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各時代の希望

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    第50章 わなの間で

    本章はヨハネ7:16~36、40~53、8:1~11に基づくDA 908.1

    祭の時エルサレムにおられた間中、イエスは、スパイたちにっきまとわれた。来る日も来る日も、イエスを沈黙させるために新しい計略が試みられた。祭司たちと役人たちは、イエスをわなにかけようと見張っていた。彼らは、暴力によってイエスを阻止しようと、計画していた。しかもそれだけではなかった。彼らはこのガリラヤ人のラビを民衆の目の前でいやしめてやろうと思った。DA 908.2

    イエスが祭に姿を現わされた最初の日に、役人たちがみもとにやってきて、イエスは何の権威によって教えておられるのかと聞きただした。彼らは人々の注意をイエスからそらして、イエスが何の権威で教えておられるのかという問題に向け、そのことからさらに自分たちの貫録と権威に人々の注意を向けようと思ったのであった。DA 908.3

    「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」と、イエスは言われた(ヨハネ7:16、17)。あらさがしをするこの連中の質問に対して、イエスは、そのあらさがしに答えないで、魂の救いにとって大事な真理を示すことによって、これに応じられた。真理を感知し、認識することは、頭よりも心の問題であると、イエスは言われた。真理は魂に受け入れられねばならない。それは意思の服従を要求する。もし真理を理性だけで納得することができたら、それを受け入れるのに誇りは邪魔にならないであろう。しかし真理は、心のうちにおける恵みの働きを通して受け入れられるのである。そして、その受け入れは、神のみたまによって示される一切の罪を放棄することにかかっている。DA 908.4

    真理を受け入れるように心が開かれ、真理の原則に反する一切の習慣と行為を良心的にやめるのでなければ、人はどんなに真理の知識を得ることのできる恵まれた立場にあっても、それは何にも役にたたない。神のみこころを知り、これを行いたいというまじめな願いをもって神に屈服する人々に、真理は彼らを救う神の力として示される。こういう人々は、神のために語る人と、ただ自分の考えで語る人とを区別することができる。パリサイ人は、彼らの意思を神のみこころの側に置かなかった。彼らは真理を知ろうとつとめないで、これを言いのがれる何らかの口実をさがそうとしていた。だから彼らはキリストの教えがわからないのだと、キリストは示された。DA 908.5

    キリストはいま真の教師と欺瞞者とを区別する方法をお示しになった。「自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない」(ヨハネ7:18)。自分自身の栄誉を求める者は、自分の考えで語っているにすぎない。利己的な精神は、その根源を明らかにしている。しかしキリストは、神の栄えを求めておられた。イエスは神のみことばを語られた。このことが、真理の教師としてイエスの権威の証拠であった。DA 908.6

    イエスは、ラビたちの心を読まれたことを示すことによって、ご自分の神性の証拠を彼らに示されたべテスダでのいやしののち、彼らはずっと、イエスの死をたくらんできた。こうして彼らは、律法を擁護していると口では言いながら、老の律法を自ら破っていた。「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」とイエスは言われた(ヨハネ7:19)。DA 908.7

    このことばは、ラビたちがまさにとび込もうとしている破滅の穴を光のひらめきのように、彼らに示した。一瞬、彼らは恐怖に満たされた。彼らは、自分たちが限りない力の神と争っていることを知った。しかし彼らは、警告を受け入れようとしなかった。民衆に対 する勢力を維持するために、彼らは殺害計画をかくしておかねばならない。イエスの質問をそらして、彼らは、「あなたは悪霊に取りつかれている、だれがあなたを殺そうと思っているものか」と叫んだ(ヨハネ7:20)。彼らは、イエスのふしぎなわざは、悪霊にそそのかされたものだとほのめかした。DA 908.8

