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キリストの実物教訓

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    第7章 パン種のようなもの

    本章は、マタイ13:33、ルカ13:20、21に基づくCOL 1219.6

    ガリラヤの預言者イエスの言葉を聞こうとして集まった人々の中には、多くの教養ある人や有力者がいた。湖畔でお教えになるイエスを取り巻いている群衆に、不思議な目をみはる者も、彼らの中にはいた。大群集の中には、社会の各層の人々が集まっていた。貧者、無知な者、ぼろを着たこじき、いかにも悪人らしい強盗、障害のある人、放蕩者、商人、ひま人など、地位の高低も、貧富の差別もなく、すべての者が、キリストの言葉を聞こうとして、つめ寄っていた。教養のある人々は、この不思議な群衆をながめて、神の国とは、このような人々によって成り立っているのであろうか、との疑問をいだいた。救い主は、再び、たとえによってお答えになった。COL 1219.7

    「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って3斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる。」パン種は、ユダヤ人の間では、よく罪の象徴に用いられていた。過越の祭りの時には、心から罪を捨て去るとともに、家の中からすべてのパン種を取り除くように指示されていた。キリストは、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい」と警告を発せられた。なお、使徒パウロも、「悪意と邪悪とのパン種」ということを述べている。しかし、救い主のこのたとえにおいては、パン種は天国をあらわすために用いられている。それは、神の恵みの人を生かす力、同化する力を説明しているのである。COL 1219.8

    どんなに汚れ、堕落した人であっても、この力の及 ばないところまで落ち込んではいない。どんな人でも、聖霊に服従するならば、新しい生命の原則が植えつけられ、失われた神のみかたちが人類の中に回復されるのである。COL 1219.9

    しかし、人間は、意志の力によって、自分を変えることはできない。人間には、この変化を起こさせる力がない。パン種——全く外部からのもの——が、粉の中に入れられない限り、希望する変心が起こらないのである。COL 1220.1

    そのように、罪人が、栄光の王国にふさわしい者とされる前に、神の恵みを受けなければならない。世のどんな教育も文化も、堕落した罪の子を、天の子とすることはできない。どうしても神からの更新力が必要である。この変化は、聖霊によってのみもたらされる。すべて救われることを望む者は、地位の高低、貧富の差別なく、聖霊の力に従わなければならない。COL 1220.2

    パン種が、粉の中に混ぜられるとそれが内部から働き出すように、神の恵みが、人の生活を変化させるのは、心を新たにすることによってである。単なる外的変化だけでは、わたしたちを神と調和させるのに不十分である。人々は、種々の悪習慣を改め、心を入れかえて、クリスチャンになろうと望むのであるが、それでは、出発点が誤っているのである。まず始めるべきところは、心なのである。COL 1220.3

    信仰を口で表明することと、心の中に真理を持っていることとは、全く別のことである。単に真理を知っているだけでは、十分ではない。真理の知識はもっていても、心の思いは依然として変わらないことが多い。心が改まり、清まらなければならないのである。COL 1220.4

    神の戒めは、従うべきものであるという、単なる義務の観念をもって守ろうとする人は、服従の喜びを味わうことができない。このような人は、従っていないのである。神の戒めは、人間生来の傾向に反するもので重荷であると感じるようでは、クリスチャン生活を送っていないことが解るのである。真の服従は、内部に秘められた原則が、外にあらわれ出ることである。それは、義と神のおきてを慕う愛から発するのである。あらゆる義の本質は、わたしたちのあがない主に対する忠誠である。この忠誠心が、わたしたちに、正しいことであるからという理由で正しい行いをさせ、善行は、神が喜ばれることであるからという理由で義を行わせるのである。COL 1220.5

    聖霊による改心という大真理は、キリストがニコデモに言われた言葉に示されている。「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。……肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:3~8)。COL 1220.6

    使徒パウロも、聖霊に感じて書いている。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし——あなたがたの救われたのは、恵みによるのである——キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」(エペソ2:4~8)。COL 1220.7

    粉の中に混ぜられたパン種は、目で見ることはできないが、粉全体を発酵させてしまう。そのように、真理のパン種もだれにも気づかれないうちに、徐々に魂を変えていくのである。生まれながらの傾向が、なごやかに静められる。新しい思想、新しい感情、新しい動機が植えつけられる。キリストの生涯が、新しい品性の標準になる。精神は一変し、その人の能力は、新しい方向に向かって行動を起こす。これは、何も新しい能力が与えられるのではなくて、すでに持っている能力が清められるのである。良心が目覚める。こうして、神のために奉仕するにふさわしい品性の特質が与えられるのである。COL 1220.8

