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患難から栄光へ

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    第8章 ユダヤ議会での証言

    本章は使徒行伝5:12~42に基づくAA 1385.1

    世界に望みと救いをもたらしたのは、あの恥辱と拷問の道具、十字架であった。弟子たちは富もなく、地位の低い人たちにすぎなかった。また、神のみことばのほかに武器もなかった。それでも彼らはキリストの力に満たされて、馬槽と十字架の驚くべき物語を語り、すべての反対に勝利するために出て行った。この世の名誉や承認がなくとも、彼らは信仰の英雄であった。彼らの唇から世界を揺さぶる生き生きとした聖なることばがほとばしり出た。AA 1385.2

    エルサレムは最も偏見の根深いところで、また、悪人として十字架にかけられたキリストについて、最も混乱した考えがひろまっていたところであったが、弟子たちはその町で、キリストのみわざと使命、十字架、復活、また昇天をユダヤ人の前に示し、命のことばを大胆に語り続けた。祭司や役人たちは使徒たちの明瞭で大胆なあかしを聞いて驚いた。実に、よみがえられた救い主の力が弟子たちの上にくだっていて、彼らの働きにしるしや奇跡が伴い、信者の数は日増しに増えていった。弟子たちが通る町では人々が病人を大通りに運び出し、「寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった」。ここにはまた、汚れた霊に苦しめられている人たちも連れてこられた。群衆はその人々のまわりに集まり、いやされた人々は高らかに神をさんびして、救い主のみ名をあがめた。AA 1385.3

    祭司や役人たちは、キリストが自分たち以上に賞揚されていることを知った。復活を信じないサドカイ派の人たちは、使徒たちがキリストのよみがえられたことを断言するのを聞いて腹を立て、もし使徒たちがそのまま、よみがえられた救い主のことを宣べ伝え、その名によって奇跡を行うとすれば、復活はないと説く教理を誰も信じなくなり、自分たち一派はすぐに絶滅してしまうだろうと考えた。またパリサイ人は使徒の教えがユダヤの儀式を傷つけ、犠牲のささげ物を無効とする傾向にあると言って怒った。AA 1385.4

    この新しい教えを抑えようとしたこれまでの努力は、すべてむだであった。こうなると、サドカイ人やパリサイ人は、弟子たちの働きがイエスの死に関しては、自分たちに罪があることを証明することになるので、その働きをやめさせようと決めた。祭司たちはひどく憤慨し、ペテロとヨハネに暴行を加えて、留置場にほうり込んだ。AA 1385.5

    ユダヤの国の指導者たちは、選ばれた民に対する神の御目的の成就にはなはだしく失敗した。主から真理の受託者とされていた人々は、その義務に不忠実だったことを証明した。そこで神は、みわざを行うために他の人々をお選びになった。これらの指導者たちは、彼らが大切にいだいていた教えを放棄していく者たちに向かって、何もわからずに、居丈高になって、義憤だとして、怒りをぶちまけた。彼らは自分たちがみことばを正しく理解しないで、聖書を誤解したり、誤用していた可能性のあることすら認めようとしなかった。彼らはまるで理性を失った人々のように行動した。中には、たかが漁師にしかすぎない者もいるというのに、これらの教師どもが、われわれが民衆に教えていた教義と矛盾する意見を公開する何の権利を持つというのかと、彼らは言った。彼らは、こんな意見を教えることをやめさせなければならない と決意して、教えを説く者たちを投獄したのである。AA 1385.6

    弟子たちはこのような扱いを受けても動じることなく、落胆もしなかった。聖霊は彼らにキリストの語られたことばを思い出させた、「僕はその主大にまさるものではない。……もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである」。「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう」。「わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである」(ヨハネ15:20、21、16:2、4)。AA 1386.1

    宇宙の偉大な支配者、天の神は、弟子たちの投獄の問題をご自身の手の中に引き受けておられた。というのは、人々がみわざに反対して立ち向かってきたからである。夜になって主のみ使いが獄の戸を開き、そして弟子たちに言った、「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。この命令はユダヤの役人たちが与えた命令に真っ向から反対するものであった。しかし弟子たちは、行政官たちに相談して、許可を受けないうちは、そうするわけにいかないと言ったであろうか。そうではない。「行きなさい」と神が言われた時、彼らはそれに従った。「彼らは……夜明けごろ宮にはいって教えはじめた」。AA 1386.2

