Loading...
Larger font
Smaller font
Copy
Print
Contents

人類のあけぼの

 - Contents
  • Results
  • Related
  • Featured
No results found for: "".
  • Weighted Relevancy
  • Content Sequence
  • Relevancy
  • Earliest First
  • Latest First
    Larger font
    Smaller font
    Copy
    Print
    Contents

    第50章 10分の1献金と捧げ物

    ヘブル人の制度では、人々の収入の10分の1は、神を公に礼拝することを支持するために、聖別されていた。モーセは、このようにイスラエルに言明した。「地の10分の1は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である」「牛または羊の10分の1については、すべて……10番目……は、主に聖なる物である」(レビ27:30、32)。PP 273.1

    しかし、10分の1制度は、ヘブル人が創設したものではなかった。主は、初期のころから、10分の1をご自分のものとして主張され、それは、人々が認めて尊んだことであった。アブラハムは、いと高き神の祭司、メルキゼデクに10分の1を捧げた(創世記14:20参照)。ヤコブは、家を追われて放浪の旅に出たとき、ベテルで「あなたがくださるすべての物の10分の1を、わたしは必ずあなたにささげます」と主に約束した(同28:22)。イスラエルの国が建設された時に、10分の1の律法は、神のお定めになった定めの1つとして再確認された。彼らの繁栄は、これに従うか否かにかかっていた。PP 273.2

    10分の1と捧げ物の制度は、神が、被造物にあらゆる祝福をお与えになる根源であるとともに、人間は、神が摂理の中にお与えになるよい賜物に対して、人間は、神に感謝すべきであるという大真理を人々に強く印象づけるためのものであった。PP 273.3

    「神は、すべての人々に命と息と万物とを与え」られた(使徒行伝17:25)。「林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである」(詩篇50:10)。「銀はわたしのもの、金もわたしのものである」と主は言われる(ハガイ2:8)。そして、人間に、富を得る力をお与えになるのも神である(申命記8:18参照)。万物は、神からのものであることを認めたしるしとして、主の恵みの一部を、神の礼拝を維持するために供え物や捧げ物として、主にお返しすることを指示なさった。PP 273.4

    「10分の1は……主のものであ」る。ここに、安息日の律法に用いられたのと同じ表現形式が用いられている。「7日目はあなたの神、主の安息である」(出エジプト20:10)。神は、人間の時間と財産の一定の部分をご自分のものとして保留なさった。そこで、人間は、そのどちらであっても私用に供すれば、罪を犯すことになるのである。PP 273.5

    10分の1は、聖所の奉仕のために聖別された部族、レビ人のためだけに用いるために捧げられた。しかし、宗教的ささげ物は、これだけではなかった。初めの幕屋も、後に建てられた神殿も同様に、全く人々の自由献金によって建設されたのである。さらに、修理その他の諸費用のために、モーセは、人口調査のたびに各自は半シケルずつを「幕屋の用に当てる」ために捧げることを指示した。ネヘミヤの時代には、こうした目的のために毎年捧げ物をした(出エジプト30:12~16、列王紀下12:4、5、歴代志下24:4~13、ネヘミヤ10:32、33参照)。罪祭や酬恩祭も、ときどき神の前に捧げられた。年ごとの祭りの時には、こうした供え物がおびただしく捧げられた。そして、貧者のためには、最もゆるやかな規則が設けられていた。PP 273.6

    10分の1の保留以前でさえ、神の要求を認めなければならなかった。地のすべての産物の最初に実ったものは、神に捧げられた。羊の毛を刈った時や、麦を脱穀した時の最初のもの、油や酒の最初のものは、神のものとされた。それと同様にすべての動物のういごは、神のものであった。また、長子のためには、贖いの価を払ったのである。最初の実は、聖所で主の前に捧げられ、それから、それは祭司たちの用に供された。PP 273.7

    こうして、人々は常に神が彼らの畑や羊の群れや家畜などの真の所有者であって、神が、彼らの種まきや収穫のときに日光と雨をお与えになったこと、また、彼らの所有のすべては、神がお造りになったものであって、神が、彼らを神の財産の管理人になさったことを思い起こさせられた。PP 273.8

    イスラエルの人々が、畑や果樹園やぶどう畑の初物をたくさん携えて、幕屋に集まったとき、彼らは、人々の前で神の恵みをたたえたのである。祭司が、その捧げ物を受け取ったときに、それを捧げた人はあたかも自分が主のみ前にあるかのように言うのであった。「わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありました」(申命記26:5)。そして、彼らがエジプトに下って行って、しいたげられたことと、そこから救い出されたことを述べ、「主は強い手と、伸べた腕と、大いなる恐るべき事と、しるしと、不思議とをもって、われわれをエジプトから導き出し、われわれをこの所へ連れてきて、乳と蜜の流れるこの地をわれわれに賜わりました。主よ、ごらんください。あなたがわたしに賜わった地の実の初物を、いま携えてきました」と言った(同26:8~10)。PP 274.1