    このほのめかしに、キリストは注意を払われなかった。イエスはつづいて、ベテスダでのいやしの働きが安息日の律法と一致していること、またユダヤ人自身の律法の解釈によって正当なものであることを示された。「モーセはあなたがたに割礼を命じたので、……あなたがたは安息日にも人に割礼を施している」と、イエスは言われた(ヨハネ7:22)。律法によれば、どの子も8日目に割礼を受けさせねばならない。もしその定められた日が安息日にあたっても、この儀式を行わねばならない。ましてや「安息日に人の全身を丈夫にしてや」ることは律法の精神に一致していなければならない(ヨハネ7:23)。そこでイエスは、「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」と彼らを戒められた(ヨハネ7:24)。DA 909.1

    役人たちは沈黙させられた。すると多くの人々は、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか」と叫んだ(ヨハネ7:25、26)。DA 909.2

    エルサレムに住んでいて、キリストに対する役人たちの陰謀を知らないことはなかった聴衆の中には、抵抗できない力によってキリストにひきつけられている者が多かった。彼らは、イエスが神のみ子であるという確信を強く感じさせられた。だがサタンはすぐに疑いを起こそうとするのであった。メシヤとその来臨について、彼ら自身のまちがった考え方によって、疑いへの道が備えられていた。キリストはベツレヘムにお生まれになるが、しばらくするとその姿が見えなくなり、2度目に姿を現わされた時には、だれも彼がどこからこられたかを知らないと一般に信じられていた。メシヤは人間から生まれるのではないと主張する人たちが少なくなかった。またメシヤの栄光についての民衆の観念がナザレのイエスにあてはまらなかったので、多くの者は、「わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている。しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない」との暗示に注意を払った(ヨハネ7:27)。DA 909.3

    このように彼らが疑いと信仰の間を動揺していると、イエスは、彼らの思いを取りあげて、こうお答えになった、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない」(ヨハネ7:28)。彼らは、キリストの生まれがどうあるべきかについて知っていると主張したが、しかしそのことについてまったく無知であった。もし彼らが神のみこころに一致した生活をしていたら、彼らは、神のみ子が彼らにあらわされた時にみ子を知ったであろう。DA 909.4

    聴衆は、キリストのみことばを理解しないではいられなかった。それは明らかに何か月も前にイエスがサンヒドリンの議員達の前でご自分を神のみ子と宣言された時の主張のくりかえしであった。役人たちは、その時イエスの死をたくらんだように、いままたイエスを捕らえようとした。しかし彼らは目に見えない力にさまたげられた。その力は彼らの怒りを制限して、「ここまで来てもよい、越えてはならぬ」と彼らに言った(ヨブ38:11)。DA 909.5

    民衆の中にはイエスを信ずる者が多くいて、彼らは、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言った(ヨハネ7:31)。パリサイ人の指導者たちは、事の成り行きを心配して見守っていたが、群衆の中に共鳴の表情を見てとった。彼らは急いで祭司長たちのところへ行って、イエスを捕らえる計画をたてた。しかし彼らは、イエスが1人でおられる時に捕らえるように手はずをきめた。なぜなら人々の目の前でイエスを捕らえる勇気がなかったからである。ふたたびイエスは、彼らの意図を見抜いておられることを明らかにされた。「今しばらく の間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」とイエスは言われた(ヨハネ7:33、34)。DA 909.6

    まもなくイエスは、彼らのあざけりと憎しみのとどかないところへ避難されるであろう。彼は天父のみもとにのぼって、ふたたび天使たちにあがめられるお方となられるであろう。そこへはキリストの殺害者たちは決して行くことができないのである。DA 910.1

    ラビたちは冷笑して言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシャ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシャ人を教えようというのだろうか」(ヨハネ7:35)。このあらさがしをする連中は、自分たちの嘲笑のことばの中にキリストの使命が表現されていようとは夢にも思わなかった。服従せずに反抗する民に、イエスは、終日その手をさしのべておられた。しかしイエスは、彼を求めない者たちに見いだされ、彼をたずねない者に、ご自分を現わされるのであった(ローマ10:20、21参考)。DA 910.2