    しばしば、次のような疑問が起こる。では、神の言葉を信じると言っている人の、言葉にも、精神にも、品性にも改革が見られないのは、いったいどうしたことであろうか。自分がよく考えて計画したことに対する反対があったりすると、がまんできずに、ついに短気を起こし、するどい激しい言葉を口にする者が多いのはなぜであろうか。また、彼らの生活には、世俗の人が持っているのと同じ利己心、放縦、短気、はげしい言葉がみられる。彼らは、真理を全く知らないかのように、世人と同じ傷つきやすい誇り、同じ生来の傾向、同じ品性のゆがみをもっている。というのは、彼らが悔い改めていないからである。彼らは真理のパン種を持っていない。パン種は、まだその仕事を始める機会がないのである。彼らの先天的および後天的な悪への傾向が、パン種の改変力に屈服していないのである。彼らの生活は、キリストの恵みに欠けていることと、品性を改変するキリストの力を信じていないことをあらわしている。COL 1221.1

    「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)。聖書は、品性を改変する大きな能力である。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」とキリストは祈られた(ヨハネ17:17)。神の言葉を学んで従うならば、それは、心の中で活動を始め、すべての清くない性質を征服する。また、聖霊が降下して、罪を指摘する。すると、心の中に生じた信仰は、キリストに対する愛によって活動しはじめ、体も心も魂も、すべてをキリストのかたちに一致させるのである。こうして神は、み心を行うためにわたしたちをお用いになるのである。与えられた力は、内から外へと作用して、わたしたちに伝えられた真理を他に伝えさせるのである。COL 1221.2

    神のみ言葉の真理は、人間が持っている大きな必要を満たすもので、信仰によって魂を改心させるものである。これは、あまりにも崇高な原則であるから、日常生活にあてはめるには、清く、神聖すぎるものであると考えてはならない。こうした真理は、天にまで達し、永遠に及ぶものでありながら、その生きた感化は、人間経験の中に織り込まれなければならないものである。それは人生の大事、小事を問わず、どんな事の中にも染みとおって行かなければならない。COL 1221.3

    真理のパン種が心に入ると、欲望を制し、思想を清め、性質を美しくする。知力と精神力を活発にする。感情と愛情も豊富にされる。COL 1221.4

    こうした原則に従おうとする人を、世は不思議に思う。利己的で金を愛する人々は、この世の富、名誉、快楽を得ることだけを目的にして生きている。彼らは永遠の世界のことを考えの中に入れていない。しかし、キリストに従う者は、それらのことに心を奪われてはならない。彼は、キリストのために苦しみにあい、自分を犠牲にする。それは、この世の中で、希望もなくキリストもない魂を救うという、大きな仕事を支えるためである。世は、このような人を理解することができない。しかし、彼は永遠の実在をながめている。人をあがなう力をもったキリストの愛が、彼の他のすべての動機を支配して、世の腐敗に染まらないように守るのである。COL 1221.5

    神の言葉は、人間家族の間のすべての交わりを清めるものでなければならない。真理のパン種は、競争心や野望をいだいて、自分を第一にしようとする心を起こさせない。天からの真の愛は、利己的でもなければ、変わりやすいものでもない。人の称賛に左右されるものでもない。神の恵みを受けた人の心は、神に対する愛と、キリストが身代わりになって死なれた人々に対する愛とにあふれる。人に、自分を認めさせようと努力することもない。人々が、自分を愛し喜ばせるからとか、また、自分の価値を認めるから、その人々を愛するというのではなくて、彼らがキリストによってあがなわれた者であるという理由に基づいて、彼らを愛するのである。自分の動機や言行がどんなに誤解され、悪く言われても、それにこだわることなく、平静に自分の道を進んでいくのである。彼らは、親切と同情の念、へりくだった思いを持つとともに、希望に満たされ、常に神の憐れみと愛とに信頼している。COL 1221.6

    使徒も、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行い において聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」と勧めている(Ⅰペテロ1:15、16)。キリストの恵みは、人の性質や声の調子を支配するはずである。兄弟間の礼儀正しい、やさしい思いやりや、親切な励ましの言葉などが恵みの働きの結果としてあらわれてくる。このような家庭には、天使が宿るのである。その生活からは、かぐわしい香りが放たれ、清い香りのように、神の前に上っていく。愛は、親切、柔和、忍耐、寛容となってあらわされる。COL 1221.7

    人の容貌も変わる。キリストを愛してその戒めを守る人々の顔には、彼らの心の中に住んでおられるキリストが輝き出る。そこに真理が書かれている。美しい天の平和があらわされる。そして、人間の愛を越えた柔和がいつもあらわされるのである。COL 1222.1

    真理のパン種は、人を全く一変させて、荒々しい人を洗練し、粗野な人を柔和にし、利己的な人を物おしみしない人にする。不純なものは清められ、小羊の血によって洗われる。心と魂のすべての能力が、パン種の生命力によって、神の生命と調和するのである。人性をもった人間が、神の性質にあずかる者となる。こうして人間が、すぐれた完全な品性をもつようになって、キリストがあがめられることになる。こうした変化が起こる時、天使は賛美の声をあげ、神とキリストは、彼らが神のかたちに変えられたことを喜ばれるのである。COL 1222.2

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