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患難から栄光へ

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    第31章 患難と栄光

    本章はコリント人への第2の手紙に基づくAA 1478.1

    パウロは、以前に働いたことのあるヨーロッパの各地をもう1度訪問しようと思って、また、エペソから伝道旅行に出発した。パウロは、しばらくの間、「キリストの福音のために」トロアスにとどまり、彼の言葉を聞く人々を幾人か見いだした。その場所における働きのことを彼は、後で、「わたしのために主の門が開かれた」と言った。彼は、トロアスの働きが成功したにもかかわらず、長く滞在することができなかった。「諸教会の心配ごと」、特にコリントの教会のことが彼の心に重くのしかかっていた。彼は、トロアスでテトスに会って、自分がコリントの兄弟たちに送った勧告と譴責の言葉を、彼らがどのように受けたかを知りたいと思ったけれども、彼の願いは果たされなかった。彼は、「兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でな」かったと、この経験について書いた。そこで、彼は、トロアスを離れて、マケドニヤへ行き、ピリピにおいて、テモテに会ったのである。AA 1478.2

    パウロは、コリントの教会について、憂慮してはいたが、望みを捨ててはいなかった。しかし、時には、深い悲しみが彼の心を閉ざし、彼は自分の勧告と忠告が誤解されるのではないかと恐れた。彼は、後で次のように書いた。「わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めて下さった」。AA 1478.3

    この忠実な使者テトスは、コリントの信者たちの間に驚くべき変化が起こったという、励ましとなる知らせをもたらした。多くの者はパウロの手紙の中の教えを受けいれて、自分たちの罪を悔い改めた。彼らの生活は、もはや、キリスト教の恥辱ではなくなり、実際的な信仰ということを力強く示すものとなった。AA 1478.4

    パウロは喜びに満ちあふれて、コリントの信者たちにもう1つの手紙を送り、彼らの中に行われたよい働きのことを聞いての心の喜びを表明した。「そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない」。彼は、自分の言葉が、軽べつされるのではないかという恐れにさいなまれ、時には、あのように断固として厳しく書いたことを後悔したのであった。しかし、「今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導」く。人の心に神の恵みが働く結果生じる悔い改めは、罪の告白と放棄に至らせる。パウロは、コリントの信者たちの生活にこのような実が実ったと言ったのである。「神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意……に至らせたことか」。AA 1478.5

    パウロは、しばらくの間、諸教会に対する魂の重荷を負っていた。それは、ほとんど耐えられないような重荷であった。偽教師たちは、信者間における彼の影響力を破壊し、福音真理の代わりに彼らの教理を広めようとした。パウロを取りかこんだ困惑と失望は、次の言葉によく表されている。「わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしま」った。AA 1478.6

    しかし、今、心配の種が1つ取り除かれた。パウロは、コリントの人々が彼の手紙を受けいれたといり知らせを聞いて、喜びの声をあげた。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたした ちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである」。AA 1478.7

    パウロは、彼らがふたたび改心し、恵みに成長していることに、喜びを表し、この心と生活の変化に対して、すべての讃美を神にささげた。彼は叫んで言った。「神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである」。当時、戦いに勝利した将軍は、その帰還の時に、捕虜たちを引き連れてくる習慣があった。その際、香をたく者が選ばれ、軍隊が故郷に凱旋行進をした時、その芳香は、死に定められた者にとっては、死の香りであり、その処刑の時の切迫を示していた。しかし、彼らを捕らえた者の恵みに浴して、生命を助けられることになっていた者にとって、それは、生命の香りであり、自由が近づいたことを示していた。AA 1479.1

    パウロは、今や、信仰と希望に満ちていた。彼は、コリントにおける神の働きに対して、サタンが勝ち得ないことを知り、讃美の声をあげて、心からの感謝を注ぎ出した。彼と彼の同労者たちは、キリストと真理の敵に対する勝利を祝い、新たな熱意をもって、救い主についての知識を広めるために出て行くのであった。福音の芳香は、香のように、全世界に広く行きわたらなければならなかった。キリストを受けいれる者にとって、その使信は、いのちからいのちに至らせるかおりであるが、不信を抱き続ける者には、死から死に至らせるかおりなのである。AA 1479.2

    パウロはこの働きの極めて重大なことを悟って、「いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか」と叫んだ。いったい、だれが、使命者や、彼の伝える使命をそしる口実をキリストの敵に与えることなく、キリストを宣べ伝えることができようか。パウロは、福音宣教の厳粛な責任を、信者たちに深く印象づけたいと望んだ。忠実にみことばを宣べ伝えると共に、純潔と言行の一致が生活に伴ってこそ、はじめて、伝道者たちの努力が神に受けいれられるものとなり、人々の益となるのである。今日、牧師たちが、働きの重要性に圧倒されて、使徒パウロと共に、「いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか」と叫ぶのも当然である。AA 1479.3

