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各時代の希望

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    第9章 戦いの日々

    ユダヤ人の子供は幼い時からラビの要求にとりかこまれていた。生活のこまかい点まで、一つひとつの行為が厳格な規則によって規定されていた。青少年たちは、会堂の教師たちの下で、伝統的なイスラエル人として当然守るものとされている数え切れないほどの規則によって教育を受けた。しかしイエスはそうした事がらに関係されなかった。イエスは、子供の時からラビの律法にとらわれないで行動された。イエスはいつも旧約聖書を研究され、「主はこう言われる」ということばがいつも彼の口からきかれた。DA 705.1

    イスラエルの民の状態がイエスの心にわかり始めると、彼は社会の要求と神のご要求とがたえずぶつかり合っているのをごらんになった。人々はだんだん神のみことばから離れ、自分自身が考え出した説を重んじていた。彼らは何の効力もない伝統的な儀式を守っていた。彼らの奉仕は儀式のくりかえしにすぎなかった。その奉仕を通して教えられるはずの聖なる真理は礼拝者たちにかくされていた。イエスは、彼らが、信仰を伴わない奉仕に平安を見いだしていないのをごらんになった。彼らは、まことをもって神に仕える時に与えられる精神の自由を知らなかった。イエスは神の礼拝についてその意味を教えるためにおいでになっていたので、神の戒めに人間の規則をまぜることを是認なさることができなかった。イエスは学聞のある教師たちの教えや行為を攻撃されなかったが、ご自身の簡素な習慣を非難されると、神のみことばを示してご自分の行為の正しいことを証明された。DA 705.2

    イエスは、いつもやさしくおとなしい態度で、ご自分の接触される人々を喜ばせようとされた。イエスが非常にやさしく慎み深かったので、律法学者たちや長老たちは、イエスが彼らの教えにたやすく感化されるだろうと思った。彼らは古代のラビから伝えられてきた格言や言い伝えをイエスが受け入れられるようにすすめたが、イエスはそうしたものの権威が聖書にもとついているかどうかをおたずねになった。イエスは神のみ口から出ていることばならどんなことでも聞き従われたが、人間が考え出したものに従うことはおできにならなかった。イエスは聖書を初めから終りまで知っておられたようで、その真の意味を彼らにお示しになった。ラビたちは子供から教えられることを恥じた。彼らは、聖書を説明するのは自分たちの役目で、イエスの立場は彼らの解釈を受け入れることにあるのだと主張した。彼らはイエスが自分たちのことばに反対の立場をとられることを怒った。DA 705.3

    彼らは、自分たちの言い伝えに聖書上の権威がないことを知っていた。彼らは、イエスが霊的な理解力において、自分たちよりもはるかに進んでおられることをみとめた。だが彼らは、イエスが彼らの命令に従われないので怒った。イエスを説き伏せることができないので、彼らはヨセフとマリヤに会って、イエスの不服従の態度を並べたてた。こうしてイエスは、非難ととがめを受けられた。DA 705.4

    ごく幼い時から、イエスはご自分から品性を築き始められ、両親への尊敬と愛もイエスを神のみことばに従うことから離れさせることができなかった。家庭の習慣とちがった行為をなさるたびに、その理由は「聖書にこう書いてある」ということであった。しかしラビたちの圧力はイエスの一生を苦しいものにした。少年時代においてさえ彼は沈黙としんぼうつよい忍耐について教訓を学ばれねばならなかった。DA 705.5

    ヨセフの息子たちはイエスの兄弟と呼ばれていたが、彼らはラビたちの味方であった。彼らは、言い伝えがあたかも神の規則でもあるかのように、これに注意すべきであると言い張った。彼らはまた人の教えを神のみことばよりも尊いものにみなすことさえし、イエスが虚偽と真実との区別をはっきりと見とおされるのにいらだった。彼らは、イエスが神の律法に厳格に従われるのを頑固(がんこ)だと言って非難した。彼らはイエスがラビたちに答えておられる時に示された知識と知恵に驚いた。彼らはイエスが博士たちから教育を受けられたことがないことを知っていた。そ れなのに、かえってイエスが博士たちを教えておられるのに気づかないわけにゆかなかった。DA 705.6

    彼らはイエスの教育が彼ら自身の教育よりも程度の高い型のものであることをみとめた。しかし彼らはイエスがいのちの木、すなわち彼らの知らない知識のみなもとに近づいておられることを認識しなかった。DA 706.1

