彼には信仰がなかった。ギリシャ人が、イエスについてピリポにたずねた時にも、彼は、救い主を彼らに紹介する機会ととらえずに、アンデレに行って告げた(ヨハネ12:20~22参照)。またキリストの十字架を前にした最後の時にも、ピリポのことばは、信仰をくじくようなことばであった。トマスがイエスに、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と言った時、救い主は「わたしは道であり、真理であり、命である。……もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう」とお答えになった。するとピリポの口から、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」との不信の答が出た(ヨハネ14:5~8)。3年間イエスといっしよにいたこの弟子は、このように心がにぶく、信仰が弱かった。DA 816.7

    ピリポの不信にくらべてよろこばしいのは、ナタナエルの子供のような信頼であった。彼は非常に熱心な性質の男で、目に見えない実体を信仰によってとらえていた。しかしピリポは、キリストの学校の生徒だったので、天来の教師イエスは、彼の不信と愚かさを忍耐強く忍ばれた。聖霊が弟子たちの上にそそがれた時、ピリポは、天の命令に従って教師となった。彼は、自分が何について語っているかを知っていて、確信をもって教えたので聴衆を心服させた。DA 817.1

    イエスが弟子たちを按手礼のために準備しておられた時、召されていないのに仲間に加わりたいと強要した者があった。それはイスカリオテのユダという男で、自らキリストの弟子と名乗っていた。いま彼はやってきて、弟子たちの仲間に入れてもらいたいとたのんだ。彼は非常な熱心さと、見たところ真実な様子で、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と断言した。イエスは彼をことわることも歓迎することもなさらず「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と悲しいことばを言われただけだった(マタイ8:19、20)。ユダは、イエスがメシヤであると信じた。そして使徒たちに加わることによって、新しい王国の高い地位を占めようと望んだ。イエス1は、ご自分の貧しさを語ることによって、この望みをた1ち切ろうと考えられた。DA 817.2

    弟子たちは、ぜひユダに仲間の1人になってもらいたいと望んだ。ユダは、堂々たる外見をそなえ、鋭い洞察力と実行力とを持った男だったので、弟子たちは、イエスの働きに大きな助けになる人物として、彼をイエスに推薦した。彼らは、イエスがこんなに冷淡にユダに応対されるのを見て驚いた。DA 817.3

    弟子たちは、イエスがイスラエルの指導者たちの協力を求めようとされないので、非常に失望していた。こうした有力な人たちの支持を得て、キリストの働きを強化しようとしないのはまちがっていると、彼らは思った。もしイエスがユダを拒絶されたら、弟子たちは、心の中で、主の知恵を疑ったことだろう。その後のユダの経歴は、神の働きに適する人物かどうかを決定するのに世俗的な考慮を重んじることが、危険であることを弟子たちに示すことになった。弟子たちが熱心に望んだような人々に協力してもらうことは、その働きを最悪の敵の手に売り渡すことになったであろう。DA 817.4

    しかしユダは、弟子となった時、キリストの品性の美しさに気がつかなかったわけではなかった。彼は、魂を救い主にひきよせている神の力の感化力を感じた。「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」ためにおいでになったイエスは、たった一つの思いでも光に向けられている間は、 この魂を拒絶しようとされなかった(マタイ12:20)。救い主はユダの心をお読みになり、ユダが神の恵みによって救われなければ不義の深みに沈んでしまうことをご存じだった。この男をご自分に結びつけることによって、イエスは、ご自身のわきあふれる無我の愛に日々ふれることのできるところに彼を置かれた。もしユダが心をキリストに向かって開くなら、神の恵みは利己主義という悪鬼を追い出し、たとえユダでも神のみ国の住民となるかもしれない。DA 817.5

    もし人々が訓練され、神について学ぶなら、神は彼らを人間的な要素のある品性のままに受け入れて、神のご用のために彼らを養成される。彼らは完全な人間だから選ばれるのではなくて、不完全な人間であるにもかかわらず、真理を知りこれを実行することにより、またキリストの恵みによって、神のみかたちに変えられる者となるために選ばれるのである。DA 818.1

