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人類のあけぼの

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    第13章 信仰をためされたアブラハム

    本章は、創世記16章、17:18~20、21:1~14、22:1~19に基づくPP 71.4

    アブラハムは、むすこが与えられるという約束を疑わずに信じたが、神がご自身の時と方法によって、みことばを成就なさるのを待たなかった。神の力にたよる彼の信仰をためすために、神は、約束の成就が遅れるのを許された。しかし、アブラハムはこの試練に耐えられなかった、サラは年をとっていたので、子供が与えられることは不不可能だと考え、神のみこころが成就する計画として、彼女の侍女のひとりをアブラハムが第2の妻としてめとるように提案した。当時、一夫多妻は広く行われていたので罪だとは思われなくなっていた。しかしそれが、神の律法に違反することはまちがいなく、家族関係の神聖さと平和にとって致命的であった。アブラハムとハガルとの結婚は、彼ら自身の家庭だけにとどまらず将来の世代にまでも悪い結果をもたらした。PP 71.5

    ハガルは、アブラハムの妻という新しい地位を名誉に感じ、アブラハムから出る大国民の母になろうと望み、高慢不遜になって、女主人を軽蔑するようになった。互いに嫉妬しあって、平和な家庭の幸福が破られてしまった。アブラハムは両方の言い分を聞かされ、もう1度、彼らを和合させようと努力したがむだであった。アブラハムがハガルをめとったのは、サラの熱心な勧めによったのであるが、サラは、それをいま、彼のせいにして責めるのであった。サラは、彼女の敵を追い出そうと望んだ。しかし、アブラハムはそうすることを許さなかった。なぜなら、ハガルは、彼が約束の子として、いとしんで望んでいる彼の子の母親となるからであった。それでも彼女はサラの侍女であり、サラの支配下にあった。ハガルの高慢な精神は、自分の横柄さに対して取られたきびしさに耐えられな かった。「サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた」(創世記16:6)。PP 71.6

    彼女は荒野にのがれた。そして、泉のかたわらに、さびしくただ1人で休んでいると、主の使いが人間の姿をとって彼女に現れた。主の使いは、「サライのつかえめハガルよ」と呼びかけ、彼女の立場と義務を思い起こさせて、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」と命じた(同16:8、9)。しかし譴責に慰めの言葉が混じっていた。「主があなたの苦しみを聞かれたのです」「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」(同16:11、10)。そして、神の恵みの永遠の記念として彼女は、その子をイシマエル(神は聞かれる)と呼ぶように命じられた。PP 72.1

    アブラハムは、100歳近くなった時に、むすこが与えられる約束がくり返し与えられ、将来の世継ぎはサラの子でなければならないという確証が与えられた。しかし、アブラハムは、まだ約束を理解しなかった。彼は直ちにイシマエルのことを考え、彼によって神の恵み深いみこころが成就するという考えを捨てなかった。彼は自分のむすこを深く愛して、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」と叫んだ(同17:18)。ふたたび、まちがう余地のない言葉で約束がくり返された。「あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう」(同17:19)。しかし、神は、父の祈りをお忘れにならなかった。「またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して……彼を大いなる国民としよう」(同17:20)。PP 72.2

    一生待ったかいがあって、イサクが生まれ、心からの願いがかなったアブラハムとサラの天幕は、喜びに満たされた。しかし、ハガルにとって、このことは楽しみにしていた野心が打ち砕かれることであった。もう青年になっていたイシマエルは、天幕のなかのすべての人から、アブラハムの富の相続者、また、彼の子孫に約束された祝福の継承者とみなされていた。ところが、突然彼は退けられた。母子は失望してサラの子を憎んだ。誰もが喜んでいるのがねたましく思われ、ついにイシマエルは、公然と神の約束の継承者をあざわらった。サラは、イシマエルの狂暴な性質が、いつまでも争いの種になるのを察して、ハガルとイシマエルを天幕から追い出すようにアブラハムに訴えた。アブラハムは非常な苦悩に陥った。なお、深く愛しているむすこのイシマエルを、どうして追放することができたであろう。彼は苦しんで、神の導きを求めた。主は、天使によって、サラの願いを聞き入れるように指示された。家族の一致と幸福を回復するにはこれしかなかったから、イシマエルやハガルに対する愛が妨げとなってはならなかった。そして、イシマエルは父の家庭から離れても、神に見捨てられたのではないという慰めの約束が彼に与えられた。彼の生命は保護され、大国民の先祖となるのであった。PP 72.3

