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患難から栄光へ

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    第33章 労働の祝福

    パウロは、神の働きを正しく維持することについての聖書の明白な教えを、彼の改心者たちに注意深く示し、また、彼自身、福音の使者として、生活のために世俗の仕事の「労働をせずにいる権利」を主張しながらも、しばしば文明の大中心地における伝道において、生活を支えるために、手の仕事に従事した(Ⅰコリント9:6)。AA 1487.2

    ユダヤ人の間では、肉体的労働は、変わった事でも、卑しい事でもなかった。ヘブル人は、子供たちに勤労の習慣をつけさせるように、モーセを通して教えられていた。そして、青少年に肉体労働をさせずに育てることは、罪とみなされていた。たとえ、聖職のための教育を受ける子供であっても、実際生活の知識は不可欠であると思われていた。親が富んでいようが貧しかろうが、すべての青少年は、何かの職業の訓練を受けた。こうした訓練を子供たちに与えることを怠った親は、主の教えに背いたものとみなされた。パウロは、このような習慣に従って、若い時から天幕作りの職業を学んでいた。AA 1487.3

    パウロは、キリストの弟子になる前は、高い地位についていたので、生活のために手仕事をしなくてもよかった。しかし、後に、キリストの働きを推進するために財産を全部使い果たしたとき、彼は時々、生活費を得るために手仕事をしたのである。特に、動機が誤解されそうな所においては、そうだったのである。AA 1487.4

    パウロがみことばを宣べ伝えながら手仕事をして自給したことを、まず最初に読むのは、彼がテサロニケにいた時のことである。彼は、自分が「重んじられることができた」ことを彼らに思い起こさせ、次のようにつけ加えた。「兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた」(Ⅰテサロニケ2:6、9)。またパウロは、テサロニケ人への第2の手紙の中で、自分と同労者たちが、彼らの所にいた時には、「人からパンをもらって食べることもしなかった」と言った。「あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである」と彼は書いた(Ⅱテサロニケ3:8、9)。AA 1487.5

    パウロは、テサロニケで、労働することを拒む人々に出会った。彼が後で、次のように書いたのは、この人々に対してであった。「あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主 イエス・キリストによって命じまた勧める」。パウロは、テサロニケで働いていた時に、気を配ってこのような人々に正しい模範を示すようにした。「また、あなたがたの所にいた時に、『働こうとしない者は、食べることもしてはならない』と命じておいた」と彼は書いた(Ⅱテサロニケ3:11、12、10)。AA 1487.6

    サタンは、各時代において、教会に狂信的精神を引き起こして、神のしもべたちの働きを損おうとした。パウロの時代でもそうであった。後の宗教改革の時代でもそうであった。ウィクリフ、ルター、その他、その感化と信仰によって世界に祝福をもたらした多くの人々も、熱心が過ぎてバランスを失い、清められていない者たちを、狂信におとしいれようとする敵の策略に遭遇したのである。欺かれた人々は、真の清めに到達すれば、心はこの世の思いをすべて超越し、全く仕事をしなくなると教えた。他の人々は、聖書の言葉を極端に解釈して、働くことは罪であると教えた。すなわち、クリスチャンは、自分のことや家族のことなどの物質的幸福について考えるべきではなく、その全生涯を霊的な事のためにささげるべきであると言った。使徒パウロの教えと模範は、こうした極端な意見に対する譴責であった。AA 1488.1

    パウロは、テサロニケにいた時に、全く彼の手仕事だけに依存していたのではなかった。彼はあとで、その町における彼の経験に言及して、彼がそこにいた間にピリピの信者たちから受けた贈り物を感謝して、彼らに次のように書いた。「また、テサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた」(ピリピ4:16)。彼は、この援助を受けたとは言っても、テサロニケの人々の前で勤勉のよい模範を示すことに注意した。それは、彼が貪ったなどといういわれのない非難を、だれからも受けることのないためであり、また、肉体労働について狂信的な意見を持った人々に、実際的譴責を与えるためであった。AA 1488.2

    パウロは、初めてコリントを訪問した時、自分が、異国人の動機に疑惑を持つ人々の中にいることに気づいた。海岸沿いのギリシヤ人は、腕ききの商人であった。彼らは、長い間抜け目のない商売のやり方に慣れていたので、利益を得ることは敬虔なことであると信じ、また、金をもうけることは、正しい方法であろうと詐欺的方法であろうと、称賛に値することと考えるに至っていた。パウロは、彼らの特性を熟知していたので、自分を富ますために福音を伝えていると言わせる機会を、彼らに与えたくなかった。彼は、コリントの聴衆の援助を当然のこととして受けることができたのであるが、進んでこの権利を放棄した。それは彼が、利益のために福音を伝えているという不当な疑惑を受けて、彼の伝道者としての有用性と成功を傷つけたくなかったからである。彼は、誤解を招くあらゆる口実を取り除いて、彼の言葉の力を失うまいと努めた。AA 1488.3