    イエスが神のみ子であることを確信した多くの者たちが、祭司たちとラビたちの偽りの議論でまちがった方向へ導かれた。これらの教師たちは、メシヤに関する預言、すなわちメシヤは、「シオンの山およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前にその栄光をあらわされる」また「海から海まで治め、川から地のはてまで治める」という預言をくりかえして、大きな影響を与えていた(イザヤ24:23、詩篇72:8)。そして彼らは、ここにえがかれている栄光と、イエスのみすぼらしい外観とを軽蔑的に比較した。預言のことばそのものが、まちがいを是認するように悪用された。もし人々が自分で正直にみことばを研究していたら、彼らはまちがった方向へ導かれなかったのである。イザヤ61章には、キリストが実際にされたような働きをされるということが証明されている。53章には、この世においてキリストがこばまれ、苦難を受けられることが示されており、59章には祭司たちとラビたちの性格がえがかれている。DA 910.3

    神は人々が不信を捨てるように強制されない、彼らの前には光と闇、真理と誤謬がある。どちらを受け入れるかを決定するのは彼ら自身である。人間の心には善と悪とを区別する能力がさずけられている。神は、人々が衝動的に決定しないで、聖句と聖句をくらべ、重要な証拠によって決定するように計画しておられる。もしユダヤ人が偏見を捨てて、書かれている預言をイエスの生活の特徴となっている事実とくらべてみたら、彼らは預言とこのいやしいガリラヤ人の生活と奉仕におけるその成就との間に美しい調和を認めたであろう。DA 910.4

    今日も多くの者が、昔のユダヤ人と同じようにだまされている。宗教教師たちは、彼ら自身の理解と言い伝えの光に照して聖書を読み、人々は、自分で聖書をさぐって真理が何であるかを自分で判断しようとしない。彼らは、自分の判断を放棄して、自分の魂を指導者たちにまかせる。神のみことばを説き、これを教えることは光をゆきわたらせるために神がお定めになった方法の一つである。しかしわれわれは、どんな人の教えも聖書に照して調べてみなければならない。真理を知ってこれに従いたいとの望みをもって聖書を祈りのうちに研究する者はだれでも、神からの光を受ける。彼は聖書を理解する。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が……わかるであろう」(ヨハネ7:17)。DA 910.5

    祭の最後の日に、祭司たちと役人たちからつかわされた下役どもは、イエスを捕らえないで帰ってきた。彼らは「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」と腹立たしげに問われた。すると彼らは、厳粛な顔をして、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」と答えた(ヨハネ7:45、46)。DA 910.6

    彼らの心はかたくなだったが、イエスのみことばによってやわらげられたのであった。イエスが宮の庭で話しておられる間、彼らはそばをうろついていて、何かイエスに反対するきっかけをつかもうと待ってい た。しかし聞いているうちに、彼らは自分たちがつかわされた目的を忘れた。彼らはわれを忘れた人間のように立っていた。キリストは、彼らの魂にご自分をお示しになった。彼らは祭司たちと役人たちが見ようとしないもの——神性の栄光にあふれている人性を見た。彼らはこの思いに満たされ、イエスのみことばに感動して帰ってきたので、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」という質問に対して、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」と答えることしかできなかった。DA 910.7

    祭司たちと役人たちも、初めてイエスの前に出た時、同じように確信したのだった。彼らの心は深く感動し、この人の語るように語った者はこれまでになかったとの思いに迫られた。しかし彼らは、聖霊による確信をおし殺した。いま、彼らは、律法を執行する立場にある者までが、あの憎むべきガリラヤ人の影響を受けたことを怒って、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」と叫んだ(ヨハネ7:47~49)。DA 911.1

    真理のことばが語られると、人々はめったに、「それは本当だろうか」とたずねないで「それはだれから支持されているだろうか」とたずねる。大衆は、それを受け入れる人の数で評価する。「学者や宗教界の指導者たちの中には信じている者があるだろうか」という質問がいまでもきかれる。キリストの時代と同じように、今日も人々は真の信心に対して好意を示さない。彼らはあいかわらず永遠の富をなおざりにして、地上の幸福を熱心に求めている。多数の人たちがそれを受け入れようとしないとか、世のえらい人たちや宗教界の指導者たちさえそれを受け入れないということは、真理に反対する論拠とはならない。DA 911.2