    アブラハムは天使の言葉に従った。しかし、それは、はなはだ苦しいことであった。ハガルとそのむすこを追い出した父親の心は、言葉で表現できない悲嘆にくれた。PP 72.4

    結婚関係の神聖さについてアブラハムに与えられた教訓は、各時代の教訓となるものであった。それは、どんな犠牲を払っても、結婚関係の権利と幸福とは慎重に守るべきことを言明している。サラが、アブラハムのただ1人の真の妻であった。妻また母としての彼女の権利は、他の何人も共有する資格がなかった。彼女は夫を敬ったので、それが新約聖書の中でりっぱな模範としてあげられている。彼女は、アブラハムの愛情が他の女に与えられることを喜ばなかった。主は、彼女が相手の女を追放することを求めたときに、彼女を責められなかった。アブラハムもサラも、神の力を信じなかった。この誤りが、ハガルとの結婚の原因であった。PP 72.5

    神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が 最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼をあわせられた。彼は、夜の幻の中でモリヤの地に行き、そこで示される山の上で、むすこを燔祭としてささげるように命じられた。PP 72.6

    アブラハムはこの命令を受けたとき120歳であった。当時においても、彼は老人とみなされていた。若いころは、彼も強くて、困難に耐え、危険を冒すこともできたが、もう青年の情熱は消えてしまった。年をとり、足が墓によろめいている時には、心をくじかせるような困難や苦難も、壮年の活気に満ちている者ならば勇気を出して当面することであろう。しかし、神は、アブラハムに年月の重荷がのしかかり、心労と労苦からの休息を願うころになって、最後の最もきびしい試練を彼のためにとっておかれた。PP 73.1

    ベエルシバに住んでいたアブラハムは、繁栄と栄誉に囲まれていた。彼は富裕で国の王たちから、力ある王としてあがめられていた。彼の天幕のむこうに広がった平原には、幾千という羊や家畜の群れがいた。至るところに、彼の家来たちの天幕や、幾百の忠実なしもべたちの家庭が見えた。約束のむすこが、彼のかたわらで成人したのであった。天は、長く延ばされた希望の実現を忍耐して待った犠牲の生涯を祝福するかのように思われた。PP 73.2

    アブラハムは信仰によって服従し、故郷を離れ、父の墓や親族の家庭を離れたのであった。彼は、自分に与えられた土地を、旅人のように放浪した。彼は約束の相続人が生まれるまで長く待った。彼は、神の命令に従ってむすこのイシマエルを送り出した。そして今、長く待望したむすこが成人しようとしていた。そして、アブラハムは、彼の希望が実現するのを見ることができると思ったその時に、これまでのどれよりも大きな試練が彼に臨んだ。PP 73.3

    命令は、父親の胸をしめつけるような言葉で表現された。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて……彼を燔祭としてささげなさい」(同22:2)。イサクは、彼の家庭の光であり、彼の老年の慰めであった。そして、他の何よりも大切なことは、彼が、約束された祝福の田継ぎであることであった。こうしたむすこを、事故または病気で失うことは、慈愛深い父親にとって胸のはりさける思いであろう。それは、彼の白髪を悲嘆に暮れさせたことであろう。しかし、自分自身の手で、自分の子の血を流すように彼は命じられた。それは恐ろしい不可能なことのように思われた。PP 73.4