    パウロは、コリントに到着して間もなく、「アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。……彼らは近ごろイタリヤから出てきたのである」。彼らは、彼の「同業であった」。アクラとプリスキラは、クラウデオ帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させた時に追放され、コリントに来て、そこで天幕業を営んでいた。パウロは、彼らのことを人にたずねた。そして、彼らが、神を恐れ、彼らの周囲の邪悪な影響を避けようとしていることを知って、「その家に住み込んで、一緒に仕事をした。……パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた」(使徒行伝18:2~4)。AA 1488.4

    後で、シラスとテモテが、コリントにいるパウロに加わった。この兄弟たちは、働きを支えるために、マケドニヤの教会がささげた資金を持ってきた。AA 1488.5

    パウロは、コリントに強力な教会を設立した後で、コリント人への第2の手紙を書いて、彼が彼らの中で、どんな生活をしたかを振りかえって次のように問うた。「それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、神の福音を価なしにあなたがたに宣べ伝えたことが、罪になるのだろうか。わたしは他の諸教会をかすめたと言われながら得た金で、あなたがたに奉仕し、あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた。こうして、わたしはすべての事につき、あなたがたに重荷を 負わせまいと努めてきたし、今後も努めよう。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言う、この誇がアカヤ地方で封じられるようなことは、決してない」(Ⅱコリント11:7~10)。AA 1488.6

    パウロは、コリントにおけるこのような行動の理由を説明している。それは、「機会をねらっている者ども」にそしる口実を与えないためであった(Ⅱコリント11:12)。彼は、天幕を作りながら、福音の宣教もまた忠実に行った。彼自身、その働きについて言っている。「わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた」。彼は続けて言っている。「いったい、あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何か。ただ、このわたしがあなたがたに負担をかけなかったことだけではないか。この不義は、どうか、ゆるしてもらいたい。さて、わたしは今、3度目にあなたがたの所に行く用意をしている。しかし、負担はかけないつもりである。わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから。……そこでわたしは……大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう」(Ⅱコリント12:12~15)。AA 1489.1

    パウロは、長期にわたったエペソ伝道において、その地域一帯に積極的な伝道活動を推し進めた3か年間、ふたたび、彼の職業に従事した。コリントにいた時と同様に、エペソにおいても、アクラとプリスキラがパウロと共にいて、彼の心を引き立てた。2人は、パウロの第2伝道旅行が終わって、アジヤに帰った時に、彼に従って行ったのであった。AA 1489.2

    パウロが手を使って働くことは、福音の伝道者にふさわしくないと言って、反対する人々があった。パウロのような、最高の地位を占める伝道者が、言葉の宣教に、手の仕事を結合させなければならないのだろうか。働き人は給料を受ける価値があるのではなかろうか。なぜパウロは、明らかによりよい事のために用いることができる時間を、天幕の製造に費やさねばならないのだろうか。AA 1489.3

    しかし、パウロは、このように費やした時間を損失であるとは考えなかった。彼は、アクラと働いていた時、大教師であられるお方との連絡を保ちつづけ、救い主のためにあかしを立て、援助が必要な人々を助ける、どんな機会をも見失わなかった。彼の心は、常に、霊的知識を追求していた。彼は、霊的事物に関する教えを同労者に与え、また、勤勉さと徹底的に仕事をすることの模範をも示した。彼は仕事の速い、熟練した働き人で、実業に励み、「霊に燃え、主に仕え」た(ローマ12:11)。パウロは、彼の職業に従事したときに、他の方法では接することができない階級の人々に近づくことができた。彼は、仲間たちに、普通の技芸の手腕は、神の賜物であることを示した。神は、賜物とそれを正しく用いる知恵とを共にお与えになるのである。パウロは、日常の労働においてさえ、神に栄誉を帰すべきことを教えた。労働で固くなった彼の手は、キリストの伝道者としての彼の感動的な訴えの迫力を少しも損じなかった。AA 1489.4

    パウロは、時には、昼も夜も働いた。それは、彼自身を支えるためだけでなくて、同労者たちを助けるためでもあった。彼は、収入をルカと分かち合った。そして彼は、テモテを援助した。パウロは、他の人々の窮乏を助けるために、飢えをしのんだことさえあった。彼の生涯は、無我の生涯であった。彼は、その伝道の終わりごろ、ミレトにおいて、エペソの長老たちに訣別の言葉を語った時、苦労の跡を示す手をあげて、言った。「わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」(使徒行伝20:33~35)。AA 1489.5