    ユダは、ほかの弟子たちと同じように機会が与えられた。彼は、同じとうとい教訓を聞いた。しかしキリストが要求された真理の実行は、ユダの心の思いや目的とくいちがっていたので、彼は、神からの知恵をうけるために、自分の考えを放棄しようとしなかった。DA 818.2

    救い主は、ご自分を売り渡す者となるこの男を、どんなにやさしくとり扱われたことだろう。イエスは、ご自分の教えを通して、貧欲な心を根絶する慈善の原則についてこんこんとさとされた。イエスは、ユダの前に貧欲という憎むべき性格をお示しになった。この弟子は自分の性格が描写され、自分の罪が指摘されているのを幾度も認めたが、自分の不義を告白してこれを捨てようとしなかった。彼は自分に満足していたので、誘惑に抵抗しないで、その不正な行為をつづけた。キリストは、彼の目の前にあって生きた模範となり、もし彼が天来の仲保と奉仕による益を受けるなら、どんな者になり得るかをお示しになったが、どの教訓もどの教訓もユダは無関心に聞き流した。DA 818.3

    イエスは、ユダの貧欲を鋭いことばで譴責されないで、開かれた本を読むようにユダの心を読んでおられる証拠を示された時でも、天来の忍耐心をもって、このあやまちを犯している男を忍ばれた。イエスは、彼の前に正しい行為の最高の動機をお示しになった。ユダが天の神の光をしりぞけるなら、彼はもはや弁解の余地がないのである、DA 818.4

    ユダは、光の中を歩まないで、自分の欠点を持ちつづけることをえらんだ。悪い欲望、復讐の熱情、暗い不きげんな思いが宿り、ついにはサタンがこの男を全面的に支配した。ユダはキリストの敵の代表者となった。DA 818.5

    ユダがイエスと交わるようになった時、彼のうちには、教会にとって祝福となることができたかもしれないとうとい品性の特徴がいくつかあった。もし彼が喜んでキリストのくびきを負っていたら、使徒たちの中の主だった者となったかも知れなかった。だが彼は、自分の欠点が指摘されると、心をかたくなにし、高慢心と反抗心のままに、自分自身の利己的な野望を選び、神が彼にさせようと望まれた働きにふさわしくない者となった。DA 818.6

    イエスが弟子たちをご自分の奉仕に召されたとき、彼らは全部ひどい欠点を持っていた。柔和で心のへりくだったお方と最も親密に交わったヨハネでさえ、生れつき柔和で従順な人間ではなかった。彼とその兄弟は、「雷の子」と呼ばれた。彼らがイエスと一緒にいた時に、イエスに対してだれかが軽蔑でも示そうものなら、彼らは憤慨してけんか腰になるのだった。短気、復讐心、批判の精神といったものがすべてこの愛された弟子のうちにあった。彼は高慢で、神の国では第1位の者になりたいという野心をもっていた。しかし1日1日、自分自身の激しい気性と対照的に、彼は、イエスの柔和と寛容とを見、謙遜と忍耐についてイエスの教訓を聞いた彼は天来の感化に向かって心を開き、救い主のみことばをきく者となるばかりでなく、これを行う者となった。自我はキリストのうちにかくれた。彼はキリストのくびきを負い、キリストの重荷を負うことを学んだ。DA 818.7

    イエスは弟子たちをしかり、彼らに警告し、また注意された。しかしヨハネとその兄弟たちは、イエスから離れなかった。彼らは、しかられたにもかかわらずイエスをえらんだ。救い主は、彼らに欠点とまちがい があるからといって、彼らから離れるようなことをなさらなかった。彼らは、終わりまでイエスと試練を共にし、イエスの生活から教訓を学んだ。キリストを見ることによって、彼らの品性が一変した。DA 818.8