    ペテロとヨハネが信者たちの前にあらわれて、天使が獄の番人たちの見張りをくぐって自分たちを助け出し、中断している働きに再び取りかかるように命じたいきさつを語ると、兄弟たちは大いに驚き、また、喜んだ。AA 1386.3

    とかくするうちに、大祭司やその仲間の者たちが「議会とイスラエル人の長老一同とを召集し」た。祭司や役人たちは弟子たちを暴動罪で告発し、アナニヤとサッピラを殺し、共謀して祭司たちの権利を剥奪したかどで告訴することに決めた。彼らは暴徒を扇動して事態を解決させ、暴徒がイエスにしたように弟子たちにもしてくれることを望んだ。彼らは、キリストの教えを受け入れなかった多くの人々が、ユダヤ当局の専横な支配をきらって、なんらかの変化を切望しているのに気づいていた。祭司たちは、もしこれらの不満をいだいている者たちが使徒たちの教える真理を受け入れ、イエスをメシヤとして認めることになれば、全民衆の怒りは、宗教の指導者らに向けられ、キリストを殺害した責任をとらされるのではないかと恐れた。そこで彼らは、これを防止するために強硬な手段を講じることにした。AA 1386.4

    祭司たちが囚人を引き出してくるよう使いを差し向けると、獄の戸は固く錠がかけられ、番人も部署についていながら、囚人が中にいないという報告が来て、彼らは非常に驚いた。AA 1386.5

    やがて、驚くべき報告が入ってきた、「『行ってごらんなさい。あなたがたが獄に入れたあの人たちが、宮の庭に立って、民衆を教えています』。そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことは」しなかった。AA 1386.6

    使徒たちは獄屋から奇跡的に救出されたとはいえ、取り調べと刑罰から免れたわけではなかった。キリストは、弟子たちと共におられたとき、「あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ」るであろう、と言われた(マルコ13:9)。神は天使を送って彼らを救出することにより、ご自分の愛のしるしと、ご臨在の確証をお与えになった。こんどは彼らが、信べ伝える福音をさずけてくださった神のために苦しむ番であった。AA 1386.7

    預言者や使徒たちの歴史には、神に忠誠をつくした立派な模範がたくさんある。キリストの証人たちは、神のご命令にそむくより投獄や拷問や死に耐えてきた。ペテロとヨハネが残した記録は、福音の摂理の賜物の中で、他に劣らず英雄的である。この2人を 滅ぼそうと躍起になっていた人々の前に、2度目に立った時も、2人の言葉や態度には何の恐れもためらいも認めることができなかった。そして、大祭司が、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教えを、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」と言った時、ペテロは、「人間に従うよりは、神に従うべきである」と答えた。獄から彼らを救い出して、宮で教えるようにと命じたのは、天からのみ使いであった。彼らは天使の指示に従って、神のご命令に従っていたのである。これこそ、彼らがどんな値を払ってでも、やり通さなければならないことである。AA 1386.8

    それから霊感を与えるみ霊が弟子たちの上にくだった。訴えられた者が訴える者となり、議会を召集した人々をキリストの殺害者として告訴した。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」とペテロは強調した。AA 1387.1

    これを聞いたユダヤ人たちは、激しい怒りのあまり、自分たちで勝手に制裁を加えて、これ以上の裁判を行わず、ローマの役人たちの許可も得ずに、彼らを殺してしまおうと思った。すでにキリストの血を流す罪を犯していた彼らは、今度は主の弟子たちの血で彼らの手を汚すことに躍起になった。AA 1387.2