    ふたたび祭司たちと役人たちはイエスを捕らえる計画をたて始めた。もし彼をこれ以上自由にしておいたら、彼は民衆をこれまで認められていた指導者たちから引き離すであろう。したがってただ一つの安全な道は、ただちに彼を沈黙させることであると彼らは主張した。議論が最高潮に達した時、彼らは突然さまたげられた。ニコデモが、「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」と質問したのである(ヨハネ7:51)。会議は沈黙に陥った。ニコデモのことばが彼らの良心を打ったのである。弁明をゆるさないで人を罪に定めることはできなかった。高慢な役人たちがだまりこんだまま、あえて正義のために口を開いたニコデモをみつめたのはそうした理由からばかりではなかった。彼らは自分たちの仲間の1人がイエスをかばうためにことばを出すほどその品性に深い印象を受けていることに驚き、そしてくやしがった。驚きからわれに返ると、彼らは、ニコデモに鋭い皮肉を浴びせて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」(ヨハネ7:52)。DA 911.3

    だがこの抗議の結果、会議の進行はとまってしまった。役人たちは、彼らの意図を実行して、聴聞なしにイエスを罪に定めることができなかった。一時は敗北して、「人々はおのおの家に帰って行った。イエスはオリブ山に行かれた」(ヨハネ7:53、8:1)。DA 911.4

    都の騒ぎと混乱を離れ、熱心な群衆と不信実なラビたちからのがれて、イエスは静かなオリブ山へ向かわれた。イエスはそこで神とただ1人になることがおできになった。しかし朝早く、イエスは宮に引き返し、人々がまわりに集まると、腰をおろして彼らにお教えになった。DA 911.5

    イエスの話はすぐにさまたげられた。パリサイ人と律法学者の1群が、恐怖におびえた女をひっぱってイエスに近づき、はげしく熱心な声で、この女が第7条の戒めを犯したことを責めた。彼らは、女をイエスの前におしやると、イエスに向かって偽善的な敬意を示しながら、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と言った(ヨハネ8:5)。DA 911.6

    彼らの敬虔のよそおいの下には、イエスの破滅をたくらむ深い陰謀がかくされていた。彼らは、イエスが どんな決定をくだされるにせよ、彼を非難するチャンスをみつけることができると考え、イエスを罪に定めるのにこの機会をとらえたのであった。もしイエスがこの女を無罪とされたら、モーセの律法を軽んじているという非難を受けられるだろう。もしこの女が死に値すると宣告されたら、イエスは、ローマ人にのみ属している権威を自分がとられたといってローマ人に対して訴えられるであろう。DA 911.7

    イエスはしばらくその光景——恥ずかしさにうちふるえている被害者と人間的な憐れみの情さえないこわい顔つきをした高官たちとをながめておられた。けがれのないイエスの純潔な心はその光景にすくんだ。この問題がどんな目的で自分のところへ持ち込まれたかを、イエスはよくご存知だった。イエスはみ前にいる一人一人の心を読み、その品性と経歴を知っておられた。正義の擁護者を気取っているこれらの人たちは、イエスをわなにかけるために自分たちでこの被害者を罪におとし入れたのだった。イエスは、彼らの質問を聞いた様子をなさらずに、かがみこんで、目をじっと地面にそそぎ、土の上に何か書き始められた。DA 912.1

    イエスがぐずぐずして無関心な様子をしておられるのにがまんができなくなって、非難者たちは、そばへ近より、この問題にイエスの注意を促した。だが彼らの視線が、イエスの目の方向にそって、その足下の地面に落ちると、彼らの顔色が変った。そこには、彼らの目の前に、彼ら自身の生活の罪の秘密が書かれていた。見物していた人々は、彼らの表情が急にかわったのを見て、いったい彼らが何を見てそんなに驚き恥じているのかを知ろうと進みよった。DA 912.2