    宗教と慈善の目的のためにヘブル人に要求された献金額は、彼らの収入の4分の1に及んだ。人々の財産に、このような重税が課せられたのでは、人々は貧困に陥ってしまうと思われるであろう。ところが、この規則に忠実に従うことが、彼らの繁栄の条件の1つであった。彼らの服従を条件に、神は、こう約束なさった。「わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。……こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる」(マラキ3:11、12)。PP 274.2

    預言者ハガイの時代には、人々が任意の捧げ物すら出し惜しんで神のご用のために捧げなかった結果の著しい例があげられている。ユダヤ人は、バビロンの捕囚から帰還後、主の神殿の再建にとりかかった。ところが頑強な敵の反対にあって、工事は中断された。そして、ひどいひでりがやって来て、彼らは困窮状態に陥り、神殿の建築完成は不可能だと思うようになった。「主の家を再び建てる時は、まだこない」と人々は言っていた。しかし、主の預言者は彼らに言った。「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである」(ハガイ1:2~6)。そして、その理由が述べられている「あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」(同1:9~11)。「20枡の麦の積まれる所に行ったが、わずかに10枡を得、また50桶をくもうとして、酒ぶねに行ったが、20桶を得たのみであった。わたしは立ち枯れと、腐り穂と、ひょうをもってあなたがたと、あなたがたのすべての手のわざを撃った」(同2:16、17)。PP 274.3

    こうした警告に目をさまして、人々は神の家の建築にとりかかった。すると、主の言葉が彼らに与えられた。「あなたがたはこの日より後、すなわち、9月24日よりの事を思うがよい。また主の宮の基をすえた日から後の事を心にとめるがよい。……わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」(同2:18、19)。PP 274.4

    「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある」と賢者は言っている(箴言11:24)。同じ教訓を、使徒パウロは新約聖書で教えている。「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」(Ⅱコリント9:6、8)。PP 274.5

    神は、神の民イスラエルが、地のすべての住民に光を掲げる者になることをお望みであった。彼らは、神を公に礼拝することを維持して、生きた神の存在と主権のあかしを立てていたのである。そして、神に対する彼らの忠誠と愛の表現として、この礼拝を保っていくことが彼らの特権であった。主は、天からの賜物を受けた者たちの努力と捧げ物によって、光と真理が地に行きわたるようになることをお定めになった。神は、天使たちを、神の真理の使者になさることもおできであった。シナイ山から律法を宣言なさったように、ご自分の声で、みこころを人に知らせることもおできであった。しかし、神は無限の愛と知恵によって、人間を召して、神ご自身の共労者となし、彼らを選んでこの働きをおさせになった。PP 275.1

    イスラエルの時代に、10分の1と任意の捧げ物とは神の礼拝の儀式を維持するために必要であった。この時代に、神の民は、それ以下のものを捧げるべきであろうか。キリストがお与えになった原則によれば、われわれの捧げ物は、われわれに与えられた光と特権に比例してなされるべきである。「多く与えられた者からは多く求められ」る(ルカ12:48)。救い主は、弟子たちを送り出されたとき、「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」と彼らに言われた(マタイ10:8)。われわれの祝福と特権が増加するに従い、特に、栄光に包まれた神のみ子の無比の犠牲を前にしては、救いの使命を他の人々に伝えるために、もっと多くの捧げ物をして、感謝を表すべきではないだろうか。福音の事業は、拡大するにつれて、昔よりは多くの資金がその維持のために必要である。それで、10分の1と捧げ物の律法は、ヘブル時代におけるよりは、今日、さらにその必要が緊急度を加えた。もし神の民が、非キリスト教的な清められていない方法で資金を得る代わりに、多くの任意の捧げ物によって神の働きを支持したならば、神のみ名があがめられ、もっと多くの魂が、キリストに導かれることであろう。PP 275.2

    幕屋建設のためのモーセの募金計画は、大成功であった。勧める必要はなかった。現代の教会がよく行うような方法は何1つ用いなかった。彼は、大宴会を開かなかった。また、人々をはなやかなところ、ダンス場、一般の娯楽場などに招待しなかった。神の幕屋の建設資金を得るために、宝くじや、この種の世俗の方法を制定なさらなかった。主は、イスラエルの子らに、捧げ物を携えてくるように頼めとお命じになった。モーセは、心から喜んで捧げる者からは、誰からでも捧げ物を受け取った。そして、全部用いることができないほどたくさんの捧げ物を人々が携えて来たので、モーセは、人々にもう持って来ないようにと命じたほどであった。PP 275.3

    神は、人々を神の管理者になさった。神が人々の手にお任せになった財産は、福音を広く伝えるために神がお備えになった資金である。忠実なしもべには、もっと大きな責任が神から負わせられる。「わたしを尊ぶ者を、わたしは尊」ぶと主は言われる(サムエル記上2:30)。「神は喜んで施す人を愛して下さるのである」。そして神の民が、「惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく」感謝して供え物や捧げ物を神のところに携えて来るとき、神が約束なさったように、神の祝福がそれに伴うのである(Ⅱコリント9:7)。「わたしの宮に食物のあるように、10分の1全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる」(マラキ3:10)。PP 275.4

    Larger font
    Smaller font
    Copy
    Print
    Contents