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患難から栄光へ

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    第53章 愛された弟子

    ヨハネは、ほかの使徒たちより、イエスがとりわけ「愛しておられた弟子」である(ヨハネ21:20)。ヨハネはキリストとの友情を、最高にたのしく味わったように見える。たしかに彼は、救い主の信頼と愛のしるしを豊かに受けたのである。彼は、変貌の山でのキリストの栄光と、ゲッセマネでのキリストの苦悩を目撃することを許された3人のうちの1人であった。また、キリストが十字架にかけられた最後の苦し みの時に、キリストが母の世話をお託しになったのも、ほかならぬヨハネにであった。AA 1561.6

    愛弟子に対する救い主の愛情は、力いっぱいの、燃えるような献身で報いられた。ヨハネは、ぶどうのつるが堂々とした柱にからむように、キリストにぴったりとついて離れなかった。主のために彼は法廷の危険を物ともしなかったし、十字架を離れずにいた。またキリストがよみがえられたという知らせに、すぐさま墓へ急き、その熱意においては性急なペテロにさえもまさっていた。AA 1562.1

    ヨハネの生活と品性にあらわれていたキリストへのひたむきな愛と無我の献身は、キリスト教会に口で言いあらわせない価値のある教訓を与えている。AA 1562.2

    ヨハネは、のちの経験にあらわれているような美しい品性を生まれつき持っていたのではなかった。彼には生まれつきのひどい欠点があった。高慢で、身勝手で、名誉欲が強かったばかりでなく、激しい性質で、侮辱されると憤慨した。彼とその兄弟たちは「雷の子」と呼ばれていた。短気、復讐心、批判的精神といったようなものがすべてこの愛された弟子の中にあった。しかしこうしたすべてのものの下に、天来の教師イエスは、熱心で、誠実で、愛すべき心を認められた。イエスは彼の身勝手を譴責され、彼の野心をくじいて、信仰を試された。しかしイエスは、ヨハネの魂が求めていたもの、すなわち、聖潔の美、愛の改変力を彼にお示しになった。AA 1562.3

    ヨハネの性格の中にある欠点が、救い主と個人的に交わるうちに数回、強く前面にあらわれた。ある時キリストは、サマリヤ人の村に行くに先立って使者たちをおつかわしになり、キリストと弟子たちのために飲み物を用意してほしいと村人にお求めになった。しかし救い主は町に近づかれた時、そこに立ち寄らずエルサレムへ向かうほうがよいかもしれないというようなご様子であった。このためにサマリヤ人たちは憤慨して、しばらく彼らと共に過ごされるよう勧めずに、彼らがいつも一般の旅行者たちにしていたもてなしを差し控えた。イエスは人の前に無理に出ることはなさらなかったので、サマリヤ人たちは、もし彼らがイエスを客人として招いていたら彼らに与えられていたはずの祝福を失った。AA 1562.4

    弟子たちは、キリストがお立ち寄りになってサマリヤ人を祝福なさろうとしていたことを知っていた。そして、村人が主に示した冷淡さと、嫉妬と、不遜さに弟子たちは驚き、憤慨した。ヤコブとヨハネは特に気を荒立てた。彼らが深く尊敬している方がこのようなあしらいを受けたことは、直ちに罰せず見過ごしにすることが到底できないほど不当であるように彼らには思えた。「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」と、彼らは、預言者エリヤのところにつかわされたサマリヤの長とその部下たちが焼き尽くされたことを引用して、熱心に言った。2人はイエスが、彼らの言葉に胸をいためられたのを見て驚いた。そして、イエスの譴責が耳もとに落ちてきた時に彼らはもっと驚いた、「あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです」(ルカ9:54~56・新改訳聖書、註参照(異本))。AA 1562.5

    強制的にキリストを受け入れさせることは、キリストの使命にはない。それはサタンであり、良心を強制しようとするのはサタンの霊に踊らされている人々である。悪天使と同盟する人々が時々、正義に対する熱意をよそおい、自分たちの宗教的な考えに改心させようと仲間を苦しめている。しかしキリストは常に憐れみを示され、愛をお示しになって導こうとしておられる。キリストは人の心に競争相手を認めることも、生半可な奉仕を受け入れることもおできにならない。ただ、主は自発的な奉仕、愛に強いられて気持ちよく服従する心を望まれる。AA 1562.6

    また別の時にヤコブとヨハネは、キリストの王国で名誉ある最高の地位が与えられるようにと、母親から懇願してもらった。キリストが神の国の本質について繰り返し指導しておられたにもかかわらず、この若い弟子たちは、人々の願いに従って王座と王の力を獲得される方として、いまだにメシヤに希望を抱いていた。母親は、息子たちのためにこの王国で名誉 ある地位を切望していたので、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」と、頼んだ。AA 1562.7

    しかしイエスは答えられた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは主の神秘的なみ言葉が試練と苦しみを指していることを思い出したが、なお、自信をもって「できます」と答えた。彼らは、主にふりかかろうとしていることをすべて共に受けることによって彼らの忠誠を証明すれば、最高の名誉だと思った。AA 1563.1