    パウロが前の手紙を書いた時、それは自分を推賞するためだと、彼を非難した人々があった。そこで彼は、このことに触れ、教会の信者たちに、彼らもそのように彼の動機を批判したかをたずねた。「わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか」。新しい場所へ移っていく信者たちは、よく、彼らが前に属していた教会からの推薦状を持って行ったものである。しかし、指導者たち、すなわち、これらの教会の創設者たちは、このような推薦状を必要としなかった。偶像の礼拝から福音の信仰に導かれたコリントの信者たち自身が、パウロに必要な推薦状のすべてであった。彼らが信仰を受けいれ、その生活に改革が行われたことは、彼の働きが忠実になされていること、そして彼には、キリストの伝道者として、勧告と譴責と奨励を行う権威があることを、雄弁にあかししていた。AA 1479.4

    パウロは、コリントの兄弟たちを、彼の推薦状と見なした。彼は、次のように言った。「わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりと あらわしている」。AA 1479.5

    罪人が悔い改めて、真理によってきよめられることは、神が、牧師を伝道の仕事に召された最も強力な証拠である。彼の使徒職の証拠は、改心した人々の心に書かれ、彼らの新たな生活によって、立証される。栄光の望みであられるキリストが、心の中に形づくられる。牧師は、彼の働きにこのような証印が押されて、大いに力づけられるのである。AA 1480.1

    今日、キリストの牧師たちは、パウロの働きに対してコリントの教会があかししたのと同様の証言を持たなければならない。しかし、この時代において、牧師の数は多いが、有能で、きよめられた牧師、すなわち、キリストの心に宿った愛に満たされた人々は、実に少ないのである。誇り、自己過信、世を愛する心、あらさがし、辛辣さ、ねたみなどが、キリストの宗教を表明する多くの者の結ぶ実である。その人々の生活は、救い主の生涯とは著しい対照をなしていて、しばしば、彼らが、どのような牧師の働きの下に改心したかという悲しいあかしを立てる。AA 1480.2

    人間にとって、福音の有能な牧師として神に受けいれられること以上に大きな栄誉はない。しかし、主が、主の働きにおいて力と成功を与えて祝福される人々は、誇ったりしない。彼らは、自分たちが、主に全く依存していることを認め、自分たちの無力を自覚している。彼らはパウロと共に、「もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである」と言うのである。AA 1480.3

    真の牧師は、主の働きをする。彼は、自分の働きの重要性を感じ、自分の教会と世界とに対して、キリストが持続されたのと同様の関係を持続すべきことを自覚する。彼は、うまずたゆまず、罪人をもっと高尚な生活へと導き、勝利者の報賞を彼らに得させようとする。祭壇からの燃える炭が彼のくちびるに触れ、彼はイエスを、罪人の唯一の希望として掲げる。彼の説教を聞く者は、彼が、熱烈な力ある祈りによって神に近づいたことを知る。聖霊が彼の上にとどまり、彼の心は燃えさかる天からの火を受け、彼は、霊によって霊のことを解釈することができる。彼には、サタンの砦を破壊する力が与えられる。人々は、神の愛についての彼の説教を聞いて、心をくだかれ、多くの者が、「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」とたずねるに至る。AA 1480.4

    「このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである」。AA 1480.5

    このようにパウロは、キリストの使者としての彼に与えられた、神聖な信任の中に示されている、神の恵みと憐れみを、大いに讃美した。彼と彼の仲間たちは、神の豊かなあわれみによって、困難と苦難と危険のなかにも守られたのであった。彼らは、彼らの信仰と教えを、聴衆の願うところに従って作り変えたりせず、教えをもっと魅力あるものにするために救いに不可欠な真理を差し控えたりはしなかった。彼らは簡単明瞭に真理を宣べ伝え、人々が罪を認めて、悔い改めることを祈った。彼らは、自分たちの行為が、教えていることと一致するように努力し、自分たちの伝える真理が、すべての人の良心を感服させるように努めた。AA 1480.6

    パウロは、続けて言った。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでな いことが、あらわれるためである」。神は、罪なき天使たちによって神の真理を宣布することもおできになったが、しかしこれは、神の計画ではない。神は、神の計画を実施する器として、弱さを持った人間をお選びになる。この上なく貴重な宝が、土の器に盛られる。神の祝福は、人間によって世界に伝えられるのである。彼らを通して、神の栄光が、罪の暗黒の中に輝き出るのである。彼らは、愛の奉仕によって、罪のうちにある人々や困っている人々に接し、その人々を十字架に導かねばならない。そして、彼らは、そのすべての働きにおいて、栄光と誉れと讃美を、すべてのものの上におられる方に帰すのである。AA 1480.7

    パウロは、彼自身の経験に言及して、彼がキリストに仕えるようになったのは、利己的動機からではないことを説明した。なぜなら彼の道は、試練と誘惑に満ちていたからである。彼は次のように書いた。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」。AA 1481.1