    神の律法は、「あなたは殺してはならない」と言っている。そして、神は1度禁じられたことを変えられないから、アブラハムは欺かれているのだと、そばでサタンは言った。アブラハムは天幕の外に出て、雲1つない静かで明るい天を見上げて、彼の子孫が天の星のように数えることができないほどになるという、50年近く前の約束を思い出した。もし、この約束が、イサクによって成就するとすれば、どうして彼を殺すことができようか。アブラハムは、自分が欺かれているのだと思い込もうと試みられた。彼は、疑惑と苦悶のうちに、地に伏してこれまでになかったほどに祈り、この恐ろしい義務を果たさなければならないかどうかの確証を求めた。アブラハムは、ソドムを滅ぼすという神のみこころを、彼に告げるためにつかわされた天使を思い出した。そして、この同じむすこのイサクの約束を与えたのも天使であった。そこで彼は天使たちに会って指示を迎ぎたいと思って、天使たちと何度か会った場所へ行ってみたが、だれも彼を助けに来てはくれなかった。彼は、暗黒に閉ざされたように思われた。そして、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて」行けという神の命令が、彼の耳に響いた。その命令には服従しなければならなかった。彼は、延ばそうとはしなかった。夜が明けようとしていた。彼は、旅に出なければならなかった。PP 73.5

    彼は天幕にもどって、イサクが若者らしく無心に熟睡しているところへ行った。父親は、むすこのいとしい顔をしばらくながめていたが、身震いして離れ去った。彼はサラのところへ行ったが、サラもよく眠っていた。もう1度むすこを抱かせるために、彼女を起こすべきであろうか。神の要求を彼女に知らせるべきであろうか。彼は、自分の心中を彼女に打ち明けて、 この恐ろしい責任を彼女にも共に負ってもらいたいと思った。しかし、彼女は、自分を妨害するかも知れないと恐れて思いとどまった。イサクは、彼女の喜びであり誇りであった。彼女の生命は彼にしっかり結ばれていて、母の愛情から、彼を犠牲にすることを拒むかも知れなかった。PP 73.6

    ついに、アブラハムはイサクを起こし、遠くの山で犠牲をささげる命令のことを話した。イサクは、今までにも、父親の旅したところの道しるべになっていた数多くの祭壇の1つに、礼拝のために父親と出かけたことがしばしばあった。それで、今呼ばれても別に驚かなかった。旅の準備はすぐ終わった。たきぎが用意されて、ろばにのせられた。彼らは、2人のしもべをつれて出発した。PP 74.1

    父とむすこは、肩を並べて黙って旅を続けた。アブラハムは心に重い秘密を抱いて、言葉を出す勇気がなかった。彼は、誇りと慈愛に満ちた母のことを考え、ただ1人で彼女のところへ帰らねばならぬ日のことを思っていた。剣が、彼女のむすこの生命を奪うその時、彼女の心をさしつらぬくことを彼はよく知っていた。PP 74.2

    アブラハムの生涯中の最長の日が、やっと暮れかけていた。むすこも若者たちも眠っている間、彼は祈り通した。そして、彼は、天使があらわれ、試練はもうすんだ、イサクを傷つけずに母親のもとに帰してもよいというのを期待していた。しかし、彼の心の苦悩は取り去られなかった。長い日がもう1日続き、その夜も彼は心を低くして祈った。しかし、耳に聞こえるのは、彼のむすこを奪い去る命令であった。サタンは、疑いと不信を耳もとでささやいたが、アブラハムはその声にさからった。彼らが、3日目の旅を始めようとしたとき、アブラハムは、北のほうを見ると、モリヤの山には約束のしるしである栄光の雲がかかっていた。そして、彼は、語りかけた声が天からのものであることを悟った。PP 74.3

    それでも、アブラハムは神につぶやかず主の恵みとまことの証拠を考えて心を強くした。このむすこは、予期しないのに与えられた。尊い賜物を与えたかたは、ご自分の与えたものを取りもどす権を持たれないであろうか。すると信仰は、約束をくりかえす。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。彼らは海辺の砂のように無数になる。イサクは奇跡の子であった。であるから、彼に生命を与えた方は、復活させる力があるのではないか。アブラハムは、目に見えるもののかなたをながめて、「神が死人の中から人をよみがえらせる力がある」と神の言葉を理解した(ヘブル11:19)。PP 74.4

