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キリストの実物教訓

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    宝の探究

    わたしたちは、神の言葉を研究の課題としなければならない。子供たちは、聖書の真理に従って教育しなければならない。これは尽きることのない宝である。ところが、人々がその宝を見いだすことができないのは、それを自分のものとするまで捜さないためである。実に多くの人々が、真理に関する推測だけで満足している。ただ表面だけの研究に満足して、すべての重要なことを知りつくしたと思い込んでいる。熱心に努力することは、神のみ言葉の中で、隠された宝を掘り出すことであるといわれているが、彼らは、自分たちでそうするには、あまりにもなまけ者で、人の言った言葉を真理だとうのみにする。ところが、人間の作り話は信頼できないばかりか、危険である。それは、神のおられるべきところに、人間をおき、「主がこう仰せになる」とあるべきところに、人間の言葉を持ってくるのである。COL 1225.1

    キリストは真理である。キリストの言葉は真理であって、そこには表面に表れた以上の深い意味がこめられている。すべてキリストの言われたことは、一見、見栄えはなかったが、その外見に似合わぬ価値があった。聖霊によって心を開かれた者は、これらの言葉の価値を悟り、たとえ、これらが隠された宝であっても、真理の宝石であることを認める。COL 1225.2

    神の言葉は、人間の理論や思索によっては、とうてい理解することはできない。自分は哲学がわかると思っている人々は、知識の倉を開き、教会を異端から守るためには、自分たちの説明がどうしても必要だと考える。ところが、このような説明が、かえって、誤った理論と異端を持ちこむ結果になった。人は、込み入っていると思われる聖句をなんとかして説明しようと努めたが、それは、明瞭にしようとしてかえって解りにくくしてしまったのである。COL 1225.3

    祭司やパリサイ人たちは、神の言葉に彼らの解釈をつけて、偉大なことをしているように思っていた。しかし、キリストは、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」と言われた(マルコ12:24)。また、あなたがたは「人間のいましめを教として教え」ていると、お責めになった(マルコ7:7)。彼らは、神の言葉の教師であり、それに精通しているはずであったにもかかわらず、み言葉の実行者ではなかった。サタンが、彼らの目をくらましていたために、言葉の真の意味を悟ることができなかった。COL 1225.4

    今日、多くの人がこれと同じことをしている。多くの教会が、この罪に陥っている。今日のいわゆる知者、学者といわれる人々が、昔のユダヤ人の教師たちと同じ経験をくり返す危険が多分にある。彼らが、神の言葉を偽って解釈するために、人々は、このような誤った思想にまどわされて、暗黒の中に閉ざされてしまう。COL 1225.5

    聖書は、伝説とか人間の思索などといった薄暗い光のもとで読む必要はない。聖書を人間の伝説や想像によって説明することは、あたかも、太陽の前に、たいまつをかざすようなものである。神の清い言葉は、地上のたいまつの微光によって照らされる必要はない。聖書それ自体が光であり、神の栄光のあらわれである。聖書と比べるならば、どんな光もその輝きがあせてしまうのである。COL 1225.6

    とはいうものの、聖書は、熱心に研究し、精密に調べるべきものである。なまけ者が真理の明確な理解を持つようになることはあり得ない。この世の中のど んな幸福も、熱心に耐え忍んで努力することなしに得られるものではない。どんな事業においても成功をおさめようとすれば、物事をしようとする意志と、必ず実がみのるという確信とがなければならない。霊的知識も、熱心な努力なしに得られるものではない。真理の宝を見いだそうと願う者は、鉱夫が地中に隠された宝を掘るように、自分で掘っていかなければならない。中途半端なことではだめである。老いも若きも、神の言葉を読むだけでなくて、隠してある宝のように、祈りとともに真理を探究し、全心を打ちこんで研究することが大切である。こうする人々は、必ず報いられる。それは、キリストが理解力を深めてくださるからである。COL 1225.7

    わたしたちの救いは、聖書の中の真理を知ることにかかっている。わたしたちがこの知識を持つことは、神のみこころである。尊い聖書を、飢えかわくように、さぐり、調べなさい。ちょうど、鉱夫が金鉱を発見するために、地中深くさぐるように、神の言葉を調べなさい。あなたの神との関係と、あなたに対する神のみこころとを確かめるまでは、決して探究をやめてはならないのである。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」と、キリストは言われた(ヨハネ14:13、14)。COL 1226.1

    敬神の念が厚く、才能のある人々でさえ、永遠に実在するお方があるのを知りながらも、見えるもののために、見えないものの栄光がさえぎられて、理解できないことがよくあるものである。隠された宝の探究に成功しようとする者は、世の物を追求する以上の熱心さをもって追求しなければならない。その愛情と、力量のすべてを探究のためにささげなければならない。COL 1226.2

    また、不服従のために、聖書から学び得るはずのばく大な知識の扉が閉ざされてしまうことがある。理解するということは、神の戒めに服従することである。聖書は、人間の偏見と嫉視(しっし)に応じて変えられるべきものではない。聖書は、謙遜に真理の知識を求め、真理に従おうとする人だけが理解することができるのである。COL 1226.3

    わたしは、救われるために、何をすべきかと、あなたは、おたずねになるであろうか。それでは、あなたは、まず研究に入るにあたって、先入観、すなわち自分のもっている先天的、後天的な考えを捨てなければならない。自分の意見を支持する目的で、聖書を探究するならば、決して真理を発見することはできない。主は、いったい、なんと言っておられるかということを学ぶために、探究しなければならない。探究しているうちに、強く心に感銘を受け、たとえ、自説が真理と一致していないことがわかっても、それに合わせようとして、真理を曲解せずに、与えられた光を受け入れなければならない。神の言葉の中から驚くべきものを見ることができるように、心を開かなければならない。COL 1226.4

    キリストを世の救い主として信じるためには、よく磨かれた知力がなければならない。そして、その知力は、天の宝を見わけて、その真価を認め得る心に支配されたものでなければならない。この信仰は、悔い改めと心の変化とも切り離すことができない。信仰を持つことは、発見された福音の宝に含まれているすべての義務とともに、福音を受けいれることである。COL 1226.5

    「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。人間はいろいろと推測したり想像したりはできても、信仰の目がないならば、宝を見ることはできない。キリストは、このはかり知れない尊い宝を、わたしたちのために確保するために、その生命をお与えになったのである。しかし、キリストの血を信じる信仰による新生が伴わないならば、それは滅び行く魂にとって、罪の赦しにも宝にもならないのである。COL 1226.6

    神の言葉の真理を理解するためには、聖霊の光に照らされなければならない。太陽が暗黒を追いやって、光を降り注ぐのでなければ、自然界の美を見ることができない。そのように、神の言葉という宝も、義の太陽の輝かしい光によってあらわされなければ、認めることはできない。COL 1226.7

    無限の愛と慈悲によって、天から送られた聖霊は、キリストに絶対的信仰をいだいているすべての者に、 神に関することを啓示する。聖霊は、魂の救いに関する重大な真理を、人の心に強く印象づける。こうして生命の道は、踏み誤ることができないほど明らかにされるのである。COL 1226.8

    わたしたちが聖書を研究する時には、神の聖霊の光がみ言葉を照らし、わたしたちがみ言葉の宝を認めて、理解できるようになることを祈り求めなければならない。COL 1227.1

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