    議会において、弟子たちの語る言葉の中に神のみ声を認めた者が1人いた。それは評判のよいパリサイ人ガマリエルで、学識があり、高い地位についていた。彼の明晰な知性は、祭司たちのもくろんでいる乱暴な手段が恐ろしい結果を招くことを見抜いた出席している人々に語る前に、彼は囚人たちを外に連れ出すように頼んだ。彼は処理しなければならない問題のかなめをよく知っていた。また、キリストを死につけた人々が、目的遂行のためには手段を選ばないことも知っていた。AA 1387.3

    それから彼は、非常に慎重に、落ち着いて言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、400人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。そののち、人口調査の時に、ガラリヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。AA 1387.4

    祭司たちはガマリエルの考えが正当なことを知って、しかたなく彼に同意した。しかし偏見や憎悪をおさえることができず、弟子たちをむち打ち、今後イエスの名によって語るなら2度と命はないと言いわたして、しぶしぶ釈放した。「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。そして、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり宣べ伝えたりした」。AA 1387.5

    キリストは十字架にかかる少し前に、平安の遺産を弟子たちに残された。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と主は言われた(ヨハネ14:27)。この平安は世と一致することによってくる平安ではない。キリストは悪と妥協することによって平安を買いとられたことはない。キリストが弟子たちに残されたのは、うわべの平安ではなく、心の平安であり、反目や争いの中にも絶えずキリストの証人と共にとどまるものであった。AA 1387.6

    キリストはご自身についてこう言われた、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和 ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ10:34)。平和の君、主は、なお、分裂を引き起こす者であられた。喜ばしい知らせを伝えて、人の子らの心に希望と喜びを起こさせるために来られた主は、人々の心の内奥を燃やし、激しい情熱を起こす戦いを開始された。そして主は従う者たちに警告しておられる、「あなたがたは、この世ではなやみがある」。「人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう」。「しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう」(ヨハネ16:33、ルカ21:12、16)。AA 1387.7

    この預言は著しく成就した。サタンは人々の心をそそのかし、イエスに従う者たちを思いつくかぎりの侮辱、非難、残酷行為に陥れた。これは再び、著しく繰り返されるであろう。この世的な心は、いまだに神の律法に敵対し、その命令に従わないからである。今日の世界は使徒の時代と同様、キリストの原則に少しも調和していない。「彼を十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と囃し立てた同じ憎しみや、弟子たちを迫害に陥れた同じ憎しみは、今もなお、不従順な子らの心に働いている。暗黒時代に人々を牢獄や流刑や死に渡し、宗教裁判のひどい拷問を思いつき、聖バーソロミューの大虐殺を計画して執行し、またスミスフィールドの火責めをあおったその同じ精神が、改心されていない人々の心の中で、今も悪意をいだいて活発に働いている。真理の歴史は常に善悪間の闘争の記録であった。福音の宣伝は、この世で反対と危険と損失と受難に直面しながらも常に先へと伝えられてきた。AA 1388.1

    過去において、キリストのために迫害を受けてきた人々が持っていた力は何であったのか。それは、神との一致、聖霊との一致、キリストとの一致であった。多くの者は、そしりと迫害によって、地上の友から引き離されたが、キリストの愛からは引き離されていなかった。魂が、あらしに悩まされ、真理のためにそしりを受ける時ほど、救い主の愛を深く受ける時はない。「わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」とキリストは言われた(ヨハネ14:21)。信者が真理のためにこの地上の法廷に立つ時、キリストは彼のそばにお立ちになる。彼が牢獄の中に閉じこめられる時、キリストは彼にあらわれてその愛によって彼の心を励まされる。彼がキリストのために死刑を受ける時、救い主は、人々は肉体を殺すことができても、魂を損なうことはできないのだと、彼に言われる。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(ヨハネ16:33、イザヤ41:10)。AA 1388.2

    「主に信頼する者は、動かされることなくて、とこしえにあるシオンの山のようである。山々がエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる。」「彼らのいのちを、しえたげと暴力とからあがなう。彼らの血は彼の目に尊い」(詩篇125:1、2、72:14)。AA 1388.3

    「万軍の主は彼らを守られる……その日、彼らの神、主は、彼らを救い、その民を羊のように養われる。彼らは冠の玉のように、その地に輝く」(ゼカリヤ9:15、16)。AA 1388.4

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