    キリストは排他的でなかったので、この点において、キリストがパリサイ人の厳格な規則からはずれておられることが、特にパリサイ人たちを不快にしていた。イエスは、宗教の領域が日常生活にとってはあまりに神聖すぎるものとして隔離の高い壁にかこまれているのをごらんになった。この仕切りの壁をイエスはうちこわされた。人々と接触して、イエスは、あなたの信条は何ですか、あなたはどの教会に属していますかなどとおたずねにならなかった。彼はだれでも助けの必要な者のために助けの力をお用いになった。イエスはご自分の天来の品性を示すために世捨て人の小屋にこもるようなことをなさらず、熱心に人類のために働かれた。聖書の宗教は肉体の苦行にあるのではないという原則を、イエスはこんこんとお教えになった。イエスは、純潔でけがれのない宗教は一定の時間や特別な場合にだけ限られるものではないことをお教えになった。いつでもどんな場所でも、彼は人々へのやさしい関心をあらわし、まわりに快活な信仰の光を放たれた。こうしたことがすべてパリサイ人たちにとっては譴責(けんせき)であった。それは宗教が利己主義にあるものではないことと、彼らが自分自身の利益に病的なまでに熱中していることは真の信心に全く相反するものであることとを示した。このことがイエスに対する彼らの敵意をひき起こしたので、彼らはイエスを強制的に自分たちの規則に従わせようと試みた。DA 706.2

    イエスは苦しんでいる人々をごらんになるたびに彼らを救うために働かれた。イエスはお与えになるお金はほとんどなかったが、ご自分よりも困っているようにみえる人々を救うためにたびたびご自分の食事をぬかれた。イエスの兄弟たちはイエスの感化力が自分たちの勢力のさまたげとなっていると思った。イエスは人の気持を察する能力をもっておられたがそれは彼らのうちのだれも持っていないし、また持とうとも思わないものだった。DA 706.3

    彼らがあわれな堕落した人々に荒々しいことばを投げかけると、イエスはその人たちのそばに行って励ましのことばを語られた。イエスは困っている人々に1杯の冷たい水を与え、ご自分の食物を静かに彼らの手におかれるのだった。イエスが彼らの苦しみをやわらげておやりになると、イエスのお教えになった真理はその情け深い行為とむすびつき、人々の記憶にきざみこまれた。DA 706.4

    こういうことがすべてイエスの兄弟たちを不快にした。彼らはイエスよりも年上だったので、イエスが彼らのさしずに従うべきだと考えた。彼らはイエスが彼らに対して優越感を持っておられると言って非難し、また民の教師たち、祭司たち、役人たちよりもお高いといって責めた。たびたび彼らはイエスをおどし、脅迫しようとした。だがイエスは聖書を道案内として進んで行かれた。DA 706.5

    イエスはご自分の兄弟たちを愛し、いつも変らない親切な態度をとられたが、彼らはイエスをねたみ、はっきりした不信と軽蔑とを示した。彼らはイエスの行為を理解することができなかった。イエスのうちには全然正反対なものがみえた。イエスは神のみ子であったが同時にまた無力な子供であった。イエスはもろもろの世界の創造者であられたから、地はイエスの所有であった。それなのにイエスの一生の生活にはその1歩1歩に貧困がついてまわった。イエスは世の誇りや高慢とはまらたく異なった威厳と個性とを備えておられた。イエスは世俗的な偉大さを求めようとされず、どんな低い身分にも満足しておられた。このことがイエスの兄弟たちを怒らせた。彼らはイエスが試練と欠乏の中にあっていつも平静にしておられることについて説明ができなかった。われわれが「彼の貧しさによって富む者となるため」に、イエスはわれわれのために貧しくなられたことを彼らは知らなかった(Ⅱコリント8:9)。ヨブの友人たちがヨブの屈辱と苦難とを理解できなかったように、彼 らはキリストの使命の奥義を理解できなかった。DA 706.6

    イエスは兄弟たちのようではなかったので、彼らから誤解された。イエスの標準は彼らの標準ではなかった。人を見ているうちに彼らは神から離れてしまい、その生活のうちに神の力がなかった。彼らが守っていた宗教の形式は品性を変えることができなかった。彼らは、「はっか、いのんど、クミンなどの薬味の10分の1を宮に納め」たが、「律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のが」した(マタイ23:23)。イエスの模範はいつも彼らをいらだたせた。イエスが憎まれたものがこの世にただ一つあった。それは罪だった。イエスはまちがった行為を見るとかならず苦痛を感じられ、それをかくすことがおできにならなかった。見せかけの聖潔によって罪への愛着をおおいかくしている形式主義者たちと、神の栄光をあらわそうとする熱意がいつも心の最高位を占めている人物との間にはまちがう余地がないまでにはっきりした相違があった。イエスの生活が悪を責めたので、彼は家の中でも外でも反対された。イエスの無我と誠実な心は嘲笑(ちょうしょう)的に批評された。イエスの寛容と親切とは臆病(おくびょう)呼ばわりされた。DA 707.1