    しかし、むすこを死にわたすという父の犠牲の大きさを理解できるのはただ神だけである。アブラハムは、別れの光景を神以外のだれにも見られたくなかった。彼は、若者たちに残っているように命じ、「わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」と言った(創世記22:5)。たきぎは、犠牲となるイサクが背負い、父は、刃物と火を持って一緒に山頂さして登った。このように、おりと群れから遠く離れたところで犠牲の羊はどこから来るのかと、イサクは心の中で不思議に思った。彼は、ついに、「父よ、……火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」とたずねた。ああ、これはなんという試練であったことだろう。「父よ」という愛のこもった言葉が、どんなにアブラハムの心を刺したことであろう。まだ知らせることはできなかった。「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」(同22:7、8)。PP 74.5

    彼らは、定められた場所で祭壇を築き、その上にたきぎを置いた。そして、アブラハムは震える声で天からの言葉をむすこに知らせた。イサクは、自分の運命を知って恐れ驚いたけれども、さからわなかった彼は逃げようと思えば、彼の運命から逃げることができた。悲しみに打ちひしがれた老人は、恐ろしい3日間の苦悩に力がつきていて、元気な若者の意志に逆らうことはできなかったことであろう。しかし、イサクは幼いときから、すぐに信頼して服従することを学んでいたから、神のみこころが知らされたとき、彼は喜んで従った。彼はアブラハムと同じ信仰を持っていたから、自分の生命を神の供え物としてささげる召し を受けたことを名誉に感じた。イサクは、父をいたわり、悲しみを軽くしようと努めた。そして、父の弱々しい手を助けて、綱で自分を祭壇に結びつけるのであった。PP 74.6

    いよいよ最後の愛の言葉が語られ、最後の涙が流され、最後の抱擁が終わった。父は、むすこを殺そうと、刃物をふり上げた。すると突然、彼の手はとどめられた。神のみ使いが天から彼を、「アブラハムよ、アブラハムよ」と呼んだ。彼は直ちに「はい、ここにおります」と答えた。すると声がふたたび聞こえた。「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(同22:11、12)。PP 75.1

    そのとき、アブラハムは、「角をやぶに掛けている1頭の雄羊」を発見し、急いで新しい犠牲を捕え、「その子のかわりに」捧げた。アブラハムは、喜びと感謝にあふれて、その清い場所をアドナイ・エレ(主は備えられる)と新しく名づけた(同22:13、14)。PP 75.2

    神はモリヤの山で、神の契約を繰り返し、厳粛な誓いのもとに、アブラハムと彼の各時代の子孫に祝福を与えることを確証された。「主は言われた。『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」(同22:16~18)。PP 75.3

    アブラハムの大きな信仰の行いは、光の柱のように、その後のすべての時代の神のしもべたちの道を照らしている。アブラハムは、神のみこころを行うことを免除されるようには求めなかった。彼は、3日の旅の間いろいろと考え、疑おうと思えば神を疑うこともできた。むすこを殺すことは、彼が殺人者、第2のカインと見なされることになるという理由を考えることもできた。PP 75.4

    それはまた、人々が彼の教えを拒否し、軽蔑する原因になり、そうすることによって、同胞に対して善を行う力をそこなうとも考えられた。彼は、老齢を理由に服従を免れることを求めることができた。しかし、アブラハムは、どのいいわけもしなかった。アブラハムは人間であった。彼は、われわれと同じ情と愛情の人であった。しかし、彼は、イサクが殺されたならどのようにして約束が成就されるのかをたずねようとしなかった。彼は、自分の心の痛みを考えなかった。彼は、神のすべての要求が公正で義であることを知っていて文字通りにその命令に服従した。PP 75.5