    もし伝道者たちが、キリストのみわざにおいて、困難と窮乏に苦しんでいると感じるならば、心の中で、パウロが働いた働き場を想像してみるとよい。この神の選びを受けたパウロが天幕を作っていた時、彼 は、使徒としての働きによって当然受けるべきであった報酬のために働いていたのであった。AA 1489.6

    労働は、のろいではなくて、祝福である。怠惰な精神は、敬神の念を失わせ、神の霊を悲しませる。よどんだ池は、不快なものである。しかし、清く流れる小川は、全地に健康と喜びをまき散らす。パウロは、肉体的労働を怠る者は、やがて衰弱することを知っていた。彼は、若い伝道者たちが、彼らの手を動かし、筋骨を活動させることにより、伝道地において彼らを待ち受けている苦労と窮乏に耐える力が与えられることを、彼らに教えようと望んだ。そして彼は、もし自分が自分の体のすべての部分を適当に運動させないならば、彼自身の教えが生気と活力を失うことを自覚していた。AA 1490.1

    怠惰な者は、人生の普通の義務を忠実に実行することによって得られる貴重な経験を受け損じる。少数の者ではなくて、幾千という人々が、恵みのうちに神が授けられた祝福を、ただ消費するために生存している。彼らは、神が彼らにゆだねられた富に対して、感謝の供え物を主に持ってくることを忘れる。彼らは、主が彼らにゆだねられたタラントを賢明に活用して、ただ消費者であるだけでなくて、生産者でもあるべきことを忘れている。もし彼らが、主の助手として彼らがなすよう主が望んでおられる働きを理解したならば、彼らは責任を回避しないことであろう。AA 1490.2

    宣教のために神の召命を受けたと感じる青年の有用性は大いに、彼らが仕事に従事する態度いかんにかかっている。伝道の働きのために神に選ばれた人々は、その高い召しの証拠を示し、ありとあらゆる方法を用いて、有能な働き人になろうとする。彼らは、計画と組織と実行に適した者になるための経験を得たいと努力する。彼らは、自分たちの召しの神聖さを自覚し、克己によって、ますます主のようになり、主の慈悲と愛と真理をあらわす。そして、彼らが、ゆだねられたタラントを発達させるために熱心になった時に、教会は、賢明な援助を彼らに与えなければならない。AA 1490.3

    自分たちは宣教のために召されたと感じる者をみな、その家族とともに、直ちに教会の継続的経済支持に依存するように奨励してはならない。経験の浅い者は、おだてられて増長し、分別を欠く奨励を受けて、自分たちでは何のまじめな努力もせず、全的に援助を受けることを期待する危険がある。神の働きを拡張するためにささげられた資金は、援助によって利己的野心を満足させ、安楽な生活を送り、ただ説教することだけを希望する人々のために消費すべきではない。AA 1490.4

    自分の才能を伝道の働きに活用しようと望む青年たちは、テサロニケ、コリント、エペソ、その他の地におけるパウロの模範から、有益な教訓を学ぶことができる。パウロは、雄弁な説教家であって、特別の働きをするために神に選ばれたのであったが、労働に従事することを恥じず、彼が愛したみわざのために犠牲を払うことをいとわなかった。彼は、コリント人へ書いた。「今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍」んだ(Ⅰコリント4:11、12)。AA 1490.5

    この世界の最大の教師の1人であるパウロは、最も崇高な義務と同様に、最も低い義務も快く果たした。パウロは、主のために働いた時、事情が求めるならば、喜んで自分の職業に従事した。しかし彼は、福音の敵の反対に対処するために、または、人々をイエスに導く特別の機会を活用するために、いっでも世俗の仕事を放棄する用意があった。彼の熱心と勤勉は、怠惰と安逸を貪る心に対する譴責である。AA 1490.6

    パウロは、当時教会の中で勢力を得つつあった意見、すなわち、福音は完全に肉体的労働の必要から解放された者によってのみ有効に宣布されるといり意見に反する模範を示した。彼は、福音の真理を知らない人が多くいる場所で、献身した信徒が何をすることができるかということを、実際的方法で説明した。彼の行動は、卑しい労働者たちに励ましを与え、日毎の仕事によって生活を支えると同時に、神の働きを前進させるために彼らのなし得ることをしようという願望を起こさせた。アクラとプリスキラは、その全時間を福音の宣教のためにささげるようには召さ れなかったが、これら身分の卑しい働き人たちは、アポロに真理をさらに完全に示すために、神に用いられたのである。主は、ご自分の目的を達成なさるために、種々の器をお用いになる。そして、特別の才能をもった人々が、福音を教え、説教する働きにその全精力をささげるように選ばれる一方において、按手礼を受けていない他の多くの人々が、救霊の重要な務めを行うように召されているのである。AA 1490.7