    使徒たちは習慣も気質もまったくちがっていた。取税人のレビ・マタイと、ローマの権威を徹底的に憎んでいた激しい熱心党のシモンがいたし、気前がよくて直情的なペテロと、卑劣な精神の持ち主ユダがいたし、まごころはあるが内気で心配性のトマスと、心の動きがにぶくて疑い深いピリポ、また野心的で率直なゼベダイの子たちがその兄弟たちとともにいた。この人たちは、いろいろな欠点と、みな先天的後天的な悪への傾向を持ったまま集められた。しかしキリストのうちにあって、またキリストを通して、彼らは、神の家族のうちに住み、信仰において、教理において、精神において一つとなることを学ぶのであった。彼らは、試練も、苦情も、意見の相違もあったが、しかしキリストが彼らの心に住んでおられるかぎり、不和があるはずはなかった。キリストの愛がお互いの愛となり、主の教訓がすべての不和を一致へみちびき、弟子たちは一体となって、ついには一つの心、一つの意見となるのであった。キリストが真の中心であり、彼らはその中心に近づくにしたがって、お互いに接近するのであった。DA 819.1

    イエスは、弟子たちへの教えを終えられた時、この小さな一団をまわりに集めて、その中心にひざまずき、ご自分の手を彼らの頭の上におき、彼らを聖なる働きにささげる祈りをささげられた。こうして、主の弟子たちは、福音の働きに任命された。DA 819.2

    人々の中にあってキリストを代表する者として、キリストは、全然堕落したことのない天使たちをお選びにならず、救おうとする相手の人間と同じ情を持った人間をお選びになる。キリストは、人性に触れるためにご自分も人性をおとりになった。神性は人性を必要とした。なぜなら、救いを世に伝えるためには、神と燗とが必要だったからである。人性が神と人との間の伝達のチャンネルとなるように、神性は人性を必要とした。キリストのしもべたちと使者たちも同様である。人は、自分のうちに神のみかたちを回復し、神の働きをなすことができるようになるためには、自分以外のそして自分以上の力が必要である。だからといって、人間の力が不要だということにはならない。人性は神の力をとらえ、信仰によって、キリストが心のうちにお住みになる。こうして神との協力によって、人の力は善をなすのに効果的となる。DA 819.3

    ガリラヤの漁師をお召しになったイエスは、いまもなお人々をご自分の奉仕に召しておられる。しかもイエスは、最初の弟子たちを通して力をあらわされたのと同じに、われわれを通してよろこんで力をあらわされる。われわれがどんなに不完全で罪深い者であろうと、主はわれわれに、キリストとの共同者、キリストに見習う者となるようにとの招きを提供しておられる。キリストと1つになって神のみわざに働くことができるように、神の教えを受けなさいと、主はわれわれを招いておられる。DA 819.4

    「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことがあらわれるためである」(Ⅱコリント4:7)。福音の宣伝が、天使にまかされないで、あやまちの多い人間にまかされた理由はここにある。人間の弱さを通して働く力は神の力であることが明らかである。こうしてわれわれは、われわれと同じように弱いほかの人を助けることのできる力が、われわれを助けることができるということを信じたくなる。自分自身「弱さを身に負うている」者は、「無知な迷っている人々を、思いやることができる」(ヘブル5:2)。自分自身が危険の中にあったために、彼らは道中の危険と困難をよく知っており、そのために彼らは、同じような危険のうちにあるほかの人々に手をさしのべるために召されているのである。疑いに悩み、弱さに苦しみ、信仰弱く、目に見えない神をとらえることのできない魂がいる。しかし彼らの目に見える友人がキリストの代りに彼らのところにやってきて、彼らのふるえている信仰をキリストに固くつなぐ環とすることができる。DA 819.5

    われわれは、キリストを世に紹介するのに、天使た ちと共に働く者となるのである。ほとんどじっとしていられないような熱心さで、天使たちは、われわれの協力を待っている。なぜなら人間が、人間と通信するチャンネルとならねばならないからである。だからわれわれが全心全霊をもってキリストに献身する時、天使たちは、神の愛をあらわすためにわれわれの声を通して語ることができるので喜ぶのである。DA 819.6

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