    このラビたちは、口では律法を敬うと言っているにもかかわらずこの女を告発するのに律法の条項を無視していた。彼女を告発するのは夫の義務であって、不義の当事者たちは同等に罰を受けるのであった。この告発者たちの処置はまったく権限のないものであった。しかしイエスは、彼らの立場でこれに応じられた。罰として石で打つ場合には、その証人が最初に石を投げねばならないことが律法に明示されていた。そこで、イエスは立ちあがって、陰謀をたくらんでいる長老たちに目をそそぎ、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた(ヨハネ8:7)。そしてまた身をかがめて、地面にものを書きつづけられた。DA 912.3

    イエスは、モーセを通して与えられた律法を無視することも、またローマの権威を侵害することもされなかった。告発者たちは敗北した。いま聖潔をよそおった彼らの衣は引きはがされ、彼らは限りない純潔そのものであられるお方の前に、不義と罪に定められて立っていた。彼らは自分たちの生活のかくれた不義が群衆の前にさらけ出されはしないかとふるえあがった。そして1人ずつ、頭をたれ、目を伏せて、被害者を同情深い救い主といっしょに残したまま、こそこそと立ち去った。DA 912.4

    イエスは、立ちあがって、女の方を見て言われた、「『女よ、みんなはどこにいるか、あなたを罰する者はなかったのか』。女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」(ヨハネ8:10、11)。DA 912.5

    女は、恐怖にふるえながらイエスの前に立っていた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われたイエスのことばは、彼女には死刑の宣告のように聞こえた。彼女は目をあげて救い主の顔を見る勇気もなく、だまって自分の運命を待った。彼女は告発者たちが一言もいわずあわてて立ち去るのを見で驚いた。すると「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」との望みのことばが彼女の耳にとびこんできた(ヨハネ8:11)。女の心はやわらいだ。彼女はイエスの足下に身を投げ、感謝に満ちた愛のあまり、すすり泣きながら、にがい涙とともに自分の罪を告白した。DA 912.6

    これは彼女にとって新しい生活、すなわち神の奉仕にささげられる純潔で平和な生活の始まりであった。この堕落した魂を立ち直らせることによって、イエスは、最も苦しい肉体の病気をいやすよりももっと 大きな奇跡を行われた。イエスは、永遠の死にいたる心の病気をなおされたのである。悔い改めたこの女は、キリストの最も忠実な信者の1人となった。自己犠牲的な愛と奉仕をもって、彼女は自分をゆるしてくださったイエスの憐れみに報いた。DA 912.7

    この女をゆるし、もっとよい生活をするように励ましておやりになったイエスの行為を通して、イエスのご品性は完全な義の美しさに輝いている。イエスは、罪を軽く見たり、不義の意識を弱めたりはされないが、罪に定めようとしないで、救おうとされる。世の人たちは、過失を犯しているこの女を軽蔑し嘲笑することしかしなかった。だがイエスは、慰めと望みのことばを語られる。罪のないお方は、罪人の弱さを憐れみ、彼女に助けの手をさしのべられる。偽善的なパリサイ人は攻撃するが、イエスは、彼女に「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と命じられる(ヨハネ8:11)。DA 913.1

    過失を犯している者たちに目をそむけ、彼らが堕落の道を進むのをとめもしないで放っておくのは、キリストの弟子ではない。自分が先頭に立ってほかの人たちを非難し、律法に照らして彼らを処断するのに熱心な人々が、自分自身の生活においては相手よりももっと罪深い場合がしばしばある。人間は罪人を憎みながら、一方では罪を愛する。キリストは罪を憎まれるが、罪人を愛される。これがキリストに従うすべての者の精神である。クリスチャンの愛はいつも、人を非難するのに遅く、悔い改めをみとめるのに早く、人をゆるし、励まし、さまよっている者を聖潔の道に歩ませ、彼の足をそこにしっかりとどめるようにするのである。DA 913.2

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