    人の運命にふりかかる苦しみの中で、キリストの味わわれなかったものは一つもない。イエスの生れについて彼を軽蔑しようとする人々がいたので、イエスは子供の時でさえもそうした人々のあざけりの目つきや悪口のささやきに会われねばならなかった。もしイエスが彼らに気短なことばや顔つきで応じたり、あるいは兄弟たちに負けて、たった一つの悪い行為でもされたら、彼は完全な模範ではなくなったであろう。そうしたらイエスはわれわれのあがないのための計画を実行することがおできにならなかったであろう。イエスが罪について言いわけができることを認められただけでも、サタンは勝利し、この世界は失われたであろう。誘惑者サタンがイエスに罪を犯させるよりに、その生活をできるだけつらいものにしようとして働いたのはこのためである。DA 707.2

    だがイエスはどんな試みにも、「聖書にはこう書かれている」という一つの答で応じられた。イエスはご自分の兄弟たちの悪い行為を責めるようなことはめったになさらず、神のみことばを彼らにお語りになった。兄弟たちが何か禁じられた行為をする時、イエスがその仲間にはいるのを拒絶されると、彼らはよくイエスを臆病者だといって責めた。しかしイエスは、「主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである」としるされているとお答えになった(ヨブ28:28)。DA 707.3

    イエスの前にいることに平安を感じて、イエスとの交わりを求める者もあったが、多くの者は、イエスのけがれのない生活に責められるので、彼を避けた。若い友だちはイエスに自分たちと同じことをするようにすすめた。イエスは明るく快活なお方だった。彼らはイエスといっしょにいることを喜び、イエスの即座の思いつきを歓迎した。だが彼らはイエスの用心深さにがまんがならず、彼を狭量で固苦しい人間だと言明した。イエスは、「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。……わたしはあなたに向かって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました」としるされているとお答えになった(詩篇119:9、11)。DA 707.4

    イエスはよく、「なぜあなたはそんなに変っていて、われわれみんなと違っていようと心にきめているのですか」とたずねられた。するとイエスは、「おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。主のもろもろのあかしを守り心をつくして主を尋ね求め、また悪を行わず、主の道に歩む者はさいわいです」と書かれていると言われた(詩篇119:1~3)。DA 707.5

    イエスはなぜナザレの若者たちといっしょにばかさわぎをしないのかとたずねられると、「わたしは、もろもろのたからを喜ぶように、あなたのあかしの道を喜びます。わたしは、あなたのさとしを思い、あなたの道に目をとめます。わたしはあなたの定めを喜び、あなたのみことばを忘れません」と書かれていると言われた(詩篇119:14~16)。DA 707.6

    イエスはご自分の権利を主張されなかった。イエ スは不平を言わずに喜んでなさるので、不必要なまでに過重な働きをさせられることがよくあった。しかしイエスは弱ったり、落胆したりなさらなかった。DA 707.7

    彼はこうした困難に超然として、神のみ顔の光のうちにあるかのように生活された。イエスは荒々しいとり扱いを受けても仕返しをされずじっと侮辱に耐えられた。DA 708.1

    イエスは、どうして自分の兄弟たちからさえこんな意地の悪い仕打ちをされるのですかと何べんもたずねられた。するとイエスは、「わが子よ、わたしの教えを忘れずわたしの戒めを心にとめよ。そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。いつくしみと、まこととを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る」と書かれていると言われた(箴言3:1~4)。DA 708.2

    両親がイエスを宮の中でみつけた時から、イエスの行動は彼らにとって一つの神秘であった。イエスは論争しようとなさらずその模範がたえず教訓となった。イエスは他の人とは違っているようであった。イエスの幸福な時間は自然とともに、また神とともにただ1人おられる時であった。そういう特権が与えられる時にはいつでも、イエスは働きの場所から退いて野原にはいって行かれ、緑の谷間で瞑想したり、山腹や森の木蔭で神と交わられた。朝早く、どこか人里離れた静かな場所で、瞑想するか、聖書を調べるか、祈っておられるかするイエスのお姿がよくみられた。こうした静かな時間からイエスは家へもどって、なすべき仕事をふたたびとりあげ、忍耐強い骨折り仕事の模範を示された。DA 708.3

    キリストの一生には母への尊敬と愛情とが目立っていた。マリヤは、心の中では自分の生んだ聖なるみ子が長年約束されていたメシヤであることを信じていたが、その信仰をあえて表明しようとはしなかった。イエスの地上生涯の間じゅう、彼女はイエスと苦難を共にした。彼女はイエスが子供時代と青年時代に受けられた試練を、心を痛めながら目撃した。イエスの行為について、正しいとわかっていることを弁護したために彼女自身もつらい、立場に立たされた。彼女は、家庭内の交わりと子供たちに対する母親のやさしい見守りこそ品性の形成にきわめて重要なものであると考えた。ヨセフの息子と娘たちはそのことを知っていたので、母親の心配に訴えることによって、イエスの行為を自分たちの標準に従って改めようと試みた。DA 708.4