    「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう」。イエスは、左右に2人の悪人を仲間とし、王座の代わりに十字架を前にして、こう言われたのである。ヤコブとヨハネは主の苦しみを共にすることになっていた。1人は剣による死がつかの間にやって来る運命にあった。またほかの1人は、弟子たちのだれよりも長く主に従って働き、非難され、迫害された。「しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」と、イエスは続けられた(マタイ20:21~23)。AA 1563.2

    イエスはこの2人の弟子たちの願いを思いつかせた動機を理解されて、彼らの高慢と野心をおしかりになった。「異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうと同じである」(マタイ20:25~28)。AA 1563.3

    神の国ではえこひいきで地位は得られない。それは働いて得るものではなく、気まぐれにさずけられて受けるものでもない。それは品性の実である。王冠と王座は、達成された1つの状態のしるし、すなわち主イエス・キリストの恵みによって、自我を征服したしるしである。AA 1563.4

    ずっと後になって、ヨハネがキリストの苦難を親しく知るようになり、キリストに共感するようになった時、主イエスはヨハネに、神の国に近い状態のことをお示しになった。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」と、キリストは言われた(黙示黙3:21)。キリストの1番近くに立つ者は、キリストの自己犠牲的な愛の精神を最も深く感受した者である。それは、「高ぶらない、誇らない……自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない」愛である(Ⅰコリント13:4、5)。すなわち主イエスを動かしたように、この弟子を動かして、人類の救いのためにすべてを与え、死にいたるまで生き、働き、犠牲を払う愛である。AA 1563.5

    また別の時にヤコブとヨハネが、伝道の仕事を始めたばかりのころ、ある人に会った。その人は、キリストに従う者として認められていないのに、キリストのみ名によって悪魔を追い出していた。弟子たちはその男に仕事を禁じた。そしてこうすることが正しいと思った。しかしこの問題をキリストの前に出したとき、キリストは彼らをしかって、言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない」(マルコ9:39)。どんな方法ででもキリストに親しみを示した者を拒絶すべきではなかった。弟子たちは狭い、排他的な精神にふけることなく、彼らが主の中に見てきたような広大な同情を示さなければならない。ヤコブとヨハネはこの男をしかることで、主の名誉を心にかけていると思っていた。しかし彼らは、自分たちのために嫉妬しているのだということがわかりはじめた。ヤコブとヨハネは自分たちの誤りを認めて、主の叱責を受け入れた。AA 1563.6

    キリストの教えは、恵みに成長し、みわざにふさわしいものとなるために欠くことのできない柔和と謙遜 と愛を説くもので、ヨハネに最も貴重なものとなった。彼は1つ1つの教えを大事にして、絶えず自分の生活を聖なる模範に一致させる努力をした。ヨハネはキリストの栄光を見分けはじめていた。彼がこれまで追い求めるよう教えられてきた世的なはなやかさや権威ではなく、「父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちて」いるものであった(ヨハネ1:14)。AA 1563.7

    キリストに対するヨハネの愛情の深さと熱烈さは、ヨハネに対するキリストの愛を引き起こしたのではなく、かえってヨハネに対するキリストの愛の結果生じたものである。ヨハネはイエスのようになりたいと望んだ。そして、キリストの愛の人間を変える感化力のもとに、彼は柔和で謙遜になった。自己はイエスの中に隠された。ヨハネは仲間たちのだれよりも、その不思議ないのちの力に服従した。「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見」たと、彼は言っている。「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」(Ⅰヨハネ1:2、ヨハネ1:16)。ヨハネは体験的な知識によって救い主を知った。主の教えが彼の魂に刻みつけられた。彼が救い主の恵みをあかしした時、彼の単純な言葉は、全身に満ちた愛により雄弁になった。AA 1564.1

    ヨハネは、キリストに抱いていた深い愛により、いつもキリストのそば近くにいたいと願った。救い主は12人の弟子たちみんなを愛されたが、ヨハネの気持ちは最も受容性に富んでいた。彼は他のだれよりも若かった。そして、だれよりも、子供のような打ち解けた信頼からイエスに心を開いた。こうして彼はキリストと更に共鳴するようになり、彼を通して救い主の最も深い霊的教えが人々に伝えられた。AA 1564.2

    イエスは天の父を代表する人々を愛される。そしてヨハネはほかの弟子たちにできなかった天の父の愛について語ることができた。彼は神の特質を自分の品性にあらわし、自分の魂の中で感じていた事を仲間に示した。主の栄光が彼の顔にあらわされた。彼を変えた神聖な美しさが、キリストのような輝きをもって彼の顔から輝き出た。ヨハネは敬慕と愛を抱いて救い主を見つめているうちに、キリストに似た者となった。そしてキリストと交わることが彼の1つの望みとなり、ついには彼の性格のうちに主のご品性が反映するようになった。AA 1564.3

    「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。……愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(Ⅰヨハネ3:1、2)。AA 1564.4

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