    パウロは、彼と彼の同労者たちが、キリストの使者として、絶えず危険にさらされていることを、兄弟たちに思い起こさせた。彼らの耐える苦難は、徐々に彼らの力を弱らせていた。彼は、次のように書いた。「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスの命が、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、命はあなたがたのうちに働くのである」。これらのキリストの伝道者たちは、貧困と労苦によって、肉体的苦しみに会い、キリストの死にならっていた。しかし、彼らの中に死をもたらしていたものが、コリント人には霊的生命と健康をもたらしていた。彼らは真理を信じて、永遠の生命を受ける者とされたのである。こうしたことを考えて、イエスの弟子たちは、怠慢や不和によって働き人たちの重荷や試練を増すことのないよう、注意しなければならない。AA 1481.2

    パウロは続けて言った。「『わたしは信じた。それゆえに語った』としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである」。パウロは、彼にゆだねられた真理が真実のものであることを堅く信じていたので、どんなものも、彼に、神のことばを欺瞞的に扱わせたり、または、彼の心の確信を隠させたりすることはできなかった。彼は、世俗の意見に迎合して、富や栄誉や快楽を得ようとはしなかった。彼はコリント人に宣べ伝えていた信仰のために、絶えず殉教の危機にさらされていながらも、おびえてはいなかった。死んでよみがえられたかたが、彼を墓からよみがえらせて、天の父のみ前に立たせて下さることを知っていたからである。AA 1481.3

    「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである」と彼は言った。使徒たちは、自分たちの栄達を求めて、福音を宣べ伝えたのではなかった。彼らがこの働きにその生涯を献身したのは、人々の救われることを望んだからであった。危険におびやかされ、あるいは、実際に苦難に会ってもなお、彼らが努力することをやめなかったのは、この希望を抱いていたからである。AA 1481.4

    「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」とパウロは言った。パウロは、敵の力を知っていた。しかし、彼は肉体の力は衰えても、ひるむことなく忠実に、キリストの福音を宣べ伝えた。この十字架の英雄は、神のすべての武具をまとって、戦いに突進して行った。彼は歓呼の声をあげ、みずから戦いに勝利を収めたと言った。彼は、忠実な者に与えられる報賞に目を向け、勝ち誇って叫んだ。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」。AA 1481.5

    パウロがコリントの兄弟たちに、もう1度彼らのあ がない主の無比の愛を熟考するようにと訴えた言葉は、実に真剣で、感動的である。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」。あなたがたは、キリストがどのように高い所から降りて来られて、どのような屈辱のきわみまで、身を低められたかを知っている。キリストは、ひとたび、自己否定と犠牲の道を歩き始められるや、脇道にそれることなく、ついにその生命をお与えになった。玉座と十字架との間において、主には片時も休むひまがなかった。AA 1481.6

    パウロは、彼の手紙を読む人々が、彼らのための救い主の驚くべき謙遜を十分理解することができるように、順を追って懇切に説明した。パウロは、キリストが神と等しくあられて、神と共に天使たちの崇敬を受けておられた時から、ついに最も低い屈辱のきわみにまでこられた、その道筋をたどった。パウロは、もし彼らが天の王の驚くべき犠牲を理解することができたならば、彼らの生活からすべての利己心が排除されることを確信していた。パウロは、神の子が、堕落した人類を救い出して、希望と喜びと天国を得させるために、どのようにその栄光を放棄し、みずから進んで人間の性質をとり、おのれを低くしてしもべとなり、死に至るまで、「しかも十字架の死に至るまで従順であられた」かを示した(ピリピ2:8)。AA 1482.1

    われわれは、十字架の光に照らして神のご品性を学ぶときに、あわれみと慈愛とゆるしが公平と正義に入り混じっていることを見る。神の玉座の真ん中に、人間を神と和解させるために受けられた苦難のしるしを、その手と足とわきに持っておられるかたを見るのである。無限の父なる神が、近づくことのできない光の中に住んでおられ、それでもなおみ子の功績によって、われわれを受け入れて下さるのを見るのである。悲惨と絶望しかもたらさないように見えた報復の雲は、十字架の光に照らしてみるときに、次のような神の筆のあとをあらわすのである。生きよ、罪人よ、生きよ。あなたがた、悔い改めて信じる人々よ、生きよ。わたしは、あがないの価を払った。AA 1482.2

    われわれは、キリストのことを瞑想する時に、広大無辺の愛の岸辺をさまようのである。われわれは、この愛について語ろうとするが、ふさわしい言葉がでてこない。キリストの地上の生涯、われわれのための犠牲、われわれの仲保者としての天における働き、そして、主を愛する者のために備えておられる住居のことを考えて、われわれは、ただ、キリストの愛は何と高く、何と深いことだろうと叫ぶことしかできない。AA 1482.3

    「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」(Ⅰヨハネ4:10、3:1)。AA 1482.4

    この愛は、すべての真の弟子の中で、聖なる火のように、心の祭壇の上で燃える。キリストによって神の愛があらわされたのは、この地上においてであった。神の民が、傷のない生活によって、この愛をあらわすのは、この地上においてである。こうして、罪人は、十字架へと導かれて、神の小羊を眺めるのである。AA 1482.5

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