    マリヤはたびたびイエスに忠告して、ラビの慣習に従うようにすすめた。だがどんなにイエスを説得しても、神のみわざについて瞑想することと、人間の苦しみやもの言わぬ動物の苦しみさえやわらげようとなさるイエスの習慣とを変えることはできなかった。祭司たちと教師たちがイエスを制御することにマリヤの協力を求めると、彼女はひどく当惑した。しかしイエスがご自分の行為を正当づける聖書のことばをお示しになると、彼女は心に平安が与えられた。DA 708.5

    イエスの兄弟たちはイエスが神からつかわされたお方であると信じなかったので、マリヤは時々イエスと兄弟たちの間にあって迷うことがあった。しかしイエスが神のみ子であるという証拠は十分にあった彼女はイエスが他人の幸福のためにご自分を犠牲になさるのを見た。イエスがいらっしゃると家庭の中には一椴ときよい雰囲気(ふんいき)が生じ、イエスの生活は社会の各階級に働くパン種のようであった。イエスは、何の害もけがれも受けないで、無思慮な人々や粗暴な人々や礼儀知らずな人々の中に、また不正な税吏たちやでたらめな放蕩(ほうとう)者たちや不義なサマリヤ人たちや異教の兵士たちや荒くれた農夫たちやその他のいろいろな人間の混じった群衆の中に生活された。疲れはててもなお重荷を負わねばならない人々をごらんになるたびに、イエスは同情のことばをここで一言あちらで一言とお語りになった。イエスは彼らの重荷を共に負い、神の愛と憐れみと恵みについて自然から学ばれた教訓を彼らにくりかえされた。DA 708.6

    イエスは、すべての人が自分にはとうといタラントが与えられていると考えるように、そしてそのタラントを正しく用いるならば永遠の富が得られるのだとい うことをお教えになった。彼は生活からすべての虚栄をとり除き、ご自身の模範によって、一刻一刻が永遠の結果を伴っていること、したがってその一刻一刻は宝として大切にし、聖なる目的のために用いなければならないことをお教えになった。イエスはどんな人間も無価値な者としてみすごすようなことをなさらず1人ひとりに救いの療法を試みられた。どんな種類の人々の中におられても、イエスはその時と事情にふさわしい教訓をお与えになった。どんなに乱暴な、見込みのない人でも、責むべき点もなければ、害を与えることもない者となり、神の子たることをはっきりあらわすような品性の持ち主になることができるという保証を示すことによって、イエスは彼らのうちに望みを起こそうとされた。イエスは、サタンの支配下におし流されて、そのわなを破る力のない人たちをしばしばごらんになった。落胆したり、病気だったり、試みられたり、堕落したりなどしているこれらの人々に、イエスは最も憐れみ深いことば——彼らが必要とし、理解のできることばをお語りになるのだった。イエスはまた魂の敵とはげしい戦いをたたかっている者にも出会われた。これらの人々をイエスは耐え忍ぶように励まし、神の天使たちが彼らの側についていて勝利を与えてくれるから、勝てるのだと保証された。このようにイエスから助けられた人々は、ここに自分たちが絶対の信頼をもってよりたのむことのできるお方がおられることを確信した。彼らが同情をもって聞いてくださるイエスの耳に入れた秘密をイエスはほかへもらそうとされなかった。DA 708.7

    イエスは魂をいやされるばかりでなく肉体もおいやしになった。彼は気がつくかぎりどんな種類の苦しみにも関心を持って、苦しんでいる1人びとりを救っておやりになった。彼のやさしいことばには苦しみをやわらげる香油があったのである。だれもイエスが奇跡を行われたと言うことはできなかった。ただ恵み、すなわち愛のいやしの力が病人や困っている人たちに向かってイエスからそそがれたのだった。このように彼は子供の時からつつしみ深い態度で人々のためにお働きになった。キリストの公生涯が始まってから、多くの人々が喜んで彼のことばをきいた理由はここにあった。DA 709.1

    だがイエスは、子供の時も、青年時代も、大人になられてからも1人で歩まれた。彼は純潔と忠誠のうちにただ1人でさかぶねを踏まれ、もろもろの民のなかに彼と事を共にする者はなかった。彼は人類の救いのためにおそるべき重い責任を負われた。人類の主義と目的とに決定的な変化がなければ、みな滅びてしまうことを、イエスはご存じだった。これがイエスの魂の重荷だったが、だれも彼の上におかれているこの重荷を理解できなかった。真剣な目的に燃えて、イエスは、ご自分が人類の光になるという一生の計画を実行された。DA 709.2

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