    「『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』……そして、彼は『神の友』と唱えられたのである」(ヤコブ2:23)。「信仰による者こそアブラハムの子である」とパウロは言っている(ガラテヤ3:7)。しかし、アブラハムの信仰は行為にあらわされた。「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」る(ヤコブ2:21、22)。信仰と行いの関係を理解しない人が多い。「ただキリストを信じなさい。そうすれば、あなたは安全です。あなたは、律法を守る必要はありません」と彼らは言う。しかし、真の信仰は服従にあらわされる。キリストは、不信のユダヤ人に、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい」と言われた(ヨハネ8:39)。主は、信仰の父について言われた。「アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」(創世記26:5)。使徒ヤコブは、「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」と言った(ヤコブ2:17)。そして、愛を深く瞑想したヨハネは、「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」と言っているのである(Ⅰヨハネ5:3)。PP 75.6

    神は、型と約束によって、「アブラハムに……良い知らせを、予告したのである」(ガラテヤ3:8)。そ してアブラハムの信仰は、来臨される贖い主に集中された。キリストは、ユダヤ人に言われた。「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」(ヨハネ8:56)。イサクのかわりにささげられた雄羊は、われわれの身代わりとして犠牲となられる神のみ子を代表していた。人間が神の律法を破って死ぬべき運命に陥ったとき、父なる神は、み子をながめて、罪人に「生きなさい。わたしは、身代わりを見つけた」と言われた。PP 75.7

    神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アブラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである。自分のむすこを捧げることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はなかった。神は、苦悩と屈辱の死に、み子を渡された。神のみ子の屈辱と魂の苦悩を見た天使たちは、イサクの場合のように、介入することが許されなかった。「もうそれでよい」という声は聞かれなかった。堕落した人類を救うために、栄光の王はご自分の生命をお捧げになった。神の無限のあわれみと愛の証拠として、これ以上の強力なものがあるだろうか。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ8:32)。PP 76.1

    アブラハムに要求された犠牲は、彼自身のためとその後の子孫のためばかりではなく、天と他の諸世界の罪のない者たちの教訓のためでもあった。キリストとサタンとの争闘の場、すなわち、贖罪の計画が行われるところは、宇宙の教科書である。アブラハムが神の約束に対する信仰の欠如をあらわしたために、サタンは、天使たちと神の前で彼を非難し、契約の条件を破ったので、祝福に値しないと言った。神は全天の前で、神のしもべの忠誠を試み、完全に服従すること以外は何物も受け入れられないことを実証して、彼らの前に救いの計画をさらに明らかに示そうとされた。PP 76.2

    天の住民たちは、アブラハムの信仰とイサクの服従が試みられた光景の目撃者であった。試練は、アダムに臨んだものよりははるかにきびしいものであった。アダムに課せられた禁令に従うことには苦痛はなかった。しかし、アブラハムに与えられた命令は、最も苦しい犠牲を要求した。全天は驚嘆と賞賛をもって、アブラハムの断固とした服従を見守った。全天は彼の忠誠に賛嘆の声をあげた。サタンの非難は、偽りであることが示された。神はアブラハムに匠{われた、「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを、〔サタンの非難にもかかわらず〕わたしは今知った」。他の諸世界の住民の前で、誓いをもってアブラハムに約束された神の契約は、服従が報われることを証明した。PP 76.3

    天の指揮者、神のみ子が、罪人のために死ぬ必要があるという贖罪の神秘は、天使でさえも理解に苦しんだ。アブラハムに、その子を捧げよという命令が与えられたときに、全天の関心がそれに注がれた。彼らは、緊張して、この命令が実行される段階を見守った。「燔祭の小羊はどこにありますか」とイサクがたずねたとき、アブラハムは、「神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えた。父が今にもむすこを殺そうとした時、彼の手がとめられて、神が備えられた雄羊がイサクに代わって捧げられた時に、贖罪の神秘が明らかに照らし出されて、人類のための神の驚くべき準備が、天使たちにさえ明瞭に理解されたのである(Ⅰペテロ1:12参照)。PP 76.4

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