    自給伝道者の前に広い働きの場が開かれている。多くの者は、時間の幾分かを何かの労働に携わりながら、伝道の尊い経験を得ることができる。そして、このような方法によって、助けを必要としている伝道地の重要な働きのための強力な働き人が養成されるのである。AA 1491.1

    宣教と教えとのために、たゆまず労している自己犠牲的神のしもべは、心に重い荷を負っている。彼は、その働きを時間ではからない。彼の働きは、給料に影響されることなく、また、不利な状況下にあるからといって、義務を怠らない。彼は、天から任命を受けた。そして、ゆだねられた働きが終わった時に、彼は、その報賞を天から受けることを望むのである。AA 1491.2

    このような働き人が、不必要な心配から解放されて、「これらの事を実行し、それを励みなさい」とパウロがテモテに言った命令に服従する十分な機会が彼らに与えられることが、神のみこころである。(Ⅰテモテ4:15)。彼らは、心と体の活力を保つために十分運動するよう注意しなければならないけれども、彼らがその大部分の時間を世俗の職業に費やさなければならないということは、神の計画ではない。AA 1491.3

    これらの忠実な働き人は、喜んで福音のために費用を使い、また、彼ら自身をも使い尽くそうとするが、誘惑がないわけではない。教会が彼らに適当な経済的支持を与えないために、彼らが悩み苦しみにおちいる時、ある者たちは誘惑者に激しく悩まされる。彼らは、自分たちの働きが軽視されているのを見る時に、意気消沈する。確かに彼らは、審判の時に正しい報賞が与えられることを待望して、これによって望みはつながれる。しかし、そうしている間、彼らの家族は、食物や衣服がなければならない。もし彼らが、神の任命から解放されたと感じることができれば、彼らは、喜んで手を使って働くことであろう。しかし、彼らに十分な資金を支給すべき人々に、先見の明がないにもかかわらず、彼らは、自分たちの時間が神に属することを自覚している。そこで、彼らは、何か事業をすれば速やかに窮乏を脱することができるという誘惑に打ち勝って、努力を続け、自分たちの生命よりも尊んでいるみわざを推進するのである。しかし、彼らがこうするためには、パウロの模範にならって、彼らの伝道の働きを推進しながら、一時、手の仕事に従事しなければならないことであろう。これは、彼ら自身の利益のためではなくて、地上の神のみわざを発展させるためである。AA 1491.4

    神のしもべは、時折、なすべき働きをすることが不可能だと思う。それは、強力で堅固な働きを続ける資金がないからである。ある者は、彼らの所有する物資では、しなければならないと感じることをすべて行うことは不可能ではないかと思う。しかし、もし彼らが信仰をもって前進すれば、神の救いがあらわされ、彼らの努力は必ず成功するのである。世界のあらゆる場所に行けと弟子たちにお命じになった神は、神の命令に従って神の使命を伝えようとするすべての働き人を、支えてくださるのである。AA 1491.5

    主は、みわざを推進するにあたって、常に万事を神のしもべたちに明らかにされるとは限らない。神は、時には、神の民を、信仰をもって前進しなければならないような状態におとしいれて、彼らの信仰を試みられる。神は、時折、彼らを厳しい困難な場所に至らせ、彼らの足が、ヨルダン川の水に触れると思われる時に、前進することをお命じになる。このような時に、神のしもべたちは、熱烈な信仰の祈りを神にささげ、神が、彼らの前に道を開いて、彼らを広い場所に導いて下さることを祈るのである。AA 1491.6

    神の使命者たちが、主のぶどう園の困窮している場所に対する責任を認めて、主イエスの精神をもって、魂の悔い改めのためにたゆまず働くならば、神の天使は、彼らの前に道を開き、神の働きを前進させる ために必要な資金は備えられる。光を受けた人々は、自分たちのためになされた働きを支えるために、心からささげるのである。彼らは、援助を求めるすべての呼び声に惜しみなく応答する。そして、神の霊は、ただ国内だけでなく、遠方の地における主のみわざを支えるように、彼らの心を動かされる。こうして、他の所で働いている働き人たちに力が与えられ、主の働きは、神ご自身がお定めになった方法で前進するのである。AA 1491.7

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